第26話 握らなかった朝
午前五時、内容証明が届いた。
配達の人がインターホンを鳴らし、判子を押して、それで終わり。差出人の欄に『株式会社グリーンサイト・アグリテック 代理人弁護士』とある。
封を切って、本文を読む。
三回読んで、意味が半分しか取れない。
職務発明。相当の利益。実施の差止め。使用者等の権利。
自分に関係のある言葉が並んでいるのに、どれ一つとして、自分の言葉ではなかった。
◇
携帯で調べた。
職務発明というのは、従業員が職務の範囲でした発明について、会社が権利を持つ制度らしい。ただし発明であること、職務に属すること、いくつか条件がある。
俺のやっていることが「発明」にあたるのかどうかは、書いてある内容からは判断できなかった。
争うには弁護士がいる。弁護士には金がいる。
区の無料相談を調べたら、次の枠が三週間先だった。
三週間。
俺が毎日、口にしている数字と同じだった。
◇
六時に家を出た。
いつもより一時間早い。何をするか決めていたわけではなく、部屋にいると内容証明を読み返してしまう。
ゲートに並んで、読み取り機にカードをかざす。短く鳴る。
通路を二百メートル歩いて、区画に降りた。
その間ずっと、頭の中で「相当の利益」という四文字が回っていた。意味の分からない言葉ほど、頭に残る。
トンネルのビニールをめくって、豆の生育を見る。
葉の枚数を数えて、草丈を測って、支柱の測定器を読んだ。葉面高で三十四。予定より一低い。換気を一目盛り絞る。
工程表に書き込んで、次に水路を見た。
継ぎ目に灰土が溜まっていたので、指を入れて掻き出した。
そのまま、B-1へ移った。
◇
その朝、俺は灰土を握らなかった。
気づいたのは、夜になってからだ。
◇
昼過ぎ、灯が来た。
カメラは持っていない。規制が出てから、彼女は手ぶらで来る。手ぶらで来て、収穫を手伝って、帰る。撮れないので、やることが減った。
「悠真さん、なんかありました?」
「なぜですか」
「顔です」
「顔」
「なんか、目が合わないです」
俺は内容証明のことを話した。
話しながら、自分の説明が下手なことに気づく。制度の説明ができない。読んでも半分しか分からないものを、人に説明できるはずもなかった。
「それ、取られるってことですか」
「分かりません」
「弁護士は」
「三週間後です」
「三週間!」
灯は袋を持ったまま、地面を蹴った。灰土が舞って、二人とも咳き込む。
「あの人、悠真さんの畑、一回しか来てないですよね」
「一度です」
「写真は三十枚くらい撮ってましたけど」
「撮ってました」
「それで作れるんですか」
「分かりません」
分からないと答えたが、たぶん作れない。
写真に写らないものが多すぎる。灰土の手応え。継ぎ目の詰まり方。葉の裏の匂い。それらは全部、毎日触っていないと分からない。
◇
夕方、トキさんの店に寄った。
規制が出てから、卸は止まっている。だが在庫が残っていて、トキさんはそれを売り続けていた。協会の通知は俺への処分で、既に卸された分の販売を止めるものではない。
法の抜け穴ではなく、単に、そこまで書いていないというだけの話だった。
「あんた、顔が悪いよ」
「そうですか」
「なんかあったんだろ」
「ありました」
トキさんは大根を並べる手を止めなかった。
「話しな。手は動かすけど」
俺は木箱の脇に立って、大根の泥が落ちるのを見ていた。トキさんの手つきは速い。四十二年やっている手だ。
◇
俺は内容証明の話をした。
トキさんは最後まで黙って聞いて、大根を六本並べ終えてから、こう言った。
「その人、あんたの畑に来たかい」
「来ました。一度」
「土、触った?」
「触ってません」
トキさんは前掛けで手を拭いた。
「じゃあ大丈夫だよ」
「大丈夫、というのは」
「触らねえ人間に、同じもんは作れないからさ」
「触ればできますか」
「触っただけじゃできないよ。触って、何年もやって、それでやっとだ」
トキさんは大根を並べ終えて、こちらを向いた。
「あんた、何年やってんの」
「土は、大学から数えて十四年です」
「じゃあ十四年ぶんだ。紙で取れるもんかね」
根拠のない話だ。
根拠はないが、俺はその日、その一言だけを持って帰った。
電車の中で、内容証明をもう一度出して読んだ。相変わらず半分しか分からない。分からないまま、鞄に戻した。
◇
夜、工程表を書いた。
今日の欄。八項目。第五層の試験区が四点、A-7が三点、B-1が三点。
書き終えて、ページを見返した。
B-1の三番畝の欄で、手が止まった。
含水率、二十九パーセント。
昨日は二十二だった。七ポイント上がっている。
三番畝は、B-1の中でいちばん壁から遠い。他の畝より乾きやすい場所だ。そこが急に湿っている。
ページを繰った。一昨日、二十一。三日前、二十二。
今日だけ、跳ねている。
◇
思い出そうとした。
今朝、B-1で何を見たか。
トンネルをめくった。葉を数えた。草丈を測った。測定器を読んだ。水路を見た。
灰土は。
握っていない。
◇
立ち上がって、上着を取った。
時計は二十二時を回っている。ゲートは開いているが、この時間から降りると終電が危うい。
それでも降りた。
B-1の三番畝の前にしゃがんで、灰土を一握り取った。
指で潰す。
崩れない。
握った形のまま、指の間で潰れる。ぬかるみに近い。
匂いを嗅いだ。
鉄の匂いが、いつもの三倍くらい強かった。
◇
水路をたどった。
B-1へ引いた枝管の、三番目の継ぎ目。テープが緩んでいた。
外れてはいない。外れていれば水が噴くから、すぐ気づく。緩んでいるだけだと、少しずつ漏れる。少しずつ漏れた水が、畝の下の灰土に溜まる。
三日か、四日。
滞水した灰土は、酸素が抜ける。酸素が抜けると根が呼吸できない。根が弱れば、魔素に対する耐性も落ちる。
いまの濃度は五十だ。慣らし終わって、いちばん濃い段階に入っている。
テープを巻き直して、水を止める。
排水の溝を切って、溜まった水を通路側へ逃がした。灰土は水を通すので、溝さえ切れば抜けは速い。抜けきるのに二時間かかった。
根がどこまで傷んでいるかは、掘らないと分からない。掘れば株が終わる。
作業が終わったのは、日付が変わってからだ。
◇
畝の前に座り込んで、しばらく動かなかった。
朝、握っていれば気づいていた。匂いを嗅いでいれば、三日前に気づける。
四か月、一日も飛ばしていない。飛ばした日が、これだ。
俺は工程表を出して、今日の欄の余白にこう書いた。
『朝の確認を省略した。B-1三番畝、滞水。三日ないし四日』
書いてから、ペンを持ったまま、もう一行を足す。
『理由:内容証明を読んでいたから』
理由を書いておかないと、次も同じことをする。
父が急いだ年も、金が要るという理由があった。
畝の上で、豆の葉が三十センチの高さに並んでいる。
まだ、枯れていない。
枯れるかどうかは、四日後に分かる。




