第35話 階層機能の、著しい低下
協会本部の一階に、陳情受付という窓口がある。
平日の午前十時。俺は紙束を二つ抱えて、その前に立っていた。
片方は変色している。『第二農地 土壌改良記録』。三年ぶん、方眼紙で三百枚以上。
もう片方は、まだ新しい。第三層の工程記録。四月八日から今日まで、百九十日ぶん。三点測定に変えてから欄が三倍になっているので、厚みは同じくらいになった。
受付の職員が、その二つを見た。
「あの、これは何の書類でしょうか」
◇
「工程の記録です」
「工程、といいますと」
「魔素環境で作物を育てるための手順です。三週間かかります」
職員は困った顔をした。
「ええと、それを、どうされたいんですか」
◇
俺は、生まれて初めて、自分から何かを求めた。
七年間の会社員生活で、昇給を頼んだことも、部署の予算を要求したこともない。塩害地のプロジェクトが打ち切られたときも、続けさせてくださいとは言わなかった。
「これを、基準にしてもらえませんか」
◇
職員は少し待ってから、こう聞き返した。
「基準、というのは」
「守るべき手順として、決めてほしいんです」
「決める、というのは、どこがですか」
「協会です」
「協会のどこでしょう」
答えられなかった。
◇
三十分後、俺は三階の技術管理課にいた。
窓口の職員が上に確認して、そこへ回された。
技術管理課の担当者は、俺の紙束を五分ほど見て、それからこう言った。
「これは、個人からのご提案ですね」
「はい」
「所定の様式はお持ちですか」
「様式」
「技術提案の受付様式です。第八号様式といいます」
◇
「どこで、もらえますか」
担当者は端末を叩いた。
しばらく画面を見て、それから、少し言いにくそうにした。
「……この様式、法人向けなんです」
「はい」
「提出者の欄が、法人名と法人番号になっていて。個人の欄が、ありません」
◇
「個人だと、どうすればいいですか」
「前例が、ないですね」
担当者はもう一度端末を叩いた。
「大学の先生が個人で出された例はあります。ですが、そのときは所属で受け付けています。所属のない個人からの技術提案は、記録上ゼロ件です」
「ゼロ件というのは」
「制度が始まって二十年で、一度もない、ということです」
◇
「作れませんか」
「様式をですか」
「はい」
「私の権限では」
担当者は言葉を切った。
悪意はない。困っているだけだ。
「あの、笹倉さん。差し出がましいことを言いますが」
「はい」
「どこかに所属されるのが、いちばん早いです」
◇
紙束を抱え直して、建物を出た。
自動ドアが開くとき、警備員が「お疲れさまでした」と言った。何もしていないので、疲れてはいなかった。
所属。
二か月前に、それを提案してきた人がいる。開発責任者として入ってくれ、給料も出す、と。
あの人は、第八層で馴致を十四日で切り上げた。
俺には、渡す先がない。
◇
昼過ぎの電車に乗った。
紙束を膝の上に抱えて、窓の外を見ていた。
十一月の街は、四月より色が少ない。
携帯が震えた。
速報の通知だった。
◇
『第三ダンジョン第三層 魔素濃度 基準値の31%を記録』
◇
俺はその見出しを、二度読んだ。
三十一。
九月十四日に三十四だった。二か月で三下がっている。速度は落ちている。作物が吸える量には上限があるからだ。
それでも、下がり続けている。
販売が止まっても、撮影が止まっても、人が来なくなっても。俺が毎日水をやっている限り、株は吸う。
◇
次の通知が来たのは、五分後だった。
『協会、第三ダンジョン第三層の階層機能低下を確認 立入禁止措置を検討』
◇
電車が駅に着いた。
降りた。
ホームを歩き、階段を上り、改札を出る。定期は持っていない。切符でもない。区画賃借者の入場証と同じ財布に、交通系のカードが一枚入っている。
自分がどこへ向かっているのか、途中まで分からなかった。
気づいたら、協会板橋支部の前に立っていた。
◇
ガラス張りの入口の横に、屋外用の掲示板がある。
四月八日、俺はここに立っていた。
ハローワークの帰りだった。求人はゼロ件で、残高は十九万四千円で、掲示板の一番下に日に焼けた紙が一枚貼ってあった。
今日も、紙が一枚貼ってある。
貼られたばかりで、まだ端が丸まっていない。
◇
『第三ダンジョン第三層 立入禁止措置について
当該階層において、階層機能の著しい低下が認められるため、
当面のあいだ、全区画の立入を禁止する。
区画貸与契約は、本日付で停止とする。
日本ダンジョン管理協会 環境保全部/区画管理課』
◇
その下に、小さい紙がもう一枚あった。
区画管理課の名前で出された、契約停止の事務通知。
担当者の欄に、滝本啓一と書いてある。
◇
俺は、その紙を三回読んだ。
四月八日と同じ場所に、同じ姿勢で立って、正反対の紙を読んでいる。
◇
隣に、灯が立っていた。
いつ来たのか分からない。連絡はしていない。たぶん、速報を見て、ここに来たのだろう。
灯は紙を読んで、それから声を出さずに泣いた。
肩は動いていない。顎の先から、顎の下へ、水が伝っていくのが横から見えただけだ。
◇
俺は泣かなかった。
泣かなかったのは、強かったからではない。
頭の中で、別のことが動いていたからだ。
畝には、まだ株が生きている。豆が三十センチの高さで並んでいて、A-7のトマトは実をつけている。B-1の葉物は収穫期だ。
入れなくなれば、水が止まる。
水が止まれば、三日で萎れる。一週間で枯れる。
枯れれば、株の中に固定されていた魔素が、分解されて土に戻る。
濃度は、上がる。
◇
そこまで考えて、俺は自分の考えていることに気づいた。
協会は、階層が死にかけていると思っている。
だから封鎖する。
封鎖すれば、作物が枯れる。作物が枯れれば、濃度が戻る。
戻ったのを見て、協会は「回復した」と言うだろう。
◇
それは、正しい。
彼らの持っている前提の上では、完全に正しい。
俺が四月から百九十日かけてやったことは、彼らの記録の上では「原因不明の低下」であり、封鎖後の上昇は「自然回復」になる。
誰も嘘をつかない。
嘘をつかないまま、全部が逆に記録される。
土は嘘をつかない、と父は言った。
土は嘘をつかないが、土の数字を読む人間は、平気で逆に読む。
◇
灯が、袖で目を拭いた。
「悠真さん」
「はい」
「どうするんですか」
◇
俺は答えなかった。
紙束を抱え直して、駅のほうへ歩き出した。
二つの紙束は、抱えると胸の高さまである。三年と、六か月半ぶんだ。
どちらも、誰にも読まれていない。
◇
アパートに戻って、机に置いた。
段ボールから、青いファイルを出す。塩害地の三年。
その隣に、第三層の百九十日を並べる。
二つの高さが、同じになった。
◇
俺は椅子に座って、その二つを見ていた。
窓の外を電車が通って、部屋がわずかに震えた。
三年と、六か月半。
どちらも、まだ、誰にも読まれていない。




