第22話 悔しいです
空の畝が、八メートル。
三十株を全部抜いた。巻いた葉のまま抜いたものが十四、まだ形を保っていたものが十六。形を保っていても、葉柄を折れば断面に褐色の栓が入っていた。時間の問題だった。
赤い灰土が、二か月前と同じ状態で並んでいる。
俺が持ち込んだ作土だけが、上に薄く残っていた。堆肥の匂いがまだする。この層の匂いに混ざって、そこだけ外の土の匂いがした。
抜いた株を袋に詰めるのに、二時間かかった。根まで丁寧に掘り出す。根の状態を記録するためだ。
「三十万だぞ」
大牟田が言った。区画料が三か月で四十五万、資材と電気を入れれば、もっといく。だが大牟田の言っている三十万は、たぶん、彼にとって想像できる最大の金額だ。
「はい」
「三十万、土に埋めたようなもんだろ」
「はい」
「悔しくねえのか」
その質問は、この日、二人から別々に来ることになる。
◇
灯がカメラを持ったまま、畝の端に立っていた。
撮っていない。レンズにキャップがかかっている。
「悠真さん」
「はい」
「悔しくないんですか」
俺は抜いた株を袋に詰める手を止めた。
この二か月、同じ質問を何度かされている。二百七十回で止まった動画の日も、八十円の値段をつけた日も、矢代さんに何も言い返さなかった日も。
そのたびに、俺は何か別のことを答えてきた。
今日は、別のことが思いつかなかった。
「悔しいです」
◇
灯がカメラを取り落としかけて、ストラップで受け止めた。
「え」
「悔しいです」
「二回言いましたね」
「はい」
大牟田がスコップの手を止めて、こちらを見ていた。
「兄ちゃん、あんた、そういうの言うんだな」
「言います」
「初めて聞いたぞ」
「口に出したのは、初めてです」
俺は袋の口を縛って、次の株に手を伸ばす。
根が土から離れるとき、細い音がした。細根が切れる音だ。よく張っていた証拠で、それが余計にこたえる。
「でも、抜かないと次のデータが取れないので」
◇
二人が黙った。
灯がしばらくして、小さい声で言った。
「そこが、その、なんていうか」
「はい」
「ずるいです」
「ずるい、ですか」
「悠真さん、悔しいって言った直後に、それ言うんですか」
言われて、初めて自分の言葉の並びに気づいた。
悔しい。だから抜く。
その二つは、俺の中では順番に繋がっている。悔しいから止まるのではなく、悔しいから次に行く。
説明しようとして、うまくいかなかった。
「順番が逆なんです」
「逆」
「悔しいのが先で、抜くのが後です。逆にすると、抜けなくなるので」
「順番が逆だと、どうなるんですか」
「抜くのを先にすると、悔しくなくなります。そうなると、次に同じことをやります」
灯はしばらく黙って、それからキャップを外した。
「撮ります」
「どうぞ」
◇
再設計に、丸一日かけた。
紙に描いたのは、第三層とはほとんど別の畑だった。
畝を高くする。地表から三十センチ上げて、葉の位置を魔素の薄い高さに持っていく。第三層では地面近くが濃かったから、逆のことをしていた。
トンネルの形を変える。密閉して外気を遮るのではなく、下から上へ空気を流す。葉の周りの空気を動かし続ければ、葉面に触れる魔素の総量が減る。
作物を変える。第三層で使った葉物は、葉の面積が大きすぎる。ここでは豆にする。葉が小さく、茎が立ち、実が上につく。
馴致の測り方を変える。地表ではなく、葉の高さで測る。測定器を刺すのではなく、支柱に括りつけて空中で測る。
豆の品種を決めるのに、二時間かかった。葉が小さく、茎が立ち、実が上につく。条件を満たすものを種苗のカタログから六つ選んで、そのうち生育日数が短い二つに絞った。
図面の隅に、換気の風速も書き込んだ。毎秒〇・三メートル。速すぎると葉が乾き、遅すぎると魔素が滞留する。この数字に根拠はない。第三層の湿度管理から逆算しただけの当て推量だ。
当て推量を書くのは久しぶりだった。第三層では、二か月かけて全部の数字に根拠をつけた。
最後の一項目を書いたところで、ペンが止まった。
これは、俺の手順ではない。
第三層の手順を作るのに、二か月かかった。第五層の手順を作るのに、また二か月かかる。第八層なら、また別の二か月がいる。
層の数だけ、二か月がいる。
◇
夕方、昇降機ホールで三人になった。
大牟田が缶コーヒーを二本買ってきて、一本を俺に投げた。金は受け取らなかった。
「兄ちゃん」
「はい」
「なんでそこまでやるんだ」
この人がこの質問をするのは、二度目だ。
一度目は、三株焼いた日だった。あのときは答えなかった。
「やり方が分かれば、俺じゃなくてもできるので」
◇
大牟田が缶を口から離した。
灯がこちらを見た。
「……それ、どういう意味ですか」
灯の声が、いつもより低かった。
「そのままの意味です」
「悠真さんじゃなくても、って」
「はい」
俺は缶のプルタブを開けた。
「いま、この工程を最後まで通せるのは、たぶん俺だけです。三雲さんにも同じことを聞かれて、そう答えました。そうしたら、それがいちばん危ないと返されました」
「危ない?」
「そのときは意味が分かりませんでした。でも、たぶん、こういうことなんだと思います」
俺は空になった第五層の畝の方角を指す。
「俺が一人で失敗すると、失敗したことが誰にも残らないんです。三十株焼けたのは、俺の頭の中にしかない。俺が明日いなくなったら、次に第五層で畑をやる人は、また三十株焼きます」
◇
灯がカメラを構え直した。
「それ、もう一回言ってもらえますか」
「同じことを二回は言えません」
「じゃあ今のでいいです。撮れてました」
灯はカメラを下ろして、それからこう続けた。
「あたし、五時間撮って二十分に切ってるんですけど」
「はい」
「切ったやつも、消してないんです。全部残してます」
「そうですか」
「三年ぶんあります」
俺は缶を飲み干した。
三年ぶんの素材が、どこかのハードディスクに全部残っている。その意味を、このときの俺は考えなかった。
缶を潰して、ホールのごみ箱に入れた。金属が跳ねる音が、天井まで届いて返ってきた。
◇
その夜、工程表の第五層のページに、新しい一行目を書いた。
『五層 やり直し 一日目/畝高三十センチ/葉面高で測定』
その下に、日付を並べた。
七日ごとに三段階。二十、三十五、五十。
九月十四日まで、罫線だけが並んでいる。
ページを閉じようとして、思い直した。
最後の欄の下に、括弧つきでこう足した。
『(今回の失敗記録は、別紙に残すこと)』
別紙の一枚目には、こう書いた。
『第五層 一回目 全滅/三十株/原因=葉面からの魔素侵入を想定していなかった
第三層の手順をそのまま適用したことが誤り
同じ失敗を防ぐには、着手前に「効く部位」を確かめること』
効く部位。
大牟田が喉を叩いて教えてくれたことを、俺は聞いた三日後に忘れていた。




