第31話 時給千二百円の男が、膝をついた
第五層、東の採掘区。
大牟田源治は、魔石を三つ袋に入れたところで、視界が白くなった。
膝が先に落ちた。手をついたが、肘が曲がらない。顔の横に灰土が来て、それから、口の中に鉄の味が広がった。
「おい」
誰かの声がした。近くにいた探索者だ。
大牟田は返事をしようとして、口を開けた。
出てきたのは、血の混じった泡だった。
◇
搬送の連絡が入ったのは、十一時四十分。
俺は第三層で豆の支柱を立てていた。麻紐を結ぶ途中で、灯が携帯を見て、それから俺の名前を呼んだ。呼び方が、いつもと違う。
結びかけの紐を、そのままにして走った。
◇
板橋の総合病院。
処置室の扉の前に、俺と灯が立っていた。
廊下は消毒液の匂いがして、蛍光灯が一本、切れかけて点滅している。
二時間待った。
その間、灯は一度も座らない。俺も立ったままでいた。座ると、待っていることが確定してしまう気がする。
医師が出てきたのは、十四時過ぎだ。
「ご家族の方は」
「いません」
「ご友人ですか」
「はい」
答えてから、そう言っていいのか少し迷った。
週に三日ほど昇降機ホールで会って、飯を分けて、護衛をしてもらっている。呼び方を決めたことがない。
医師は三十代後半くらいで、白衣の裾に薄い染みがあった。ポケットに手を入れたまま、こう言った。
「魔素中毒です。急性の症状が出ていますが、命に別状はありません」
言葉の順番が逆だったら、俺はその場に座り込んでいたと思う。
◇
膝から力が抜けたのは、灯のほうだ。
壁に手をついて、そのまま座り込む。
「あの」
俺は聞いた。
「原因は、分かりますか」
「摂取です」
「摂取」
「呼吸ではありません。血中の濃度分布から、消化管経由と判断しました。固定されていない魔素を、継続的に摂取したと思われます」
「継続的、というのは」
「一度ではないという意味です。十日から二週間、毎日という程度でしょう」
◇
「固定されていない、というのは」
医師は少し驚いた顔をした。
「その言葉をご存知ですか」
「はい」
「ご職業は」
「農業です」
「どちらで」
「第三ダンジョンの、三層です」
医師の眉が動いた。だが、それ以上は聞かなかった。医者は患者の話しか聞かない。
医師は数秒黙って、それから言った。
「患者さんのご自宅から、これが」
◇
看護師が段ボールを持ってきた。
通販の箱だ。開封済みで、中に緩衝材と、トマトが六個残っている。
箱の側面に、印字がある。
『産地:東京都板橋区(第三ダンジョン浅層)』
俺はその一行を、長く見ていた。
トマトを一つ、手に取らせてもらった。ヘタが六枚で、反っていない。断面は見なくても分かる。うちのではない。
分かったところで、大牟田さんはもう十日ぶんを食べている。
◇
「これは、あなたの?」
「違います」
「ですが、産地が」
「第三ダンジョンの浅層は、一層から十層までです。俺の畑は三層だけです」
医師は箱を看護師に返した。
「そうですか。では、そこは私の管轄ではありませんので」
◇
灯が立ち上がった。
俺の腕を掴んだ。九月に魔物から逃げたときと、同じ掴み方だった。
「悠真さん」
「はい」
「なんで止めなかったんですか」
◇
「掲示板に出てたんですよ。別ルートで買えるって。三倍の値段で、在庫ありって。大牟田さんも見てました。悠真さんに聞いてましたよね、あれあんたのかって」
「はい」
「違うって答えましたよね」
「はい」
「それだけですか」
灯の声が、廊下に響いた。
看護師が一度こちらを見て、目を伏せて通り過ぎた。
「言えばよかったじゃないですか。あれは違うって。あれは危ないって。悠真さんが言えば」
「言う先が」
「何ですか」
「言う先が、なかったので」
「無いって、どういうことですか」
「言葉のとおりです」
◇
「販売元に連絡はできます。ですが、あれが俺の作物でないことを証明するには、俺の作物が何であるかを証明する必要があります。産地の区分が存在しないので、証明する方法がありません」
「そんなの」
「協会に言っても、俺は販売停止を受けている側です。あの人たちにとっては、俺が売ったのかもしれない、という話になります」
「そんなのっ」
灯は俺の腕を離した。
「証拠、証拠って! みんなそればっかりじゃないですか!」
◇
叫んでから、灯は自分の口を押さえた。
押さえたまま、廊下の壁にもたれて、そのまま崩れるようにしゃがんだ。
俺は何も言えない。口の中が乾いていた。
言えることが、一つもない。
灯の言っていることは正しい。俺は違うと知っていた。知っていて、証明できないという理由で、何もしなかった。
◇
しゃがんだ灯の肩が、震えていた。
俺はその場に立っていた。座ることも、手を置くこともできなかった。
蛍光灯が点滅している。
一定の間隔ではない。三回速く点滅して、少し間があって、また三回。壊れかけの安定器の癖だ。
◇
十四のとき、うちの畑が全滅した。
父が急いだ。急いだ理由は金だった。翌週、三ヘクタールの葉物が根元から白く抜けて、母がハウスの前でしゃがみ込んだ。
あのとき、俺は父を責めていない。
急がなければよかったのに、とも思わなかった。金がないときに待てというのが、どれだけ無理な話かは、十四でも分かる。
◇
俺は、急がなかった。
四か月半、一日も工程を飛ばさなかった。三週間を二週間にしたことは一度もない。三株焼いた日も、三十株焼いた日も、やり直した。
それで、人が倒れている。
急いだ父の畑は、作物が枯れた。
急がなかった俺の畑では、人が倒れた。
◇
処置室の中で、機械の音がしている。
規則的な電子音だ。畑の測定器が鳴る音に、少しだけ似ている。
あの音は、数字が確定したときに鳴る。ここで鳴っているのは、たぶん、心臓が動いているという数字だ。
俺は工程を守ってきた。
だが工程を守るというのは、俺が守れる範囲の話でしかない。
俺の工程は、俺の畑の中でしか働かなかった。
三週間かかります、と俺は言った。
灯にも、大牟田さんにも、三雲さんにも、蒲田さんにも言ってきた。
言い足りていない。
工程は、守る人がいて初めて工程になる。守らない人がいる場所では、それはただの紙だ。
紙にすらしていなかった。俺の頭の中と、方眼紙の上にしかない。
◇
灯が、しゃがんだまま言った。
「……ごめんなさい」
「いえ」
「悠真さんのせいじゃないです。分かってます」
声がかすれていた。
「分かってるんですけど」
◇
俺は廊下に立ったまま、動かなかった。
窓の外は、もう暗い。
九月の夜は、四月より早く来る。
処置室の扉が開いて、看護師が出てきた。
「面会は明日以降になります。今日はお引き取りください」
俺は頭を下げた。
下げてから、顔を上げるまでに少し時間がかかる。
◇
病院を出て、駅までの道を歩いた。
途中でコンビニに寄って、何も買わずに出た。何を買うつもりだったのか、自分でも分からなかった。
◇
翌朝、七時。
病室に、一人で来た男がいた。




