第33話 四十メートル
火野灯は、第三層の昇降機ホールの壁に手を当てていた。
何もない壁だ。コンクリートの打ちっぱなしで、非常灯の表示すらない。第三層には救護所がないので、距離の表示も出ていない。
彼女はそこにしばらく手を置いてから、俺のほうを振り返った。
「あの」
声が、いつもと違った。
「ひとつだけ、聞いてもらえますか」
◇
その日の朝、灯は「今日は撮らないで、話がしたい」と連絡してきた。
撮影は九月から禁止されている。撮らないのは当たり前で、わざわざ言うようなことではない。
だから俺は、その一行を三度読んだ。
豆の支柱を立てる作業を午前中で終わらせて、区画の測定を済ませて、それから昇降機ホールへ上がった。灯は先に来ていた。
◇
「わたし、兄がいたんです」
一人称が、変わっていた。
配信のときの言い方だ。素のときは「あたし」で、カメラの前では「わたし」になる。三か月前に、本人がそう説明していた。
「火野遼っていいます。二十六歳でした」
「はい」
「三年前に、死にました」
◇
「探索者でした。ソロで。腕は、よくなかったです。C級で止まってて、装備も古くて」
灯は壁に背を預けた。
「三年前の四月十九日、この層で事故がありました」
◇
俺は何も言わなかった。
言うべきことが思いつかなかったのではない。
灯が、途中で止まらないように喋っているのが分かったからだ。止めたら、次はいつ話せるか分からない。
「魔物が湧いたんです。年に二回しか出ない層で。運が悪かったって、みんな言いました」
「はい」
「装備の留め具が壊れてて、逃げるのが遅れたそうです。それも、運が悪かったって」
「留め具」
「はい。金具のところが割れてて、外れなかったって。二年前に一度、修理に出したことがあるやつでした」
留め具の話は、大牟田も言っていた。五層から上がるときは指が開かなくて、留め具が外せない。それがこの仕事だと思っていた、と。
俺はそれを、この場で言わなかった。
◇
「協会の報告書、見せてもらいました」
灯は自分の膝のあたりを見ていた。
「一枚でした。事故の概要が四行で、原因の欄に一行。『本人の実力不足による』」
◇
「それだけです」
◇
「素材が出ない層で、C級のソロで、誰も見てない場所で死んだから。調べる理由がなかったんだと思います。装備の点検記録も取ってなかったし、その日に何が湧いたかも、記録に残ってません」
灯は顔を上げた。
「あたし、そのとき二十一で。大学出たばっかりで」
一人称が、戻った。
「なんにもできなくて」
◇
半年後、灯は探索者の資格を取った。
D級。戦闘は苦手で、いまも得意ではない。魔物が湧いたときに逃げる速度だけが、三年で上がった。
資格を取ってから、彼女は第三層を撮り始めた。
「なんで、と思いますよね」
◇
「誰かが見てれば、と思ったんです」
灯は壁から背を離した。
「誰かが撮ってれば、次に誰か死んだとき、『実力不足』で終わらないかもしれない。何が湧いたのか、装備がどうだったのか、映像が残ってれば分かるかもしれない。そう思って」
「はい」
「三年やって、同接三桁でした。いちばん多い日で、二百十四人です」
◇
「誰も見ないんです。当たり前ですよね。何も起きない層の映像なんて。魔物も出ない、素材も出ない、人も来ない。あたし、三年間、ずっと何もない通路を撮ってました」
「毎週ですか」
「週三です。バイトの休みの日に」
「三年で」
「四百八十回くらいです。数えたことあります」
灯は笑おうとして、失敗した。
「登録者八百人です。三年で」
◇
「そしたら、四月に」
◇
灯が、こちらを見た。
「光が見えたんです。通路の角を曲がったところで」
◇
「何もないはずの方角に、紫っぽい光が漏れてて。近づいたら、杭が四本立ってるだけの区画に、変な鉄の骨組みがあって、その下に人がしゃがんでて」
◇
「あそこ」
灯は、東の通路の方角を指した。
「悠真さんの畑、A-7ですよね」
「はい」
「そこから、四十メートルです」
「知ってました」
「え」
「区画の位置は、契約のときに図面で見ています。四十メートル先に何があったかは、知りませんでした」
◇
俺は、その数字を聞いた。
四十メートル。
毎日歩いている距離だ。区画から昇降機ホールへ向かうとき、最初の四十メートル。灰土の上に、俺の靴跡が四か月半ぶん重なっている。
資材を運ぶときは台車を押して通る。塩ビ管も、発電機も、堆肥の袋も、全部そこを通った。
「兄が倒れてたのは、そこです」
◇
しばらく、二人とも何も言わなかった。
壁のほうから、水の滴る音がしている。俺が四月に掘った溝に、いまも水が落ちている音だ。
三年前、この層は無音だった。
◇
俺は、口を開いた。
開いて、言葉が出てこない。
もう一度開いて、また出てこない。
三度目に、ようやく声になったのが、これだ。
「……すみません」
◇
灯が首を横に振る。
「謝らないでください」
◇
「あたし、嬉しかったんです」
◇
その言葉は、予想していない。
「誰も来ない場所に、毎日来る人がいて」
灯の声は震えていない。震えていないぶん、聞いているこちらの喉が詰まる。
「兄ちゃんが死んだ場所に、野菜が生えて」
◇
「あたし、それを撮れたんです。三年やって、やっと」
◇
灯は、そこで一度、息を吸った。
「だから、あの日、悠真さんを責めたのは違うんです。大牟田さんが倒れたとき。あれ、悠真さんのせいじゃないって、分かってて言いました」
「はい」
「なんで言ったか、自分でも分かってて」
◇
「三年前に、誰も何も言わなかったから」
◇
灯は壁に手を戻した。
何もない壁だ。三年前も、たぶん何もなかった。
◇
「誰かが、誰かに、何か言ってほしかったんだと思います。あのとき。だから、言える相手がいたときに、言っちゃったんです」
灯は、そこで初めてこちらを見た。
「最低ですよね」
「いえ」
「最低です」
◇
俺は、袋を持っていた。
その日も、売れないトマトを四つ持って降りていた。持っていく先はない。捨てるのは違う気がする。だから毎日、持って歩いている。
その袋を、俺は灯に差し出した。
中で四つ、底に寄っている。今朝穫ったものだ。ヘタが五枚に割れて、反り返っている。
「あの」
「はい」
「四十メートルのところに」
◇
言い直した。
「置いてきても、いいですか」
◇
灯は、しばらく袋を見ていた。
それから、両手で受け取った。
「……いいですか、じゃなくて」
声が、途中で切れた。
「一緒に、行ってもらえますか」
◇
四十メートルを、二人で歩いた。
いつもの倍の時間がかかる。灯が途中で二度、足を止めたからだ。
着いた場所は、灰土の上で、他のどことも変わらなかった。印もない。三年たてば、跡は残らない。
俺は袋からトマトを四つ出して、灰土の上に並べた。
並べてから、水筒の水を少しだけかけた。理由はない。畑でやっている動作が、そのまま出た。




