第14話 基準値の、六十八パーセントです
スーツにヘルメットという格好の人間が、畝の前でしゃがんでいた。
背中を向けている。灰白色の層の中で、そこだけ紺色が浮いていた。
俺が「あの」と声をかけると、その人はこちらを振り返りもせずに言った。
「基準値の六十八パーセントです。観測開始から九年、一度もなかった数字です」
◇
名刺を出された。
日本ダンジョン管理協会 板橋支部 観測分析課 三雲静。
「挨拶は省きます」
「はあ」
「時間がないので。私は今日、有給を取ってここにいます」
三雲さんは立ち上がって、灰土のついた手を軽く払った。しゃがんでいた場所には、彼女が持ち込んだらしい小型の測定器が刺さっている。俺のと同じ機種の、新しいほうだ。
「四月八日から今日まで、この層の魔素濃度は一定の傾きで下がり続けています。傾きが変わった日が二回あります。四月十五日と、五月十三日」
「はい」
「四月十五日に何をしましたか」
「作土を敷いて、種を播きました」
「五月十三日は」
「最初の収穫です」
「品目は」
「中玉トマトが二十四個です。翌週が三十、その次が四十」
「増えていますね」
「株が大きくなっているので」
三雲さんは手帳に何かを書き込んだ。
「一致します」
「何とですか」
「私の仮説と」
◇
灯がカメラを構えかけて、俺のほうを見た。
俺が首を横に振ると、灯はレンズを下に向けた。
「説明してください」
三雲さんは前置きなしに言った。世間話も、感想もない。九年間データだけを見てきた人の喋り方だ、と後になって思う。
「作物が、魔素を吸っています」
「植物は魔素環境で生育しません。高校の教科書に書いてあります」
「はい。俺もそう習いました」
「では、なぜここに実がなっているんですか」
俺は、しゃがんで灰土を一握り取った。指で潰す。粉になる。
「魔素は代謝を速めます」
「はい」
「速すぎれば焼けます。実際、四月二十六日に三株焼けました」
「記録にありますか」
「工程表にあります」
◇
手帳を出して、渡した。
方眼紙。日付が縦に、項目が横に。八項目が四十三日ぶん。壁際・中央・通路側の三点測定に変えた日から、欄が三倍になっている。
字は綺麗ではない。手が汚れたまま書くので、右下がりの端がところどころ滲んでいる。
三雲さんは受け取って、最初のページから順にめくった。
めくる速度が、途中で落ちた。
四月二十六日のところで止まって、それから前後のページを行き来し始めた。指が数字を追っている。
「四月二十六日、壁際四十九、中央三十五、通路側三十一」
「はい」
「同一畝内で十八ポイントの差」
「粒径が違ったので」
「粒径」
「壁から水が滲んでるところだけ、灰土が細かいんです。十八年、染みては乾きを繰り返してるので、角が取れて粉に近くなってる。粉に近いと隙間が細かい。魔素は空気より重いので、細かい隙間の底に溜まります」
「それを、匂いで気づいたと」
「握ったときの手応えです。壁際のは指に貼りつきます」
三雲さんは顔を上げて、壁のほうを見た。それからもう一度、手帳に目を落とした。
「これを、あなたは一人で見つけたんですか」
「三株枯らして分かりました」
「四百株のうち三株で」
「はい」
彼女はしばらく黙っている。
層の中は音がない。壁のほうから、水の滴る音だけが等間隔で続く。
◇
「笹倉さん」
「はい」
「私は九年、この層のデータを見ています」
三雲さんは手帳を閉じて、両手で持ったまま続けた。
「毎朝六時十五分に、三系統から数字が上がってきます。私はそれを照合して、報告書を書きます。九年で千八百通です」
「はい」
「そのうち、誰かが読んだと確認できたものが、何通あると思いますか」
答えなかった。答えを求めている質問ではない。
「あなたのこれは、私のそれと同じです」
手帳を返しながら、彼女は言った。
「毎日、同じ時刻に、同じ項目を測って、誰にも読まれない紙に書く。違うのは、あなたのほうには結果が出ていることです」
◇
鞄から、もう一冊出した。
青いファイル。『第二農地 土壌改良記録』。
「これは」
「前の会社でやってた仕事です。塩害地を三年かけて戻しました」
「三年」
「はい。採算が合わなくて打ち切りになりました」
三雲さんは表紙を開いて、二ページ目で手を止めた。
俺が九年前に書いた注意書きが、そこにある。
『同一区画内でも、土壌の物理性が異なる箇所は必ず個別に測定すること』
「四月二十六日に、これを守っていなかったんですね」
「はい」
「守らなかった理由は」
「成功が続いていたので」
三雲さんはファイルを閉じて、両手で持ったまま少し考えた。それから、こう言う。
「持ち帰って読みたいのですが」
「どうぞ」
「規定上、私が個人でこれを受け取ることは、たぶん問題になります」
「じゃあ、やめてください」
「読みます」
「怒られませんか」
「怒られたときに考えます」
◇
昇降機ホールまで、三人で歩いた。
灯がずっと黙っていた。協会の人間に対して身構えているのが、横から見ていても分かる。
昇降機の前で、三雲さんが言った。
「報告書に書きます」
その一言で、灯の肩が動いた。
「ほんとですか」
灯が前に出た。
「じゃあ、公式に、ちゃんと、育つって」
三雲さんは灯のほうを見て、それから目を伏せた。
「いえ」
「え」
「書けません」
◇
「私は、あの現象を説明できません」
三雲さんは扉のボタンを押さずに立っていた。
「作物が魔素を吸っている。それは仮説として整合します。ですが私は、それを証明する実験ができません。予算も権限もありません。私は観測分析課の分析官で、仕事は数字を照合することです」
「見たじゃないですか、いま」
灯の声が高くなった。
「実がなってるの、見たでしょう」
「見たことは、証拠になりません」
灯が何か言い返しかけて、俺は肩に手を置いた。
その手を、灯は振り払わない。ただ、拳を握ったままでいる。
「三雲さん」
「はい」
「報告書には、何を書くんですか」
「事実だけです。濃度が六十八であること。傾きが一定であること。区画に賃借者がいること」
「原因は」
「要因不明、と書きます」
九年で千八百通、その多くにそう書いてきたのだろうと思った。
三雲さんがボタンを押した。扉が開く。
乗り込んでから、彼女は一度だけ振り返った。
「笹倉さん。ひとつだけ、伺ってもいいですか」
「はい」
「あなたのやっていることが正しいとして、それを再現できる人は、いま世界に何人いますか」
「再現、ですか」
「同じ手順で、同じ結果を出せる人です」
考えた。
LEDの配光。灰土の粒径。馴致の三段階。壁の滲出水。全部を同時に扱える人間を、俺は一人も思いつかなかった。
「たぶん、俺だけです」
三雲さんの顔は動かない。
「それは、いちばん危ないです」
扉が閉まる。
なぜ危ないのか、そのときの俺には分からなかった。
分かるのは、五か月後だ。




