第30話 見た目は同じだろう
第八層の西区画は、赤黒い。
第五層の灰土が赤みがかっているとすれば、ここは錆に近い。触れると指に色が移る。
その上に、三か月かけて作った畝が六本並んでいた。
全部、枯れている。
◇
「馴致期間が足りていません」
技術者の男が、しゃがんで根を見ていた。三十代半ば。この春に採用した中途で、前職は種苗会社の研究職だ。
「資料には、最低三週間とあります。うちは十四日で作付けしました」
「知ってる」
「知っていて、なぜ」
矢代淳は答えなかった。
答えは単純だった。三か月で回すつもりの事業計画に、三週間の空白を二回入れると、初回の出荷が年内に間に合わない。投資家への説明会は十一月にある。
そこで見せるのは、実際に穫れたものだ。図面でも計画書でもない。トマトが並んだ写真が一枚あれば、次の資金が入る。
入らなければ、四月に借りた運転資金の返済が始まる。
◇
枯れ方は、報告書で読んだとおりだった。
根の先端が黒く硬化している。第三層の記録に載っていたのと同じ写真が撮れる。あの男が四月に三株焼いたときの、あれと同じだ。
違うのは、こちらは六百株だということだった。
「全滅ですか」
「いえ」
技術者は畝の端まで歩いて、しゃがんだ。
「ここだけ、残っています」
◇
六本目の畝の、端から二メートル。
トマトが、実をつけていた。
数は多くない。三十株ぶん、百二十個ほど。だが色は乗っていて、大きさも揃っている。
矢代はしゃがんで、一つもいだ。手のひらに乗せる。重い。
「これは」
「たまたま、この列だけ濃度が低かったんだと思います。壁から遠くて、風が抜ける位置なので」
「つまり、成功だな」
「いえ」
◇
技術者は立ち上がって、はっきりと言った。
「これは出せません」
「なぜ」
「馴致が完了していないからです。三週間かけて段階的に上げていく工程は、根の構造を作り替えるためのものです。うちは十四日で止めました。根の構造ができていない状態で、実だけがなっている」
「実はなってるだろう」
「実はなります。問題は中身です」
「同じ品種だぞ」
「品種の話ではありません」
技術者は手の中のトマトを指した。
「馴致が完了した株は、吸った魔素を糖に変えて固定します。固定されたものは、消化管でゆっくり分解されるので、体内で暴走しません」
「うん」
「うちのは、固定が終わっていない可能性があります。魔素が、そのままの形で残っている」
◇
矢代は、そのトマトを光にかざした。
赤い。艶がある。ヘタは緑で、反り返っていない。
「見た目は同じだろう」
技術者が黙った。
「同じだと言ってるんだ。君も見て分からないんだろう」
「分かりません。分析すれば分かります」
「分析にいくらかかる」
「外部委託で、一検体あたり四万から」
矢代は電卓を出さなかった。出すまでもない。
◇
「笹倉くんは、どうやって確かめていると思う」
技術者が顔を上げた。
「あの男は、分析なんてしていない。金がないからだ。三週間かけて、毎日数字を測って、それで大丈夫だと思っている。それだけだ」
「それが、工程です」
「工程だな。だが、根拠は無いだろう。誰も検証していない」
「はい。検証されていません」
「だったら、うちの十四日と、どこが違う」
技術者は答えに詰まった。
違う、と言いたかった。だが「どう違うか」を数字で示せない。示すには分析がいる。分析には金がいる。金を出す判断をするのは、目の前の男だった。
◇
違いはある。技術者はそれを知っている。
三週間の根拠は、笹倉悠真が塩害地で三年かけて確かめた工程にある。段階を飛ばした株が焼け、飛ばさなかった株が生きた。四月に三株、九月に三十株。彼は自分の失敗で確かめている。
だがそれは、論文の形をとっていない。査読も受けておらず、公的な基準にもなっていない。
「あの男が失敗して確かめた」というのは、証拠として提出できる形をしていなかった。
技術者はそれを説明しようとする。言葉が三つに分かれて、まとまらない。
◇
「出荷します」
矢代が言った。
「量は百二十個。初回はそれでいい。年内の実績を作ることが目的だ」
「実績、ですか」
「実績だ。年内に一度出したという事実が要る」
「出したものが、どうなるかは」
「どうにもならんよ。あの男のところで、四か月誰も倒れていない」
「社長」
「注文はもう入ってる」
「入っているんですか」
「予約販売だ。二百件を超えている」
技術者は、それきり何も言わなかった。
言えば辞めることになる。彼には家のローンがあり、子供が二人いた。
◇
段ボールに印字したのは、次の一行だった。
『産地:東京都板橋区(第三ダンジョン浅層)』
嘘ではない。
第三ダンジョンは板橋区にあり、第八層は浅層に含まれる。第一層から第十層までが浅層だ。
通販ページの在庫表示が、その日の夕方に更新された。
商品説明の欄には、こう書いてある。
『ダンジョン産の新鮮な野菜をお届けします。魔素を吸収して育った作物は、探索者の方々からご好評をいただいております』
その文章を書いたのは、広報を委託している外部のライターだった。第八層に降りたことは一度もない。
◇
伝票を確認しながら、矢代は事務員に言った。
「初回の客には、少し多めに入れておいてくれ」
「多め、といいますと」
「一個か二個。リピートしてもらわないと意味がない」
事務員が伝票を繰った。
「初回のお客様、二百三十七件です」
「全部にか」
「多めに入れると、在庫が足りなくなります」
矢代は少し考えた。
「じゃあ、まとめ買いの客だけでいい。三個以上のところ」
◇
伝票の束が、机の上で二つに分けられた。
三個以上の注文が、四十一件。
事務員はその四十一件を順に読み上げながら、宛名ラベルを打ち出していった。
二十九件目のところで、一度だけ手が止まった。読みにくい漢字だったからだ。
「社長、これ、なんて読むんでしょう」
「どれ」
「大牟田、源治さま」
「おおむた、だろう」
事務員はラベルを打ち出して、束の中に戻した。
◇
トラックが出たのは、十六時十二分。
板橋の営業所を経由して、翌日の午前中には全国に届く。
矢代は事務所の窓から、それを見送った。
窓ガラスに自分の顔が映っている。五十七歳。倒産させた会社の元専務で、今は代表取締役だ。
振り返り、机の上の資料に目を落とす。
いちばん上に、四月に撮った写真が置いてある。第三層のA-7。単管の架台と、吊ったLEDと、しゃがんでいる作業着の背中。
その写真を、矢代はしばらく見ていた。
三十枚撮ったうちの一枚だった。
どの写真にも、灰土を握っている手は写っていない。
撮ろうとも思わなかった。あの日、彼が地面にしゃがんで何かをしていたのは覚えている。しゃがんで、手のひらの上で何かを潰して、鼻に近づけていた。
意味のある動作だとは、思わなかった。




