第17話 え、なにこれ
カブを抜く前に、灰土を一握り取った。
指で潰す。崩れる。匂いを嗅ぐ。
二か月半前、この層の灰土は何の匂いもしなかった。乾いた鉱物の匂いだけだった。
今は、湿った青い匂いがする。土になりかけている匂いだ。
「毎日やりますね、それ」
灯がカメラを回しながら言った。三脚を立てて、俺の手元の高さに合わせている。
「これを飛ばした日は、必ず何か見落とすので」
「飛ばしたことあるんですか」
「一回あります」
「どうなりました」
「三株、焼きました」
「それ、四月の」
「はい」
「じゃあ、それから毎日ですね」
「それより前からです。飛ばしたのが一回だけです」
灯はカメラを止めなかった。
◇
カブを抜いた。
葉の付け根を持って、まっすぐ上に引く。抵抗が一瞬あって、それから土が割れる。
根の白さが、光の下に出てくる。
四十八個。今日はA-7側だけで、これだけ穫れた。B-1はまだ馴致の途中で、あちらの畝には芽が出たばかりの緑が並んでいる。
二区画になってから、朝の作業は一時間半に伸びた。測定点も六点になった。壁際・中央・通路側を、区画ごとに測る。数字が倍になると、書く欄も倍になる。工程表は方眼紙の裏まで使うようになった。
一つ、その場で割った。手で割ると繊維に沿って裂ける。断面に緑が入っていない。
半分をかじった。
水気が少ない。噛むと、最初に硬さが来る。それから甘みが出て、辛みが遅れて追いかけてくる。カブの辛みは表皮の近くにあるので、皮を厚く剥くと消える。この畑のは、皮が薄いので残る。
「悠真さん」
「はい」
「今の、撮っていいですか」
「もう撮ってるでしょう」
「ちゃんと言ってから撮りたいんです」
◇
まるとみの店先は、開店前から人が並んでいた。
トキさんが店の中から覗いて、それから外へ出てきた。
「何だいこれ」
「並んでます」
「並んでるのは見りゃ分かるよ。何時から並んでんの」
「六時半だそうです」
先頭にいた女性が「五時半です」と訂正してきた。二番目の男性が「私は六時十分」と付け足す。
トキさんは腕を組んで、列の端まで目でたどった。二十人はいる。ほとんどが近所の人で、探索者は一人もいない。
買い物かごを提げた年配の女性が多いが、その中に制服の高校生が二人と、スーツの男が一人混じっていた。出勤前に寄ったらしく、腕時計をしきりに見ている。
この人たちは、たぶんダンジョンに入ったことがない。魔素という言葉を、ニュースでしか聞いたことがないだろう。
「あんた、六十持ってきたね」
「はい」
「足りないよ」
◇
トキさんは木箱からカブを一つ取って、店先の台に置いた。
包丁を入れる。真ん中から、まっすぐ割る。
断面を、列の一番前の女性に向けた。
「見なよ。芯が白い」
「ほんとだ」
「普通のカブはね、ここに薄い緑が入るんだよ。窒素をやりすぎると入る。これは入ってない。窒素をやってないからだ」
「肥料なしってこと?」
「堆肥だけだとさ」
トキさんは割ったのを八つに切り分けて、爪楊枝を刺して、そのまま列に配り始めた。
「食べてごらん。金は要らないよ」
最初の一人が手を出すまで、三秒かかった。
◇
高校生が一つ取って、口に入れた。
噛んで、二回目の咀嚼のところで動きが止まった。それから隣の連れの腕を掴んだ。
「え、なにこれ」
その声が、列の後ろまで届いた。
「なに、なんて言った?」
「なにこれ、って」
「そんなにおいしいの」
後ろのほうで手が挙がった。ベビーカーを押した若い母親が「あたしも」と言っている。トキさんは切り分ける手を止めないまま、次の一つに包丁を入れた。
俺は店の脇に立って、それを見ていた。
カブは、俺が作ったものだ。
だが、この場で起きていることは、俺のやったことではない。土を作って、水を引いて、光を当てて、待った。それだけだ。
旨いと言っているのは、この人たちのほうだった。
列の中ほどにいた女性が、俺のほうを見て声をかけてくる。
「あの、これ作ってる方?」
「はい」
「どこでお作りになってるの」
「板橋です」
「板橋のどこ」
答えられなかった。
女性は特に食い下がらず、「そう。おいしいわね」と言って、また前を向いた。
俺は木箱の縁を握り直す。手のひらが汗ばんでいる。
◇
六十個は、三十四分で終わった。
最後の五個は、切り分けを見ていた人が「三つください」「二つ」と言って、それで消えた。
最後の一個を売り切ったあと、トキさんはレジを閉めずに、店先の椅子に腰を下ろした。
「あんた」
「はい」
「あたし、この店を四十二年やってる」
「はい」
「行列ができたのは、三回目だよ」
トキさんは前掛けのポケットから、丸めた紙を出した。
「一回目は、開店した年。二回目は、二十年前に息子が新聞に出たとき」
紙を広げて、こちらへ差し出す。
手書きの値札だった。『板橋産 かぶ 一束二百八十円』。
「産地、これでいいのかい」
「板橋区なので、嘘ではないです」
「嘘じゃないけどさ」
トキさんは値札を見たまま、少し黙った。
「あたしは、あんたの土の名前を知らないんだよ」
トキさんは値札を丸めて、ポケットに戻した。
「四十二年やっててね。仕入れ先の畑には、ぜんぶ行ったことがあるんだ。埼玉の苗屋も、千葉の人参も、群馬の白菜も。行って、土を見て、それから仕入れる」
「はい」
「あんたのだけ、行ったことがない」
トキさんは椅子から立ち上がって、店の中に入っていった。
入り際に、背中で言った。
「連れてけとは言わないよ。言わないけどさ」
◇
その夜、灯から連絡が来た。
『同接、四千いきました』
文面だけで、返事のしようがない。
俺が何と打とうか考えているうちに、次のが来た。
『カブ割るとこ、二十四分回してました。そのままです。編集してません』
『それでも見られてました』
少し間があって、また来た。
『でもコメントが』
そこで止まった。
三分待っても、続きは来なかった。
俺は携帯を置いて、工程表を広げた。
今日の欄に、収穫数と八項目を書いた。B-1の馴致は十一日目。あと十日で三十五に上げる。
携帯が鳴った。
『すみません。なんでもないです』
なんでもないことを、三分かけて打ち直す人ではない。
俺は返信を打ちかけて、消す。何と打っても違う気がする。
結局『はい』とだけ送った。既読はついたが、返事は来ない。
窓の外で電車が通って、部屋がわずかに震えた。
◇
翌朝、区画に降りると、入口に人が立っていた。
灯ではない。探索者でもない。
スーツに、革靴。靴の上からビニールのカバーをかけている。ダンジョンに来る格好ではないが、見学者としては正しい格好だった。
男は俺に気づいて、名刺入れを取り出した。
その手の動きに、見覚えがあった。
「久しぶりだね、笹倉くん」
差し出された名刺には、こう書いてある。
『株式会社グリーンサイト・アグリテック 代表取締役 矢代淳』




