第37話 収益化を、切る
火野灯は、編集ソフトの設定画面を開いていた。
右上に「収益化」というトグルがある。緑色で、オンになっている。
三年前、チャンネルを作った日には、これを押せる条件すら満たしていなかった。登録者千人が条件で、彼女はいまも八百四十七人だ。
条件を満たしたのは、九月だった。
畑の動画が回って、一週間で登録者が二千人を超えた。
いま、九百人まで戻っている。撮れなくなってから、三か月が経つ。
◇
トグルを、指で押した。
緑が灰色になる。
確認のダイアログが出た。『収益化を停止すると、過去の動画も含めて広告が表示されなくなります。この操作は月に一度しか変更できません』
はい、を押した。
◇
次に、アーカイブの一覧を開いた。
三年ぶん。ファイル数で四百八十三本。
ほとんどが、第三層の通路を歩いているだけの映像だ。一本あたり一時間から二時間。合計で六百時間を少し超える。
灯はその全部を選択した。
◇
公開範囲を「限定公開」から「公開」に変える。
ライセンスを「標準」から「自由利用可」に変える。
自由利用可というのは、誰でも切り抜いていいし、誰でも解析していいし、誰でも自分の動画に使っていいという意味だ。出典さえ書けば、灯の許可はいらない。
三年ぶんの映像が、彼女のものでなくなる。
◇
手が止まったのは、四百八十三本のうち、最初の三本のところだった。
三年前の四月。
兄が死んだ十日後に、彼女が初めて第三層に降りた日の映像だ。
◇
その映像には、灯の声が入っている。
通路を歩きながら、何も喋っていない。
二十三分のところで、一度だけ、息を吸う音が入る。それから、鼻をすする音が三回。
その後、十四分間、無音のまま歩いている。
彼女はその日、資格を取ったばかりで、装備の使い方もよく分かっていない。ヘッドライトの角度が合っていなくて、映像の下半分がずっと暗い。
◇
カットするかどうか、灯は五分考えた。
三年間、この三本は限定公開にしてあった。誰にも見せていない。
いま公開すれば、六百時間の中に混ざって、誰かが見る。
◇
灯は、自分で決めたことを三つ持っている。
数字を盛らない。
演出しない。
人や持ち物を映すときは、必ず先に断る。
九月に三つ目を破って、それを謝りに行った。謝って、許可をもらって、それから五時間撮った。
◇
三本を消せば、六百時間は「畑の記録」になる。
消さなければ、六百時間は「三年間、誰かがこの層を見ていた記録」になる。
畑があったのは、そのうちの二百七十日だけだ。
残りの三年ぶんには、何も映っていない。何も映っていないことが、あの層の状態を示している。
◇
消さなかった。
◇
作業は三日かかった。
一本ずつ設定を変えて、説明欄に日付と層と区画を書き込む。四百八十三本ぶん。
途中で二度、指がつった。湿布を貼って、また続けた。
三日目の夜、最後の一本を公開に切り替えたとき、時計は二時を回っていた。
◇
最初の反応は、静かだった。
六百時間の映像を、誰も見ない。当たり前だった。三年間、誰も見なかったものだ。
一日目、再生数の合計は四百十二。
二日目、七百八。
三年で八百四十七人しか登録者がいないチャンネルの、六百時間ぶんの再生数がそれだ。
◇
三日目の午後に、それが起きた。
灯はそのとき、コンビニのバイトの休憩室にいた。休憩の四十五分で、彼女のスマホの通知が二百件を超えた。
◇
匿名の研究者アカウントが、一本の投稿をした。
『火野灯氏が公開した第三ダンジョン第三層のアーカイブ(2023-04〜2026-11、計603時間)について。
協会が公表している同層の月次魔素濃度と、映像内のタイムスタンプが完全に突合できます。
特に2026年4月8日以降、区画A-7の様子が断続的に記録されており、濃度低下の時系列と対応します。
これは、事実上の観測記録です』
◇
その投稿から、六時間で。
◇
大学の研究室のアカウントが、映像の一部を切り出した解析を上げた。
植物工場の技術者が、LEDの配光をフレームから逆算した。
測定機器メーカーの営業が、映っている測定器の型番を特定する。その機種の測定範囲と誤差が、そのまま投稿された。
個人の探索者が、四月から十一月までの通路の映像を並べて、灰土の色の変化を比較した。
誰も、灯に許可を取らない。
取る必要がないからだ。自由利用可にしてある。
◇
灯は自分の部屋で、その流れを見ていた。
自分の三年間が、他人の手で切り刻まれている。
誰も彼女の名前を出さない。出典として「火野灯氏公開アーカイブ」と書かれるだけだ。
その表記を、灯は十回以上見た。氏、という一文字がつくと、まるで知らない人のように見える。
◇
スマホを伏せて、天井を見た。
三年間、誰にも見られなかったものが、三日で解析されている。
自分が一度も気づかなかったことを、他人が次々に見つけている。
◇
それでいい、と思った。
三年間、誰も見なかった。
いま見られているのは、彼女の三年ではなく、あの層で起きたことのほうだ。
彼女が撮りたかったのは、最初からそっちだった。
◇
その夜、灯は悠真のアパートへ向かった。
机の上に、紙束が二つと、新しいノートが一冊置いてある。
「これ、なんですか」
ノートを覗き込むと、一ページ目に十七の項目が並んでいる。
「工程です」
「工程」
「土が違っても、毒が違っても、俺が必ず測っていたものです」
「これ、悠真さんが決めたんですか」
「決めた覚えはないです。九年前も同じことを測っていました」
「じゃあ、なんで十七なんですか」
「分かりません。数えたら十七でした」
◇
灯は、その十七を上から順に読んだ。
地温。含水率。pH。粒径。作土厚。照度。灌水量。排水速度。葉色。草丈。節間長。発芽率。生育日数。作付け間隔。土壌の匂い。手で握ったときの崩れ方。測定時刻。
最後の三つのところで、灯は指を止めた。
土壌の匂い。手で握ったときの崩れ方。測定時刻。
「これ、あたし、全部撮ってます」
「全部、というのは」
「十七のうち、十五は映像に残ってます。pHと排水速度だけ、数字が読めないです。測定器の画面が小さくて」
◇
「土の匂い嗅ぐとこ、毎朝撮ってます。握って潰すとこも。時刻はタイムスタンプに入ってます」
灯は顔を上げた。
「これ、あたしの映像と合わせたら、全部の日が説明つきますね」
◇
俺は、その言葉を二度聞き返した。
灯は同じことをもう一度言った。声を張らずに、ゆっくり。
「あたしの映像に、日付とタイムスタンプが入ってます。悠真さんの数字に、日付が入ってます。合わせたら、どの日に何をやったか、全部残ってます」
◇
机の上で、ノートと紙束と、灯の携帯が並んだ。
二人が、初めて同じものを見ている。
六百時間と、百九十日と、十七項目。
どれも、一人では意味を持たなかったものだった。




