第25話 見たことは、証拠になりません
受付の職員が「あの、アポイントは」と言うのを、火野灯は聞かなかった。
協会板橋支部の三階。廊下の突き当たりに『観測分析室』と書いた札が出ている。
灯はその扉を開けた。
「三雲さんって人、いますか」
◇
室内には四人いた。
空調の音と、端末のファンの低い音がしている。壁一面が棚で、そこにファイルが年度ごとに並んでいた。いちばん右の列だけ背表紙が新しい。
三人が同時にこちらを見て、一人だけ、端末に向かったまま顔を上げない。
その一人が、二秒遅れて振り返った。
「私が三雲です」
灯は部屋に入らずに、廊下から言った。
「畑に来ましたよね」
「はい」
「あの数字、あなたが出したんですよね」
「私が照合しました」
「じゃあ、なんで止めるんですか」
◇
三雲静は立ち上がって、廊下に出てきた。
後ろで扉を閉める。中の三人に聞かせない配慮なのか、単に規則なのか、灯には分からなかった。
「規制の決定は、環境保全部が出したものです。観測分析課は関与していません」
「でも、根拠はあなたの数字でしょう」
「はい」
「じゃあ同じことじゃないですか」
三雲は否定しなかった。
否定しないので、灯は続けるしかなかった。
「あの人、四か月毎日通ってるんですよ。朝いちばんに降りて、土を握って、匂い嗅いで、数字を測って、書いて。休みの日も。地下だから雨も関係ないけど、とにかく毎日です」
「存じています」
「知ってるのに」
◇
「数字が出せるなら、正しいって言えばいいじゃないですか」
三雲は目を伏せた。それから、初めて口を開いた。
「言えません」
「なんでですか」
「私は、あの現象を説明できないからです」
灯の声が跳ねた。
「見たでしょう! あそこで! 実がなってるの、見たでしょう!」
廊下の向こうで、誰かが顔を出して、すぐ引っ込めた。
三雲は声を上げなかった。
「見たことは、証拠になりません」
◇
灯は言葉に詰まった。
「私が報告書に書けるのは、測定した数字と、その照合結果だけです。『笹倉さんの区画で作物が育っているのを見た』と書いても、それは私の目撃であって、検証ではありません」
「じゃあ検証すればいいじゃないですか」
「うちには、予算がありません」
「え」
「観測分析課の年間予算は、機器の保守と消耗品で全部です。実験をするための項目がありません」
三雲は淡々と言った。
「私は分析官です。数字を出せますが、結論は出せません」
◇
灯は何か言おうとして、うまく出てこなかった。
この人は逃げていない。逃げているなら、もっと分かりやすい言い方をするはずだ。
目の前の人は、自分にできないことを、正確に、一つずつ数え上げている。
「じゃあ、誰が結論を出すんですか」
「本来は、研究機関です。大学か、国の研究所か」
「そこに持っていけばいいじゃないですか」
「持っていく人が要ります。個人の観測データを、個人が学会に出すことはできますが」
「できるんですか」
「できます。所属を書かなければ」
三雲はそこで、自分の言ったことに少し驚いたような顔をした。
それきり、その話は続かなかった。
「協会は」
「協会は、安全側に倒します。それが仕事なので」
「安全って、何がですか。あれ、あたしも食べましたけど」
「あなたが無事だったことは、あなた一人の記録です」
「あたしだけじゃないです。あの人も食べてるし、大牟田さんも、商店街の人たちも」
「何人ですか」
「……分かんないです。数えてないです」
「数えていないものは、データになりません」
◇
灯はしばらく黙って、それから、押し出すように言った。
「あたし、三年、あの層を撮ってるんです」
三雲が顔を上げた。
「三層ばっかりです。誰も見ないから、同接三桁で。三年で八百人しか登録者がいなくて。素材も出ない、魔物も出ない、何もない層です」
「はい」
「それで、やっと」
言葉が途中で止まった。
三雲は待っていた。急かさずに、廊下に立ったまま、次の言葉を待っていた。
「……やっと、撮るものができたのに」
◇
灯はそれ以上言わずに、背を向けた。
階段を三段降りたところで、後ろから声がした。
「火野さん」
振り返ると、三雲が廊下の端に立っていた。
「あなたのチャンネルは、私も見ています」
「え」
「十四分のところで、彼が測定器を三か所に刺す場面があります」
灯は手すりを掴んだまま、動けなかった。
「あの三点が、同じ畝の中で十八ポイント違うことを、彼は三株枯らして見つけています。それを撮っていたのは、あなただけです」
「……あたし、意味も分からずに回してただけです」
「意味が分からないまま回した映像に、日付とタイムスタンプが入っています」
「それが、何になるんですか」
「いまは、何にもなりません」
三雲はそこで一度、言葉を切った。
「証拠にはなりません。ですが、記録にはなります」
◇
灯が帰ったあと、三雲は分析室に戻る。
同僚が「今の、何」と聞いてきた。「配信の方です」と答えて、それで話は終わった。
席についてから、今日の定時データを開いた。
第三ダンジョン第三層、魔素濃度、基準値の三十九パーセント。
規制が出て五日。販売は止まり、撮影も止まった。
それでも、数字は下がり続けている。
当たり前だった。作物は生きている。生きている限り、吸い続ける。売れるかどうかは、根には関係がない。
規制は人間の側の都合で、階層核はそれを知らない。
三雲は報告書のフォーマットを開いた。
様式の一行目に、日付を打つ。
カーソルが、考察欄の前で止まった。
◇
机の引き出しを開けた。
予備の眼鏡が入っている。度の強いほうだ。数字を疑う日のために置いてある。
その隣に、もう一つ入っているものがあった。
私用の端末だ。
三雲はそれを取り出して、机の上に置いた。
置いたまま、五分ほど何もしなかった。
観測データを外部に提供することは、規則で禁じられている。内部資料の持ち出しにあたる。処分の対象になる。九年勤めて、彼女は一度も規則を破ったことがない。
破らなかったから、報告書は千八百通になった。
千八百通のうち、誰かが読んだと確認できたものは、たぶん十通もない。
規則を守るというのは、そういうことだ。守っている間、何も起きない。何も起きないことを、九年間、彼女は正しさだと思ってきた。
端末をもう一度引き出しに戻して、鍵をかけた。
◇
その日、彼女は規則を破らなかった。
だが引き出しの鍵は、翌日も、その次の日も、開け閉めされることになる。
開けるたびに、端末は同じ場所にある。
考察欄に、三雲はこう打った。
『要因不明。同区画の継続観測を推奨する』
四月十二日に書いたのと、一字も違わない。
保存して、送信した。
送信履歴の一覧が、同じ文面で埋まっていく。
三雲は画面を閉じて、引き出しの鍵にもう一度手をかけ、そのまま離した。




