第36話 十七項目
読み取り機が、鳴らなかった。
カードをかざす。赤いランプが点いて、そのまま消える。
もう一度かざした。同じだった。
「第三層は封鎖中です」
警備員が横から言った。二十代の若い人で、言いにくそうにしている。
「はい」
俺はもう一度、カードをかざした。
◇
三度目も、赤い。
警備員は何も言わない。止めもしない。
俺はカードを財布に戻し、ゲートの前から動けずにいた。
四月八日から、二百七十日。
一日も飛ばしていない。日雇いの日も、朝に降りてから倉庫へ行った。年末年始も降りた。
その場所に、俺はもう立てない。
ゲートの向こうで、探索者の列が動いている。読み取り機が短く鳴る音が、二秒おきに聞こえた。四月から二百七十日、俺もあの音の中にいた。
◇
「あの」
警備員が声をかけてきた。
「なにか、置いてきたものとかありますか。備品とか、私物とか」
「あります」
「あー。そういうのは、申請すれば取りに行けます。書式は三階です」
「はい」
◇
「水が、あるので」
警備員が、聞き返した。
「え?」
「畑に、水をやらないと枯れるので」
警備員は少し黙って、それから、目を伏せた。
「……すみません」
この人が謝ることは、何もない。
制度を作ったのはこの人ではないし、封鎖を決めたのもこの人ではない。ただ、赤いランプの前に立っているだけだ。
◇
アパートに戻ったのは、九時前だった。
机の上に、二つの紙束が置いてある。
昨日、並べたままだ。
やることが、ない。
◇
七年勤めていた会社が潰れたときも、こんな朝が続いた。
あのときは求人を探す先があった。ゼロ件だったが、探す動作はできた。
今回は、探す先もない。
俺は椅子に座って、紙束を見ていた。
三十分、そうしていた。
冷蔵庫に、一昨日穫ったカブが四つ入っている。層内なら三日置いても硬いが、ここでは翌日から柔らかくなる。あと二日で、食べられなくなる。
畑には、まだ株が生きている。豆が三十センチの高さで並んでいて、トマトは実をつけていて、葉物は収穫期だ。
水をやる人間が、いない。
◇
携帯が鳴った。灯からだ。
出なかった。
十一時にもう一度鳴る。出ない。
十四時に三度目が鳴って、それにも出なかった。
何を話せばいいのか、分からない。
◇
夕方になって、俺は青いファイルを開いた。
『第二農地 土壌改良記録』。九年前から六年前までの三年ぶん。
目的があって開いたのではない。手を動かす対象が、それしかなかった。
最初のページから、順にめくった。
◇
日付。気温。水分量。電気伝導度。団粒率。
六年前の秋のページで、指が止まった。
その日、キャベツが穫れている。三百二十玉。
欄外に、一行だけメモがある。
『三年かかった。だが再現できる』
◇
俺は、その一行を、しばらく見ていた。
九年前の俺は、再現できると書いている。
誰が再現するのかは、書いていない。
たぶん、自分がやるつもりでいた。会社が続いて、次の農地が来て、そこでまた三年かける。そういう続きを想定していた。
プロジェクトは翌年に打ち切られ、七年後に会社が潰れた。
◇
第三層の記録を、隣に開いた。
四月八日から、封鎖の日まで。百九十日ぶん。
項目が違う。塩害地では魔素を測っていないし、第三層では電気伝導度を測らなかった。
二つを並べて、同じページ番号のところで比べた。
◇
一時間ほど、それをやった。
塩害地のほうは万年筆で書いてある。会社が支給した文具だ。第三層のほうは百円のボールペンで、途中で三回インクが変わっている。
紙の質も違う。会社の方眼紙は厚く、いま使っているのは文具店の一番安いやつだった。
塩害地の記録に十九項目、第三層の記録に二十三項目。
同じ名前の項目が、いくつかある。
紙を一枚出して、両方に共通するものを書き出した。
◇
十七あった。
◇
地温。含水率。pH。粒径。作土厚。日照時間または照度。灌水量。排水速度。葉色。草丈。節間長。発芽率。生育日数。作付け間隔。土壌の匂い。手で握ったときの崩れ方。
そして、測定を行った時刻。
◇
俺は、その十七項目を見ていた。
塩害地は塩で、第三層は魔素だ。原因物質も、侵入経路も、改良の方法も、かかる年月も違っている。
同じなのは、この十七項目だけだった。
土が違っても、毒が違っても、俺は同じ十七を測っていた。
意識してやっていたわけではない。九年前の自分がそう測って、それを覚えていて、第三層でも同じことをした。
◇
九年前のメモを、もう一度読んだ。
『三年かかった。だが再現できる』
再現できると、俺は書いた。
だが、九年間、誰も再現していない。塩害地の手法を使った人間は、俺以外に一人もいない。
なぜか。
◇
記録が、報告書の形をしていたからだ。
あの報告書には、何をやったかが書いてある。
何をやってはいけないかを、俺は書かなかった。
塩害地の二年目、水路に近い一角で苗を三十株無駄にした。第三層の四月に、壁際で三株焼いた。九月に、第五層で三十株全滅させた。
全部、俺の頭の中にしかない。
◇
冷蔵庫のカブを一つ出して、割って食べた。
まだ硬い。味は落ちていない。あと二日で駄目になる。
食べ終えてから、新しいノートを出した。
一冊目の一ページ目に、十七項目を書いた。
書いてから、その下に、二行足した。
『この十七を、毎日、同じ時刻に測る』
『測らなかった日に、何が起きたかを書く』
二行目は、九年前の報告書には無かったものだ。
あのときは、うまくいった手順だけを書いた。書かなかったことのほうが多い。
水路に近い一角で三十株無駄にしたことも、その原因が塩の抜けきらない滞水だったことも、報告書には一行もない。
◇
携帯が鳴った。
四度目だった。
俺は今度は出た。
四度目で出るというのは、三度無視したということでもある。
◇
「悠真さん!」
灯の声が、耳から離れるくらい大きかった。
「よかった、生きてた」
「生きてます」
「三回出ないから、あたし、もう」
「すみません」
◇
灯はしばらく息を整えて、それから聞いた。
「今、どこですか」
「部屋です」
「何してるんですか」
◇
俺は、机の上のノートを見た。
「記録を、整理しています」
「記録?」
「三年ぶんと、百九十日ぶんです」
「塩害地の三年と、第三層の百九十日を、突き合わせてます」
「なんでですか」
◇
なぜ、と聞かれて、少し考える。
畑には入れない。売ることも、撮ることもできない。三雲さんは停職で、大牟田さんは入院している。
できることが、これしかなかった。
だが、それだけではない気もした。
◇
「お願いが、あります」
「え」
「火野さんが撮った映像を、全部、見せてもらえませんか」
◇
電話の向こうで、灯が黙る。
三秒くらいだ。
◇
「全部って、どのくらいですか」
「三年ぶんです」
◇
もう一度、沈黙が来た。
今度は五秒ある。
◇
「六百時間あります」
灯が言った。
「六百時間、全部でいいですか」




