第24話 以前にも、生物経由の事例があります
革靴が灰土を踏む音は、ゴム長とはまるで違った。
硬い。二歩ごとに、乾いた音が返ってくる。
顔を上げると、痩せた男が畝の間に立っていた。細いフレームの眼鏡。灰色の交じった髪。スーツの膝に、灰土の粉が薄くついている。
その隣に、滝本さんがいた。
顔色が悪い。書類を胸の高さで抱えて、視線を畝のほうへ逃がしている。
「笹倉悠真さんですね」
「はい」
「協会 環境保全部 魔素対策課の蒲田と申します。課長をしております」
◇
名刺は出さなかった。
代わりに、二つ折りの書類を差し出してきた。
「三点、お伝えします」
声が穏やかだ。怒鳴る人の穏やかさではない。決まった書類を読み上げるときの、平坦な穏やかさだった。
「まず、当区画で生産された作物について、食品としての販売および譲渡を停止していただきます」
「はい」
「次に、当区画内での撮影および配信を禁止します」
「はい」
「最後に、区画の使用実態について、週次で報告書を提出してください」
三つとも、既存の規則の運用を強化する形をとっている。
根拠になる条文番号が、それぞれの下に振ってあった。
俺は書類を三回読んだ。文字が小さい。役所の書式は、大事なことほど小さく刷ってある。
◇
反論の材料が、一つも見つからなかった。
俺の作物は、食品としての検査を受けていない。魔素を吸収した植物を人間が摂取した場合の影響について、公的なデータは一件もない。存在しないものを「安全だ」と証明する手段は、こちらにも無い。
撮影の禁止も同じだ。層内の撮影はもともと許可制で、灯は探索者資格で撮っているにすぎない。厳密に運用されれば、いつでも止まる。
全部、正しい。
正しいものに、反論の材料はない。
「これは、安全です」
俺が初めて自分から主張したことを、蒲田さんは首を横に振って受けた。
「あなたの工程が正しいことと、それを全員が守ることは、別の話です」
◇
「どういう意味ですか」
蒲田さんはトンネルのほうを見ていた。ビニールの中で、豆の双葉が並んでいる。
「あなたは三週間かけて慣らすと聞きました。合っていますか」
「合っています」
「その三週間を、二週間で切り上げる人が出ます」
「出ますか」
「出ます。必ず」
断定だった。
「金が要るとき、注文が入っているとき、上から急かされたとき。人は一週間を削ります。悪意ではありません。悪意がある人間は、そもそも三週間の存在を知りませんから」
「はい」
「削っても、見た目は変わりません。あなたの作物と、二週間で切り上げた作物を、店頭で見分けられますか」
見分けられない。
断面を割れば分かるだろう。だが売り場で全部を割るわけにはいかないし、割ったところで、比べる相手がなければ何も分からない。
トキさんは断面を見て仕入れる。あの人には見分けられるだろう。だが、あの人は日本に一人ではない。
◇
俺は黙った。
蒲田さんは畝から目を離して、こちらを向いた。
「以前にも、生物経由の事例があります」
◇
「事例、というのは」
蒲田さんは答えなかった。
視線が一度だけ、畝ではないどこかへ向いた。それから元に戻った。
「それだけです」
そう言って、話を切る。
切り方が、あまりに平坦だった。言いたくないのではなく、言う場所がここではない、という切り方だ。
「報告書の様式は、区画管理課から届きます。週次です。金曜締めでお願いします」
「一つ、聞いてもいいですか」
「どうぞ」
「あなたは、これが育たないと思っていますか」
蒲田さんは、初めて少しだけ間を置いた。
「育っているのは、見れば分かります」
「では」
「私が申し上げているのは、育つかどうかの話ではありません」
「安全かどうか、ですか」
「それも違います」
蒲田さんは眼鏡の位置を直した。
「あなたの工程が守られるかどうか、です」
◇
滝本さんが前に出てきた。
手に、別の書類を持っている。
「あの、笹倉さん」
「はい」
「うちの課から、これを」
差し出されたのは、販売停止の通知書だった。区画管理課の名前で出ている。課長印と、担当者印が並んでいた。担当者の欄には、滝本啓一と手書きで書いてある。
「うちの課で出せって、言われまして」
滝本さんは書類の端を持ったまま、俺の顔を見なかった。
四か月前、この人は判子を探しながら「十三年ぶりですよ」と笑っていた。拡張申請のときは「うちの課、たぶん来年もありますよ」と言い、二層またぎの書式は前例がないからと自分で作ってくれた。
「すみません」
小さい声だった。
「制度って、こういうときは、締めるほうも早いんですよ」
滝本さんは書類を渡し終えると、一歩下がった。
「十三年、誰も使わなかった制度なんです。使われないから、誰も見てなかった。見られてないから、あなたは入れた」
「はい」
「見られたら、こうなります」
この人は、悪いことを何もしていない。
書式を作って、判子を押して、通知書を届けた。それだけだ。
◇
二人が通路の角に消えたあと、灯がビニールの陰から出てきた。
カメラは、鞄の中に入っていた。いつの間にかしまったらしい。
「悠真さん」
「はい」
「あたし、撮れないです」
「はい」
「あの人たち、いつまでですか」
「書いてないです」
灯は書類を横から覗き込んで、それから鞄のストラップを握った。
「いつまでですか、って書いてないんですよね」
「はい」
「じゃあ、ずっとってことですか」
「そうかもしれません」
「悠真さん、怒らないんですか」
「怒る相手が、いないので」
灯は何か言いかけて、口を閉じた。
あの人は規則を読み上げただけだ。規則を書いたのはあの人ではない。怒るなら規則に怒るしかなくて、規則は怒られても何も感じない。
◇
灯が帰ったあと、俺は一人で畝の前にしゃがんだ。
豆の双葉が二列。第五層でやり直すための試験区で、播いてから四日目になる。畝は三十センチ上げてあって、測定器は支柱に括りつけ、葉の高さで空気を測っている。
馴致は二十で始めている。あと三日で三十五に上げる。
売れない。
撮れない。
だが、水をやらなければ枯れる。
俺は水路の継ぎ目に指を入れて、溜まった灰土を掻き出す。冷たい。地下水は十度もない。
掻き出して、流れが戻るのを確かめる。それから測定器を三点に刺した。
売れなくても、撮れなくても、この作業の中身は一ミリも変わらない。変わったのは、穫れたものの行き先だけだ。
工程表を出した。
今日の欄に、八項目を書く。地温十五・二度。含水率二十二パーセント。魔素、壁際二十、中央二十、通路側十九。
書き終えて、余白を見た。
しばらく考えて、こう書いた。
『販売停止・撮影禁止・週次報告』
その下に、もう一行。
『水は、やる』
書いてから、ペンを置いた。
三か月半、この工程表には収穫数を書いてきた。明日から、その欄が空になる。
空欄でも、埋める。




