第23話 笹倉、悠真さんという方です
協会本部の記者会見場は、椅子が四十席あって、埋まっていたのは十九席だった。
壇上に広報担当が座り、その隣に技術系の職員が二人。手元の紙を読み上げる声が、マイクを通して部屋の後ろまで届く。
「第三ダンジョン第三層において、原因は特定されていないものの、顕著な魔素濃度の低下が継続して観測されております。現在の値は基準値の四十一パーセント。観測開始以来、最も低い数値です」
シャッターの音が、二度鳴った。
三か月半前、この数字は三百二パーセントだった。それが四十一まで落ちている。何が起きているかを説明できる人間は、この部屋に一人もいない。
◇
会見場の後方、通路側の席に、蒲田正之は座っていた。
環境保全部の課長がこの種の会見に出る理由はない。彼は資料も持たずに、配布された二枚の紙だけを膝に置いていた。
最前列の記者が手を挙げた。
「階層崩壊の可能性については、どうお考えですか」
「注視している、というのが現時点の回答になります」
「過去の崩壊事例と、前兆は一致していますか」
「調査中です」
広報担当の受け答えは滑らかだった。何も言っていないが、何も言っていないと思わせない喋り方をする。
二列目の記者が手を挙げた。
「濃度が下がり始めた時期に、何かありましたか」
「と、いいますと」
「四月です。四月八日から下がり始めている。その日に何かあったんですか」
広報担当が資料をめくる音が、また入った。
◇
壇上の技術職員が、手元の資料を繰る。
「四月八日以降、当該区画に賃借者が入っております」
「賃借者」
「区画貸与制度に基づくものです」
「その方が原因ということですか」
「因果関係は確認されておりません」
記者が食い下がった。
「その方は、そこで何をされているんですか」
技術職員が広報担当のほうを見た。広報担当が資料を繰った。
紙をめくる音が、マイクに乗った。
「……笹倉、悠真さんという方です」
◇
会見場がざわついた。
名前が出るとは、誰も思っていなかった。掲示板で二か月半、「三層の畑の人」「畑おじさん」と呼ばれてきた人物に、公式の場で名前がついた。
記者たちが一斉に手元の端末を叩き始める。三十秒後には、その名前が外に出る。
「職業は」
「無職、と届けが出ております」
「無職?」
「元は民間企業の技術者であったと伺っております」
「そこで何を」
「……栽培試験、と申告されています」
三列目から声が飛んだ。
「魔素環境で作物が育つということですか」
広報担当が、初めて言葉に詰まった。
「そのような報告は、受けておりません」
「では、搬出物の申告は何ですか」
「……確認して、追ってお答えします」
その回答を、会場の誰も信じていない顔をしていた。
◇
三雲静は、末席にいた。
彼女の観測データが、いま壇上で読み上げられている。四十一パーセントという数字は、彼女が今朝六時十七分に三系統で照合したものだ。
その数字が、「階層機能の低下」という文脈で使われている。
彼女は手を挙げなかった。挙げる資格がない。発言者として登録されていないからだ。
九年間、彼女の書いた報告書を誰も読まなかった。今日、初めてその中身が公の場で読み上げられている。読み上げているのは彼女ではなく、意味は彼女の意図と逆だった。
膝の上で、配布資料の余白に鉛筆を走らせた。
『傾きが一定。段階的低下なし。過去事例と不一致』
書いて、消した。
消した跡が、紙にうっすら残った。
◇
同じ時刻。
俺は第三層のB-1にいて、試験区の作土を掘り返していた。
第五層の再設計を、まず第三層で試している。畝を三十センチ上げて、葉の高さで測る方式が成立するかどうか。第五層で失敗すると三週間が消えるが、第三層なら比較対象がある。
畝を一本だけ作った。長さ二メートル。実験用だ。
灯が横で三脚を立てていた。
その灯のスマホが鳴った。
◇
灯は画面を見て、そのまま固まった。
「悠真さん」
「はい」
「あの」
声が続かない。
俺は手を止めて、こちらに向けられた画面を見た。
速報の見出しに、俺の名前があった。
◇
しばらく、二人とも何も言わなかった。
換気扇が回る音がしている。壁のほうから、水の滴る音が等間隔で続いている。三か月半、毎日聞いてきた音だ。
「これ、まずいですか」
「分かりません」
俺は掘りかけの畝に視線を戻した。
「まずいかどうかは、この後の人が決めるので」
俺は土を寄せながら続けた。
「俺にできるのは、明日の畝を上げることだけです」
灯が「この後の人って」と聞いた。俺は答えられなかった。
誰のことを言ったのか、自分でもよく分かっていなかった。
◇
俺はスコップを取って、作業を続けた。
畝を三十センチ上げる。土を寄せて、法面を鎮圧して、上面を平らにする。二メートルぶんで四十分かかった。
その間、灯はカメラを回さなかった。三脚を立てたまま、スマホを見ていた。
「悠真さん」
「はい」
「コメント、すごいことになってます」
「そうですか」
「見ないんですか」
「見ても、畝は上がらないので」
灯が小さく笑った。笑ってから、また画面に目を落とす。
「悠真さん」
「はい」
「あたし、たぶん、この後けっこう聞かれます。あの人の知り合いですかって」
「そうですか」
「なんて答えたらいいですか」
「本当のことでいいと思います」
「本当のことって、何ですか」
手が止まった。
三か月半、この人は毎日ここに来ている。何と呼べばいいのかを、俺も考えたことがない。
◇
会見場では、質疑が終わっていた。
人が退室していく中で、蒲田正之は席を立たなかった。
膝の上の二枚の紙を、端を揃えて重ねる。それから静かに閉じた。
通路に出たところで、部下が追いついてきた。
「課長。うちが出る話でしたか、これ」
「いいえ」
「じゃあ、なぜ」
蒲田は答えずに、廊下の窓のほうを見ていた。
「ひとつ、頼まれてくれますか」
「はい」
「第三ダンジョン第三層の、区画貸与の契約書を持ってきてください」
部下が首をかしげた。
「区画管理課の管轄ですが」
「ええ」
「環境保全部が、ですか」
蒲田は窓から目を離した。
「うちが、です」
部下は少し待ってから、もう一つ聞いた。
「何を確認されるんですか」
「搬出物の欄です」
「搬出物」
「その方が、何を持って出ているか」
蒲田はそう言って、廊下を歩き出した。歩き方が速くもなく、遅くもなかった。
◇
第三層では、俺がまだ畝を上げていた。
高さ三十センチ。長さ二メートル。
この上に、明日、豆を播く。
葉が小さくて、茎が立って、実が上につく作物。第五層で選び直したものを、まず第三層で試す。
土を鎮圧しながら、俺は明日のことだけを考えていた。
そのとき、協会の廊下で誰かが契約書を取り寄せていることを、俺は知らない。
畝の上面を手のひらで押さえる。ちょうどいい硬さになるまで、あと三往復。




