第16話 十三年ぶりの、その次
「拡張ですか。拡張の書式、あったかなあ」
滝本さんは書類棚の三段目を開けて、それから四段目を開けた。前に来たときと同じ動きだった。この課はいつも、まず書式を探すところから始まる。
「B-1ですね。あそこも空いてます。というか、全部空いてます」
「全部」
「浅層の区画で使われてるの、笹倉さんのA-7だけですよ」
棚の奥から、また黄ばんだ用紙が出てきた。
「二区画まとめて借りると、少し安くなります。単独で八万が二つで十六万のところ、まとめて十一万」
「割引があるんですか」
「あるんですよ。誰も使わないので、私も初めて知りました」
滝本さんは用紙をカウンターに置いて、判子のキャップを開けた。
「十三年ぶりの契約者が、十三年ぶりの拡張申請を出す。うちの課の年間実績が、去年の三十倍になります」
「去年は」
「ゼロです」
◇
書類を出す前に、金を数え直した。
封筒に六万八千円。今月の売上がそのまま入っている。
発電機の中古が十八万。区画の追加が月三万。
足りない金額は、十一万二千円だった。
日雇いを週三に増やせば、二か月で届く。二か月待てば、その間に葉物の回転が二回ある。回転が二回あれば、売上も増える。増えれば早く届く。
計算は合う。合うのだが、二か月のあいだ、B-1は空いたままだ。
書類はまだ出していない。
畑に降りて、B-1のほうを見た。
境界の杭が四本立っているだけの、灰白色の三十アール。二か月前のA-7と同じ景色だ。
あそこに光を入れて、水を引いて、作土を敷けば、二か月後には緑になる。それが分かっているのに、二か月待つ。
待つのは工程のうちだ。工程を飛ばしたことは、まだ一度しかない。三株を焼いた朝のことは覚えている。
それでも、と思った。
あのときの三株は、俺の焦りが焼いた。今度の二か月は、俺の焦りではなく、金が決めている。
同じ「待つ」なのに、味が違った。
◇
夕方、まるとみに四十個を届けた。
その日も店先に列ができていて、俺は木箱を抱えたまま列の脇を通った。並んでいる人が振り返って、それから前の人の背中をつついた。
「来たよ」
「あの人?」
「そう。畑の人」
トキさんは木箱を受け取って、いつもどおり一つ割って断面を見た。それから、こちらを見ずに言った。
「あんた、量、増やせないかい」
「無理です」
「なんで」
「電気が足りません」
トキさんは包丁を置いた。
「電気」
「発電機を増やさないと、畝を増やせないので」
「いくらだい」
「中古で十八万です」
トキさんは店の奥へ入っていった。
俺は木箱を抱えたまま、その場に残された。列の三番目にいた女性が「ねえ、これ何時までやってるの」と聞いてくる。四十個までですと答えると、女性は前の人に「四十だって」と伝え、それがそのまま後ろへ流れていった。
列が少しだけ短くなった。諦めて帰る人がいたらしい。
◇
トキさんが戻ってきて、封筒をカウンターに置いた。
「持ってきな」
「これは」
「三か月ぶんの先払い」
厚みで、だいたい分かった。
「受け取れません」
「貸すんじゃないよ」
「同じです」
「同じじゃない」
トキさんは封筒を指で押して、こちらへ滑らせた。
「あんたのとこの野菜、三か月ぶん先に買っとくって言ってんの。うちが買う。もう決めた。値段もこっちで決めた」
「まだ穫れてません」
「穫れるだろ」
「穫れないかもしれません」
「そのときは、あたしの博打が外れたってだけだよ」
俺は封筒を見ていた。
厚みからして、二十万は下らない。三か月ぶんの卸としては、多すぎる。
「あんた、断りたいんだろ」
「はい」
「なんで」
「返せなかったときのことを、考えるので」
トキさんは前掛けで手を拭いて、それから初めてこちらを正面から見た。
「あたしはね、味しか信じないんだよ」
◇
「産地も、肩書きも、聞かない。何十年もこれやってるとね、いい土で育ったもんは断面で分かる。あんたのは分かった。だから信じた」
トキさんは封筒を、俺の胸のあたりに押しつけた。
「信じたもんに、金を返させたりしないよ。返すのは野菜でいい」
◇
その夜、区画管理課に電話をかけて、翌朝に書類を出した。
滝本さんは判子を押しながら、ずっと何か喋っていた。年度末の実績報告の話と、去年まで区画管理課が廃止候補に挙がっていた話と、その理由が「利用実績ゼロが十三年続いたから」だという話だった。
「笹倉さんが来てくれたおかげで、うちの課、たぶん来年もありますよ」
冗談のつもりだったのかもしれない。
俺は「そうですか」としか言えなかった。
◇
発電機の搬入は、三日後になった。
中古屋の軽トラがゲートまで来て、そこから先は自分で運ぶ。二百キロ近い塊を、階段と昇降機で地下六十二メートルまで降ろす。
前のときは三回に分けて、途中で二回落とした。
今回は、大牟田がいた。
「よこせ」
「重いですよ」
「重いから言ってんだよ」
台車に乗せて、二人で押した。傾斜のあるところは、大牟田が前に回って支える。腕の太さが違う。十二年潜っている人間の背中はこうなるのかと、後ろから見ていて思った。
途中で二回休んだ。休むたびに大牟田がペットボトルを差し出してくる。中身は水道水だ。
「兄ちゃん、こういうの、いつも一人でやってんのか」
「はい」
「前のときは」
「三回に分けて、二回落としました」
大牟田が声を出して笑った。層の中で人が笑う音を聞いたのは、初めてだった。
昇降機の中で、大牟田が口を開く。
「兄ちゃん、あんた、七層行ったことあるか」
「ありません」
「俺、今月三回行った」
「そうですか」
「日帰りで」
大牟田はそれ以上言わなかった。
言わなかったが、その横顔は、何かを言おうとしてやめた形をしていた。
◇
二台目の発電機が回り始めたのは、夜だった。
ブレーカーを上げると、B-1側に吊ったLEDが順に点いていく。
十二本。区画の境界を越えて、光の帯が伸びた。
灯がカメラを構えたまま、ずっと黙っていた。
「悠真さん、なんか言ってください」
「何をですか」
「感想とか」
俺は電力計を見た。定格六・〇に対して、四・二キロワット。余力が一・八ある。換気扇とポンプを両方回しても足りる。
「三週間後に、カブが穫れます」
灯がカメラを下ろして、こちらを見た。
「それだけですか」
「それだけです」
灯が笑って、それからまたカメラを構え直した。
◇
B-1に作土を敷き始めたのは、翌日からだ。
畝は六本にする。A-7の二本と合わせて八本。三十アールの、〇・三六アール。
まだ、借りている面積の八十分の一だ。
灰土を一握り取って、指で潰した。B-1のは、A-7より少し粗い。壁から遠いぶん、水が染みていない。
粒径を揃える手間は、そのぶん少なくて済む。
工程表に、新しいページを起こした。
『B-1 一日目/馴致 二十から開始する』




