第28話 白川
書庫の空気は、紙と埃の匂いがする。
蒲田正之は、棚の三列目の下段にしゃがんでいた。
背表紙のラベルが、この段だけ手書きだった。電子化される前の資料で、二十年近く誰も出していない。
指がラベルの上を滑って、一つのところで止まる。
『白川』
◇
ファイルを引き出した。厚みが四センチある。
机には持っていかなかった。
その場で、しゃがんだまま膝の上で開いた。
最初の十枚は、現場の見取り図と作業日程表。
次の二十枚が測定記録だ。地下水の魔素濃度が、日付ごとに並んでいる。当時の測定機器は精度が低く、値は整数でしか出ない。
その後ろに、写真が数枚挟まっていた。仮設の作業拠点。プレハブが三棟。手前の斜面に、雑草が生えている。
その雑草の名前を、蒲田は今でも言える。
その次。
一枚の紙に、名前が六つ並んでいる。
様式の見出しには『被災者一覧』と印字されていた。当時の協会は、こういう紙をまだ手書きで作っていた。
◇
蒲田は、そのページで手を止めた。
右端に年齢が振ってある。二十四、三十一、三十三、四十六、五十二、五十五。
いちばん下の五十五の欄にだけ、家族構成の記入がある。当時の様式では、扶養者がいる場合だけ書く決まりだった。
蒲田はそのページを、長く見ている。
紙は変色していて、鉛筆で書かれた欄の一部が薄い。誰かが消した跡もある。二十四のところだ。何を消したのかは、もう読めない。
◇
書庫の扉が開いた。
「課長。ここでしたか」
部下が入ってきて、しゃがんでいる蒲田を見つけて、少し驚いた顔をした。
「探しました。第三層の契約書、揃いましたので。区画管理課から、A-7とB-1の両方を借りてきました」
「ありがとうございます」
蒲田はファイルを閉じて、立ち上がる。膝が鳴った。
「それ、何のファイルですか」
「古い記録です」
部下はそれ以上聞かない。
蒲田はファイルを棚に戻し、埃を払わずに書庫を出た。
◇
課長室に戻って、契約書を確認した。
第三ダンジョン第三層 東区画A-7。契約日、四月八日。契約者、笹倉悠真。
使用目的の欄は、五センチ四方の枠に「栽培試験」と手書きで書いてある。字が枠からはみ出していない。
搬出申告の控えが束になっていた。
五月十三日、野菜二十四。
五月二十日、三十。
五月二十七日、四十。
六月三日、四十。
九月の第一週まで、一週も欠けていない。
欠けているのは、九月五日以降だ。販売停止の通知を出した日から、搬出の申告が止まっている。
止まっているのは搬出だけで、入場記録は毎日続いていた。
◇
「課長」
部下が入ってきた。
「除染事業の来期の見積もり、上がってきました」
書類を受け取った。
第三ダンジョンの魔素除染委託費、年間の概算。四十一億。触媒散布と排気の設備更新を含めた金額だ。
「前年比で」
「一・二パーセント増です」
「妥当ですね」
触媒散布の単価は、十六年前からほとんど変わっていない。散布して、排気して、また散布する。魔素は減らない。減らないから、来年もまた同じ額を計上する。
「課長、これ、ずっとこの形でいくんですかね」
「これ以外の方法が見つかるまでは」
部下は書類を置いてから、少しためらって、こう聞いた。
「あの、課長」
「はい」
「第三層の件、うちの予算に影響しますか」
◇
蒲田はペンを置いた。
「といいますと」
「いや、その。あそこの濃度が下がってるじゃないですか。それが、あの人のやってることのせいだとしたら」
「はい」
「除染、要らなくなりますよね」
部下は言ってから、自分の言葉を後悔した顔をした。
「すみません。変なこと言いました」
蒲田は書類の角を揃えた。
「そういう話をしているんじゃありません」
声の高さは変わらなかった。
だが部下は、それ以上何も言わずに部屋を出た。
◇
同じ日の夜、協会板橋支部。
三雲静は、定時データの前に座っていた。
第三ダンジョン第三層、魔素濃度、基準値の三十四パーセント。
規制が出てから、三週間。
販売は止まり、撮影も止まり、人も来ない。
それでも、数字は下がり続けている。
◇
彼女は三系統を照合し、故障率を計算する。九年やっている手順で、もう二分もかからない。
三雲はグラフを引いた。
四月八日から今日まで、百六十日ぶん。
線は、まだ折れていなかった。
規制の日を境に、傾きが変わっていない。意味するところは一つしかなかった。
あの区画では、規制の前と後で、同じことが同じ速度で続いている。
売れなくても、撮られなくても、彼は毎日水をやっている。
◇
机の引き出しを開けた。
予備の眼鏡と、私用の端末。
この三週間、彼女は毎日この引き出しを開けて、閉じてきた。
今日は、端末を取り出した。
観測データの過去百六十日ぶんを、私用の端末に移す。ファイル名を打ち込む手が、二度止まった。
規則で禁じられている。内部資料の外部提供にあたり、処分の対象になる行為だ。
彼女は九年間、一度も規則を破っていない。
破らずに済んできたのは、破る理由が一度もなかったからだ。
◇
メールの宛先欄に、アドレスを打った。
笹倉悠真の個人アドレス。工程表の裏表紙に書いてあったものを、六月の時点で控えてある。控えた時点で、彼女はいつかこうすることを、たぶん決めていた。
件名に、こう打った。
『第三ダンジョン第三層 魔素濃度推移(4月8日〜9月14日)』
本文の欄で、カーソルが止まった。
説明を書こうとして、やめた。彼女は説明できない。説明できないから報告書に書けなかった。それが三週間前に、廊下で配信者の女性に言ったことだ。
本文に、一行だけ打った。
◇
『これは、私が説明できない数字です。あなたなら説明できますか』
送信ボタンの前で、目を閉じた。
九年間、千八百通の報告書を書いた。そのうち誰かが読んだと確認できたものは、十通もない。
いま送ろうとしているものは、報告書ではなかった。様式も決裁欄も付いていない。
読む人が、一人だけいる。
◇
押した。
クリック音は、部屋のどこにも響かなかった。
送信済みの一覧に、その一通が並んだ。上の行には、今日の日付で『要因不明。同区画の継続観測を推奨する』が入っている。
三雲は端末を引き出しに戻して、鍵をかけなかった。
◇
同じ頃、協会本部の課長室で、蒲田正之は照明を落とした。
鞄に書類を入れて、廊下に出る。
エレベーターの前で、少し立ち止まった。
書庫のある方角を、一度だけ見た。
それから、上着の内ポケットから小さい手帳を出して、今日の日付の欄にこう書いた。
『九月十四日 第三層 契約書確認
搬出申告 五月十三日より継続 欠週なし
白川 参照』
手帳を閉じて、エレベーターのボタンを押す。
扉が開くまでの十数秒、彼は同じことを考えていた。
十六年前、現場の斜面に生えていた雑草を、誰も危険だと思わなかった。緑色で、柔らかくて、食べられそうに見えた。
実際、食べられた。二日は、何も起きなかった。




