第29話 信じたもんに、金は返させない
まるとみの店先に、木箱が三つ残っていた。
中身はカブが十二、葉物が六束。規制が出る前に卸した分の、最後の在庫だ。
値札は変えていない。『板橋産 かぶ 一束二百八十円』。
品薄になったら値を上げるのが商売だと、俺でも知っている。この人はやらない。
トキさんは、その値札を出したままにしていた。
◇
「あんた、また来たのかい」
俺は店の脇に立っていた。
持ってきたものはない。持ってこられないからだ。手ぶらで八百屋に来るのは、四か月で初めてだった。
「様子を見に来ました」
「見ても、増えないよ」
「はい」
「なんで来たんだい」
「……行くところが、なくて」
言ってから、これは違うなと思った。
行くところがないのではない。畑には毎日行っている。行っても、穫ったものの行き先がないだけだ。
トキさんは大根の泥を落としていた。手の動きは、いつもと変わらない。
「協会の人が来たよ」
「え」
「一昨日。若いのが二人。この野菜、どこから仕入れたって」
◇
俺は木箱のほうを見た。
「何と、答えられたんですか」
「板橋の農家からだよ、って言った」
「それは」
「嘘じゃないだろ。あんた、板橋に住んでるんだから」
トキさんは大根を並べ終えて、次の箱を開けた。
「それで、その農家の名前を教えろって言うからさ。断った」
「断れるんですか」
「断ったよ」
「怒られませんでしたか」
「怒られたね。困りますって言われた。困るのはそっちだろって返した」
◇
「仕入れ先を言わないのは、うちの商売のやり方だってね」
トキさんは新しい大根を並べ始めた。
「四十二年やってると、そういうことは言えるようになるんだよ。あの若い子たちも、法律で何かを命じに来たわけじゃない。聞きに来ただけだ。聞きに来ただけの人には、答えなくていい」
俺は何と言えばいいのか分からなかった。
「迷惑を、かけました」
「かけてないよ」
「でも」
「あんた、さっきから謝ろうとしてるだろ」
トキさんが手を止めて、こちらを見た。
「謝られると、こっちが悪いことしたみたいになるからやめとくれ」
◇
その日、俺は店の手伝いをした。
やることがなかったからだ。畑の作業は午前中に終わる。売る先がないので、収穫は最小限にしている。豆の試験区は馴致中で、まだ触れない。
穫らなければ、実は木で熟れすぎて落ちる。落ちたものは畝に埋めて堆肥にする。作ったものを土に返すのは、四か月で初めてだった。
トキさんは何も言わずに、俺に前掛けを投げてきた。
大根を洗って、束ねて、並べる。値札を書く。客が来たら金を受け取る。
四十二年ぶんの手順が、店の中に染みついていた。どこに何を置くかが全部決まっていて、俺は三回間違えて、三回直された。
束ねる紐の長さまで決まっている。長いと解けやすく、短いと持ちにくい。理由を聞いたら「三十年前に決めた」と言われた。理由は忘れたが、決めたことは覚えているらしい。
◇
夕方、常連らしい女性が来た。
「トキさん、あのカブ、まだある?」
「もうこれで終わりだよ」
「え」
「入らないの、しばらく」
女性は木箱を覗き込んで、残った十二個を数えた。
「じゃあ、全部もらうわ」
「一人にそんなに売れないよ」
「なんで」
「後から来る人がいるからね」
トキさんは四つだけ袋に入れて、渡した。
◇
女性が帰ったあと、俺は聞いた。
「全部売れば、早く終わります」
「終わらせたくないんだよ」
トキさんは残りの八個を、木箱の中で並べ直した。
「毎日ちょっとずつ出すの。そうすると、毎日来る人が来る。ここに来て、無いって言われて、明日また来る。それが十日続くと、その人はもう、うちのカブを覚えるんだ」
「十日ですか」
「十日だね。人間はそのくらいで覚える」
「無くても、ですか」
「無いほうが覚えるよ」
俺は木箱の中の八個を見た。
商売のことは、俺には分からない。分からないが、この人は毎日、明日のことを考えて八個を残している。
俺が三週間先を考えるのと、たぶん、同じ種類のことだ。
◇
閉店の時間になって、トキさんが奥から封筒を出してきた。
「これ、返す」
「何ですか」
「先払いの残り」
六月に渡された封筒の、使わなかった分だ。発電機を買って、区画を借りて、資材を買って、それでも余っていた。
「受け取れません」
「あんた、また言うのかい」
「三か月ぶんの野菜を、まだ半分しか納めていないので」
トキさんは封筒をカウンターに置く。
「あたしが買ったのは、三か月ぶんの野菜だよ。日付は書いてない」
「はい」
「三か月の間に納めろとは言ってない」
◇
俺は封筒を見ていた。
「規制が、いつ解けるか分かりません」
「知ってる」
「解けないかもしれません」
「それも知ってる」
トキさんは前掛けを外して、店の奥へ運んだ。
「あんた、あたしが何て言ったか覚えてるかい」
◇
「味しか信じない、と」
「そう」
トキさんは奥から出てきて、レジを閉めた。
「あたしは、あんたの味を信じた。信じたのは、四月の終わりだ。あんたが最初にトマトを持ってきた日」
「はい」
「あの日から、あんたの野菜がどうなるかは、あたしの博打なんだよ」
レジの引き出しが閉まる音がした。
「博打が外れたら、あたしが損をする。それだけの話だ。損は損で、あたしのもんだ。あんたに返させたら、博打じゃなくなる」
◇
「信じたもんに、金は返させないよ」
◇
俺は封筒を受け取らなかった。
トキさんも、それ以上は押さない。
封筒はカウンターの上に置かれたまま、店の照明が落ちた。
シャッターを下ろすとき、トキさんは片手でやる。四十二年で、右肩が上がりにくくなっているらしい。俺が手を出したら「まだ自分でやれる」と言われた。
◇
帰り道、灯からメッセージが来た。
『悠真さん、いま大丈夫ですか』
『協会に、問い合わせフォームってあるんですけど』
俺は駅のホームで足を止めた。
『規制の根拠になった検査基準、どこにあるんですかって聞いたんです』
『そしたら、そういう基準はまだ無いって返ってきました』
少し間があって、もう一通。
『無いのに、検査してないから駄目って言われてるんですけど』
『これ、おかしくないですか』
ホームのアナウンスが流れた。
もう一通、来た。
『あたし、こういうの調べるの初めてで。調べ方も分かんなくて、三時間かかりました』
◇
俺は返信を打った。
『おかしくないと思います』
打ってから、それだけでは足りないと思って、もう一行足した。
『基準が無いから、作れないんです。作る人がいないので』
既読がつくのに、二十秒かかった。
『誰が作るんですか』
その質問への答えを、俺は持っていない。
◇
電車が来て、乗った。
窓に自分の顔が映っている。四か月半で、少し痩せた。
携帯を見ると、未読が一件あった。
差出人は、三雲静。
件名に、こう書いてあった。
『第三ダンジョン第三層 魔素濃度推移(4月8日〜9月14日)』




