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第34話 停職三か月

 人事課の応接室は、四人掛けのテーブルに椅子が四脚あって、そのうち二脚が使われていた。


 三雲静は、渡された紙を両手で受け取った。


『処分通知書

 所属 板橋支部 観測分析課

 氏名 三雲静

 処分 停職三か月

 事由 業務上知り得た内部情報を、正当な手続きを経ずに外部へ提供したこと』


  ◇


「間違いありませんか」


 人事課の担当者は、四十代の女性だった。声に責める調子はない。事務の声だ。


「間違いありません」

「弁明の機会がありますが」

「必要ありません」

「一週間、猶予があります」

「使いません」


 担当者は少しだけ手を止めた。


「本当に、よろしいですか」

「はい。事実ですので」


  ◇


 九月十四日、彼女は私用の端末から、観測データ百六十日ぶんを外部のアドレスに送信した。

 午後八時二十分。分析室には誰もいなかった。送信ボタンを押したとき、部屋のどこにも音は響かなかった。


 発覚したのは、送信そのものではない。

 十月に入って、笹倉悠真が週次で提出している使用実態報告の中に、協会の観測値と完全に一致する数字が含まれていた。区画賃借者が持ちうる情報ではない。


 誰かが渡した。

 当たり前の推論だ。

 観測値にアクセスできる人間は、板橋支部に十一人いる。そのうち、笹倉悠真の名前を知っていて、彼の区画に足を運んだことがあるのは一人だけだった。

 調べるまでもなかった。


  ◇


「なぜ、こんなことを」


 担当者が聞いた。


 三雲は、少し考えてから答えた。


「説明できない数字を、説明できる人に見せました」


 担当者はペンを止めた。


「それは、あなたの仕事の範囲ですか」

「いいえ」


  ◇


 弁明はしなかった。


 弁明できることは、いくつかあった。

 協会の観測値を渡したのは事実だが、その数字は環境保全部の規制判断にも使われている。同じ数字が、片方では規制の根拠になり、もう片方では処分の理由になる。それはおかしい、と言うことはできた。


 だが言えば、規制のほうも問題にされる。

 規制の根拠が揺らげば、環境保全部が困る。困れば、蒲田正之の判断が問われる。

 三雲は、あの課長のことをほとんど知らない。会議で二度見ただけだ。二度とも、一言も発言していなかった。


 三雲は、その人が病室に一人で行ったことを知らない。知らないまま、彼を庇う理由も持っていない。


 言わなかったのは、単に、事実だったからだ。


  ◇


 分析室に戻ったのは、十一時過ぎだった。


 同僚が三人、席についている。誰も顔を上げない。上げないようにしているのが分かる程度に、不自然だ。

 いちばん近い席の後輩が、一度だけこちらを見て、すぐ画面に戻った。その子には、三系統照合の手順を三年かけて教えた。


 三雲は自分の席に座って、引き出しを開けた。

 九年間、同じ席だ。窓から遠く、プリンタに近い。定時観測のデータが上がってくる端末が一台。そのファンの音を、彼女は九年ぶん聞いている。


  ◇


 九年ぶんの荷物は、思ったより少なかった。


 観測ノートが十四冊。年度ごとに一冊と、途中で足りなくなった年が五年ぶん。

 いちばん厚いのは今年のものだ。四月八日から、欄が三倍に増えている。彼女が自分で行を足したからだ。

 私物の計算尺。大学のときに買ったもので、いまは誰も使わない。数字の桁を確かめるときだけ、彼女はいまでも回す。指が覚えている道具は、電卓より早い。


 そして、予備の眼鏡。


  ◇


 ケースを開けて、眼鏡を取り出した。


 度の強いほうだ。数字を疑う日のために置いてある。

 四月十二日に、湿度が四十一パーセントを示した朝に掛けた。五月二十日、濃度が六十八パーセントに落ちた朝にも掛けた。


 三雲はそれを、机の上に置いた。


「もう、数字を疑う日は来ないから」


 誰にも聞こえない声で、そう言った。


  ◇


 置いてから、五秒ほど見ていた。


 それから、手を伸ばして、鞄に入れ直した。


  ◇


 最後に、第三層の推移グラフを印刷した。


 四月八日から今日まで、百九十日ぶん。

 線は、右下がりのまま折れていない。規制の日を境にしても、傾きが変わっていない。


 用紙が一枚、プリンタから出てきた。インクが薄い。誰も補充していない。九年間、この作業を彼女がやっていた。


 三雲はそれを二つ折りにして、鞄に入れた。

 内部資料の持ち出しにあたるかどうかは、考えなかった。停職三か月の処分は、もう出ている。


  ◇


 支部の建物を出たのは、正午前だった。


 門のところに、火野灯が立っていた。


  ◇


「あの」


 灯は俯いたまま、頭を下げた。


「三週間前のときは、すみませんでした」


 三雲は足を止めた。


「何のことですか」

「怒鳴ったやつです。廊下で」

「ああ」


 三雲は少しだけ首を傾げた。


「あれは、九月ですね。三週間ではなく、五週間前です」

「そこ、正確じゃなくていいです」

「正確でないと、記録になりません」

「そういうとこですよ」


  ◇


 灯は顔を上げた。


「あの。あたし、聞いたんですけど」

「はい」

「三雲さん、処分されたって聞きました。掲示板に出てました」

「掲示板に」

「協会の職員が処分されたって。名前は出てないですけど、部署が」


 三雲は鞄を持ち直した。


「停職三か月です」

「なんでですか」

「規則を破ったので」

「なんで破ったんですか」

「規則より、優先することがあったので」

「何ですか」

「数字が読まれることです」


  ◇


 三雲は、その質問に答えるのに、少し時間をかけた。


「あなたが怒鳴ったからです」

「え」

「五週間前です。この建物の、三階の廊下で」


  ◇


  ◇


 灯が固まった。


「え」

「廊下で、証拠、証拠って、みんなそればっかり、と」

「……すみません」

「謝らなくていいです」


  ◇


 三雲は門を出て、二歩進んでから、振り返った。


「私は九年間、規則を守ってきました。一度も破っていません。遅刻も、私用のコピーもです」


  ◇


「守っている間、何も起きませんでした。何も起きないことを、私は正しさだと思っていました」


 灯は何も言わなかった。


「あの日、あなたが怒鳴ったとき、私は初めて、何も起きないことが正しいのかどうかを考えました」


  ◇


「いい怒鳴り方でした。根拠はありませんでしたが、方向は合っていました」


  ◇


 三雲は、そこで初めて、少しだけ表情を動かした。


 笑ったと言えるほどではない。口の端が、二ミリほど上がっただけだ。

 だが灯は、その二ミリを見ていた。


  ◇


「三雲さん」


 三雲が歩き出そうとしたところで、灯が呼び止めた。


「あの数字、どうなるんですか」


  ◇


 三雲は前を向いたまま答えた。


「観測は続きます。三系統は自動で回りますし、照合は後輩ができます」


  ◇


「私がいなくても、機械は正直なので」


  ◇


 三雲は駅のほうへ歩いていった。

 灯はしばらく門の前に立って、その背中を見ていた。歩き方が速くも遅くもない。九年間、毎朝六時十五分に間に合うように歩いてきた速度だ。


  ◇


 九日後、その機械が、基準値の三十一パーセントという数字を出す。


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