第18話 権利関係を、整理したいんだよ
名刺を受け取って、そのまま作業着のポケットに入れた。
読まなかった。読まなくても、七年ぶんの記憶で足りる。
この人は名刺を出すとき、必ず両手で持って、相手の目を見て、二秒待つ。新人研修でそう教えていた。教えていたのは、たしかこの人自身だ。
「元気そうじゃないか」
「はあ」
「いや、正直、驚いたよ。ネットで見てね。まさか君だとは思わなかった」
矢代は畝のほうへ二歩進んで、ビニールのトンネルを覗き込んだ。革靴のビニールカバーが、灰土の上でかさかさ鳴る。
「これは、うちの工場でやってた層構造だな」
「似てます」
「似てるじゃなくて、同じだろう。下層に灰土、上に五センチの作土。境目に細根を集める設計だ」
「はい」
「馴致というのは、あの塩害地のやつだね。段階を踏んで慣らすやつ」
「はい」
「何段階だったかな」
「三段階です」
「三段階か。期間は」
「三週間です」
「三週間ね」
矢代は手帳も出さずに聞いていた。覚えて帰るつもりなのだろう。
矢代は全部知っている。
手法の名前も、層構造も、工程の名前も。会議で聞いた言葉を、そのまま覚えていられる人だ。七年間、その記憶力で役員会を通してきた。
ただ、灰土を握らない。膝もつかず、湿度計にも触れず、畝の脇にしゃがみもしないで、立ったまま写真を撮っている。
三十枚くらい撮って、それで満足したらしかった。
◇
「会社をね、作ったんだ」
矢代はビニールから離れて、俺のほうを向いた。
「グリーンサイト・アグリテック。読みにくい社名だが、投資家がそう付けろと言うんでね。旧社の技術資産を引き継いで、農業技術の事業化をやる。倒産は倒産として、あそこにあった知財は誰かが活かさなきゃいけない」
「はい」
「君の部署が最後まで数字を出せなかったのは、事業化の設計が悪かったからだ。技術の問題じゃない。私はそう思っている」
七年間、一度も言われたことのない言葉だった。
「そこでだ」
言い方が、七年前の会議とまったく同じだった。「そこでだ」から始まる話は、たいてい誰かの仕事が増えるか、誰かの予算が減る。
「君のやっている土壌設計は、在職中の職務発明にあたるんじゃないかね」
◇
「あの塩害地の記録は、業務で作ったものだ。手順も、そこで確立したものだろう。会社の設備と、会社の時間で」
「はい」
「となると、権利の帰属先は当社になる」
「そういうものですか」
「そういうものなんだよ」
矢代は微笑まなかった。困ったような顔をしていた。困っている演技ではなく、本当に困っているように見えた。この人は、自分が正しいことを言っていると思っている。
「言っておくが、君を追い出したいわけじゃない。むしろ逆だ。正式に契約して、君に開発責任者として入ってもらいたいと思っている」
「はい」
「給料も出す。前より出す。倍とは言わないが、少なくとも前の水準は超える」
「はあ」
「悪い話じゃないだろう」
畝のほうで、換気扇が回る音がしていた。
「円満に整理したいんだよ。こういうものは、こじれると誰も得をしない」
◇
俺は測定器を持って、B-1の壁際に刺した。
二十一。予定より一ポイント高い。換気扇の風量を一目盛り上げて、五分待って、もう一度刺す。二十。
この一ポイントを放っておくと、四日後に葉の縁が黄色くなる。四日後に気づいたときには、根はもう固まり始めている。
毎日測る理由は、そこにある。
矢代がその作業を見ていた。
「熱心だな」
「毎日やってます」
「そういうところは、変わらないな」
褒めているのか、呆れているのか、判断がつかなかった。七年間、この人の言葉はいつもそうだった。
「笹倉くん」
「はい」
「君はそうやって、いつも何も言わないな」
俺は手を止めた。
七年前、最終出社日の事務室で、この人は俺に「土いじりしかできない人間に、払う給料はもうない」と言った。あのときも俺は何も言わずに、頭を下げて出ていっただけだ。
それを、この人はずっと覚えていたらしい。
「言っても、土は変わらないので」
矢代の顔が、一瞬だけ止まった。
◇
昇降機ホールまで、二人で歩いた。
矢代は歩きながら、ずっと喋っていた。
事業計画のこと。第八層に試験区画を借りる予定だという話。投資家がついていて、年内に流通へ乗せたいのだという。
どれも、俺には判断のしようがない。
「試験区画を、借りるんですか」
「借りた。第八層だ」
「八層は」
「素材が出る層だからね、区画料は高い。だが採算は取れる」
俺は歩きながら、それを考えていた。
第八層。第三層より深い。魔素の系統が違う可能性が高い。
俺が今やっている手順は、第三層の水系のものだ。系統が違えば、侵入経路も違う。根から入るか、葉から入るかで、設計は全部変わる。
それを、この人は知らない。
言うべきかどうか、迷いが残る。
「矢代さん」
「うん?」
「第八層の灰土は、握りましたか」
矢代は少し笑った。
「握るって、手でかい」
「はい」
「そういうのは、現場の子がやるだろう」
矢代は昇降機のボタンを押しながら、そう言う。
現場の子というのが誰を指すのかは、聞かずにおいた。七年前、その言葉は俺のことだ。
◇
昇降機の扉が閉まった。
灯が通路の角から出てきた。
カメラを構えたまま、ずっとそこにいたらしい。
「あいつ、何なんですか」
「前の会社の、専務です」
「専務」
「はい」
「……悠真さんをクビにした人?」
「はい」
灯の声が跳ね上がった。
「はあ?! なんで普通に喋ってるんですか!」
「喋りかけられたので」
「いや、そこは!」
灯は言いかけて、それから自分の手元を見た。カメラのランプが点いている。
「あの、これ、撮っちゃいましたけど」
「どうぞ」
「上げませんよ。上げないですけど」
灯はカメラを下ろして、ストラップを両手で握った。
「消さないで、持っときます」
「何に使うんですか」
「分かんないです。でも、たぶん要ります」
灯はそれ以上説明しなかった。
三年ぶんのアーカイブを日付順に並べ直している人だ。要ると言うなら、要るのだろう。
◇
その日、俺は工程表を開いて、B-1の欄に数字を書き込んだ。
馴致十二日目。壁際二十、中央二十、通路側十九。
順調だ。
書き終えて、ページの余白を見た。
何か書いておくべきだという気がして、ペンを持ったまま少し考えた。
結局、こう書いた。
『第五層、下見に行く』
第八層のことは書かなかった。
あそこの灰土がどうなっているかを、俺は知らない。知らないことは書けない。
ただ、もし系統が違っていて、矢代さんがそれを知らないまま作付けをするなら。
三週間では、済まない。
ペンを置いて、B-1のほうを見た。
馴致十二日目の畝に、緑が二列並んでいる。ここまで来るのに十二日かかった。あと九日で三十五に上げて、そこからまた七日。
順番を守れば、育つ。守らなければ、焼ける。
それだけの話を、俺はまだ誰にも説明できていない。




