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第19話 匂いが、違う

 第五層に降りた瞬間に、汗が出た。


 三十四度ある。第三層が十五度で一定だから、十九度の差を階段一つで越えることになる。空気が乾いていて、鼻の奥が痛くなった。

 照明は第三層より多い。素材が出る層なので、協会が通路を整備している。人もいる。装備を担いだ探索者が、四人組で通り過ぎていった。

 壁に非常灯の表示があり、その下に救護所までの距離が書いてある。四百二十メートル。第三層にはこの表示がない。作る必要がないからだ。


「兄ちゃん、こっちだ」


 大牟田が先を歩いていく。十二年通った稼ぎ場だ。曲がり角で迷わない。


「西の奥に空いてるとこがある。素材が出ねえから誰も入らねえ」

「第三層と同じですね」

「同じじゃねえよ。ここは出る」


  ◇


 途中で三回、他の探索者とすれ違った。全員が大牟田に会釈していく。十二年いれば顔になる。

 俺のほうを見る目は、ここでも同じだった。作業着にゴム長で、担いでいるのがスコップと測定器の人間は、この層でも浮く。


 案内された区画は、第三層のA-7より広かった。


 灰土の色が違う。第三層のは灰白色だが、ここのは赤みがかっている。鉄が酸化した色に近い。

 しゃがんで、一握り取った。


 指で潰す。

 崩れ方が違う。第三層のは粉になるが、ここのは粒のまま散る。角が立っている。


 鼻に近づけた。


 手が止まった。


  ◇


 焦げた匂いがした。


 第三層の灰土は、乾いた鉱物の匂いだった。無臭に近い。

 これは違う。何かを焼いたあとの匂いが、はっきりある。炭とも違う。金属を熱したときの匂いに近い。


「どうした」

「匂いが、違います」

「匂い?」

「はい」


 大牟田がしゃがんで、同じように灰土を握った。それから鼻に近づけて、二秒で顔をしかめた。


「熱いな、これ」

「熱い、というのは」

「いや、匂いが熱い。うまく言えねえけど」


 うまく言えていた。

 匂いというのは、その場の温度と水分と、そこで起きている化学反応の混ざりものだ。「熱い匂い」という言い方には、ちゃんと中身がある。

 俺は測定器を出した。


  ◇


 測定器を刺した。


 基準値の二百八十六パーセント。第三層より少し低い。数字だけ見れば、こちらのほうが条件はいい。


 だが、数字が同じでも、中身が同じとは限らない。


 俺は測定器を抜いて、今度は空気中に向けた。地面から一メートルの高さで測る。

 二百四十。

 もう一度、二メートルで測った。二百十八。

 三十センチでは、二百六十。


 第三層では、この高さで測ると数字が大きく落ちる。魔素は空気より重いから、地面近くに溜まる。一メートル上では、地表の半分以下になるのが普通だ。

 ここでは、二百八十六に対して二百四十。あまり落ちていない。


 軽いのか。

 あるいは、温度で舞い上がっているのか。


「大牟田さん」

「おう」

「この層で、探索者の人が最初に効いてくるのは、どこですか」

「どこって」

「体の、どこからきますか」


 大牟田は少し考えて、それから自分の喉のあたりを叩いた。


「ここだな。息が浅くなる。三層は手からくる。五層は喉からくる」

「層で違うんですか」

「違うぞ。七層は目だ。上がってくると、しばらく焦点が合わねえ」

「そういう話は、どこかに書いてありますか」

「ねえよ。潜ってりゃ分かることだからな」


 書いていないことのほうが、たいてい本質に近い。


  ◇


 その一言で、たぶん、答えが出ていた。


 第三層の魔素は、地面に溜まって、根から入る。だから俺は根を守る設計をしてきた。作土を敷いて、粒径を揃えて、濃度を地表で測った。

 第五層の魔素は、宙に浮いている。探索者は喉から効く。


 植物なら、葉だ。


 葉から入るなら、俺の手順は全部ずれる。作土の設計も、測定点の高さも、遮光の考え方も。第三層では光を足すのが正解だったが、こちらでは葉の露出を減らさないといけないかもしれない。


 「かもしれない」でしかなかった。

 俺が持っているのは、第三層のデータだけだ。


  ◇


 協会の区画管理課に寄ったのは、その日の午後だった。


「二層またぎですか」

 滝本さんが書類棚を開けながら言った。

「これは前例がないんですよねえ」

「駄目ですか」

「駄目じゃないです。前例がないだけで。作りますよ、書式」


 滝本さんは楽しそうだった。この人はいつも、書式を作るときがいちばん生き生きしている。


「第五層は素材の出る層なので、区画料が高いです。三十アールで月十五万。それと、あちらは湧出があるので、保険の等級も上がります」

「いくらですか」

「月に八千円ほど」

「十五万」

「A-7とB-1で十一万ですから、合計二十六万ですね」


 電卓を叩いた。

 今月の売上が、二十四万。トキさんへの卸が十六万、直販が八万。そこから固定費と資材代と電気代が出ていく。

 第五層を借りれば、固定費だけで二十六万になる。


「三か月は赤字です」

「そうなりますねえ」

「出します」

「即答ですね」

「三か月なら、持ちます」

「その先は」

「その先は、五層で穫れます」


 滝本さんは判子を持った手を止めて、こちらを見た。


「笹倉さん。差し出がましいんですけど」

「はい」

「大丈夫ですか」

「分かりません」

「分からないのに、判子を押させるんですか」

「押さないでください、とは言えないので」


 滝本さんは笑わなかった。


 滝本さんは判子を押した。押してから、こう言った。


「うちの課、こういうときに止める権限がないんですよ。貸すのが仕事なので」


  ◇


 夜、アパートで工程表を広げた。


 第五層のページを新しく起こす。

 項目を書き出そうとして、ペンが止まった。


 第三層の八項目が、そのまま使えない。

 葉から入るなら、葉面の魔素濃度を測る必要がある。そんな測り方を、俺は知らない。測定器は地面に刺す前提で作られている。


 灯からメッセージが来た。


『五層、どうでした?』


 俺は少し考えて、こう返した。


『匂いが違いました』


 打ってから、これでは何も伝わらないと思った。だが他に言いようがない。

 既読がついて、すぐに返事が来た。


『それ、いい話ですか、悪い話ですか』


  ◇


 返事を打つのに、五分かかった。


『分かりません』


 打ってから、それでは足りないと思って、もう一行足した。


『第三層のやり方は、たぶん通用しません』


 既読がついた。

 しばらく、返事がなかった。


 携帯を伏せて、工程表に向き直る。

 結局、項目は書かなかった。

 第三層の八項目を写しても、それは第三層の畑の設計図でしかない。ここで必要なのは、まだ名前のついていない測り方だ。


 白紙のページに、まず一行だけ書いた。


『五層 一日目/前提を疑うこと』


 九年前、塩害地の記録に、俺は同じことを書いている。

 土壌ごとに侵入経路が違う。前提を疑え。


 書いたのは自分だ。

 守れるかどうかは、また別の話になる。

 四月に三株焼いたのも、成功が続いていたからだった。あのときは畝一本ぶんで済んだ。

 今度は、三十アール借りている。


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