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第32話 私も、昔、同じものを見ました

 男は、病室の扉の前で三十秒立っていた。


 紙袋を片手に提げている。スーツ。細いフレームの眼鏡。

 ノックをしようとして手を上げ、下ろし、また上げる。


 三度目でようやく、扉を二回叩いた。


  ◇


「どうぞ」


 大牟田源治は、ベッドを起こして座っていた。


 腕に点滴が入っている。顔色は悪いが、目は開いている。

 入ってきた男を見て、大牟田は少しだけ首をかしげた。


「協会の者です」


 男はそう名乗った。部署も肩書きも言わない。

 大牟田は十二年、探索者をやっている。協会の人間は嫌というほど見てきた。事故の聞き取りに来る職員は、必ず最初に部署と名前を言う。言わないのは、公務で来ていないときだけだ。


  ◇


「このたびは、止められませんでした」


 男は紙袋をベッドの脇の台に置いて、そのまま頭を下げた。


 深い。角度が深すぎて、大牟田のほうが先に目をそらした。

 三秒、そのままでいる。


「……あんた」


 大牟田が言った。


「あんたが止めたんだろ。あの兄ちゃんの畑を」


  ◇


 男は頭を上げた。


「はい。私が止めました」


 否定も、言い訳もしない。


 大牟田は点滴の管を目で追ってから、口を開いた。


「じゃあ、あんたのせいじゃねえか」


「はい」


 大牟田は、この返事で少し面食らった。

 協会の人間は、こういうときに必ず言い訳をする。規定です。判断は組織として行いました。個人の責任ではありません。十二年で、何度も聞いた。

 目の前の男は、それを一つも言わない。


  ◇


 病室が静かになった。


 廊下で、配膳のワゴンが通る音がする。金属の車輪が、リノリウムの床で鳴った。


「なあ」

「はい」

「あんた、何しに来たんだ」


 男は台の上の紙袋を見た。


「謝罪に来ました」

「協会の代表としてか」

「いいえ」


 男は少し間を置いてから、こう続けた。


「個人です」


  ◇


「上には、言ってあるのか」

「言っていません」

「有給か」

「はい」

「言ったら怒られるやつか」

「たぶん」


 大牟田は、ふうん、と言う。


 それから、少しだけ体を起こし直した。点滴の管が引っ張られて、支柱が小さく鳴る。

 この男が謝りに来た理由が、まだ分からない。分からないが、分からないまま二十分が過ぎている。

 嘘をついている人間は、二十分もたない。


「座れよ」

「いえ」

「立ってられると、こっちが気詰まりなんだ」


  ◇


 男は丸椅子に座った。

 姿勢がいい。背もたれのない椅子に、背筋を伸ばして腰を下ろす。膝の上で手を組んだまま、身動きをしない。

 大牟田は、こういう座り方をする人間を一人だけ知っている。十二年前、探索者資格の面接をした試験官だ。あのときも、こんなふうに何も言わずに座っていた。


「聞いていいか」

「どうぞ」

「なんであんた、そこまでするんだ。仕事だろ」

「仕事です」

「仕事なら、頭下げに来る必要ねえだろ。俺、協会に文句言ってねえぞ」

「言われる前に来ました」

「なんでだよ」


  ◇


 男は、窓のほうを見た。


 九月の朝の光が、ブラインドの隙間から入っている。斜めの線が、床に何本も並んでいた。

 その線を、男はずいぶん長く見ていた。


「私も、昔、同じものを見ました」


  ◇


「同じもの?」


 男は答えなかった。


 大牟田は待った。

 待っても続きが来ないので、聞き方を変えた。


「そのとき、どうなった」


 男は窓を見たまま動かない。


「……お大事に」


  ◇


 男が立ち上がる。


 紙袋の中身は、果物だった。梨が三つ。包装もリボンもない、スーパーの袋のままだ。


 箱に入っていない。値札のシールも剥がしていない。


「これ、うまいのか」

「分かりません」

「分からないのに買ってきたのか」

「はい」

「なんで梨なんだ」

「病室にいる人が、梨を食べているところを、以前に見たことがあります」

「誰が」

 男は答えなかった。


 大牟田が笑う。笑ったら脇腹に痛みが走ったらしく、途中で止まった。


「変な人だな、あんた」


  ◇


 男は病室を出た。


 扉を閉めて、廊下を五歩ほど歩いたところで、向かいから来た人間と鉢合わせた。


 作業着。ゴム長。手に、透明な袋。


  ◇


 笹倉悠真は、その男の顔を見て、足を止めた。


「あの」


 言いかけて、続きが出てこない。

 何を言おうとしたのかは、自分でも分からない。


 男が遮った。


「あなたは間違っていません」


  ◇


 俺は顔を上げた。


 蒲田正之は、廊下の真ん中に立っていた。手ぶらだ。紙袋は、たぶん病室に置いてきたのだろう。

 九月五日に畑で会ってから、二か月近く経っている。あのとき革靴の上にビニールのカバーをかけていた人が、今日は普通の靴で立っていた。


「間違っていない、というのは」

「あなたの工程のことです。あれは正しいと思います」


  ◇


「では、なぜ」


 俺の声は、自分でも思ったより低かった。


「なぜ、止めたんですか」


 蒲田さんは、俺の手元を見た。透明な袋の中に、トマトが四つ入っている。第三層で今朝穫ったものだ。売れないので、持ってきた。


「間違っていないことと、人が死なないことは、別の話です」


  ◇


「私はそれを、十六年、考えています」


 声の高さが、変わらなかった。

 怒っているのでも、悲しんでいるのでもない。決まった書類を読み上げるときの平坦さで、その人はそう言った。


  ◇


 十六年。


 その数字が、俺の中で何かに引っかかる。

 引っかかったが、それが何かは分からない。


「十六年前に、何かあったんですか」


 蒲田さんは答えない。


 答えずに、俺の持っている袋のほうを、もう一度見た。


「そちらは」

「はい」

「あなたの畑のものですか」

「はい」

「彼に渡されるんですか」

「渡せません。販売も譲渡も、停止されているので」


  ◇


 蒲田さんの視線が、一瞬だけ止まった。


「では、なぜ持ってきたのですか」


 俺は袋を見た。

 中でトマトが四つ、透明な袋の底に寄っている。ヘタが五枚に割れて、反り返っていた。


 答えは、単純だった。

 持っていく先がなかったからだ。売れない。譲れない。捨てるのは違う気がする。だから持って歩いていた。


 言葉にすると、みっともない。

 この人に説明したところで、規制が解けるわけでもない。


「……分かりません」


  ◇


 蒲田さんは、それ以上聞かなかった。


 通り過ぎて、四歩ほど歩いてから、振り返らずにこう言った。


「規制は、解きません」


  ◇


「ですが、報告書は読みます」

「報告書」

「週次の使用実態報告です。あなたが毎週出しているものです」

「あれ、誰も読んでいないと思っていました」

「私が読んでいます。四週分、全部」

「なぜ読むんですか」

「読むと決めたので」


 それだけ言って、蒲田さんは歩き出した。


  ◇


 俺は廊下に立ったまま、その背中を見ていた。


 蛍光灯が一本、昨日と同じ間隔で点滅している。三回速く、少し間があって、また三回。


 袋の中のトマトが、外の温度で少しずつ緩んでいくのが、手のひらから分かる。

 層内なら、三日置いても硬いままだった。地上に上げると、翌日には端から柔らかくなる。

 理由は、まだ分かっていない。


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