第12話 地味なのが撮りたいんです
朝いちばんに区画へ降りると、灯が地面に膝をついていた。
入口の杭のところで、こちらに向かって頭を下げている。作業着の膝が灰土で白くなっているから、しばらくその姿勢でいたらしい。
「何してるんですか」
「すみませんでした」
顔を上げない。
カブを抜きに来ただけの朝に、何が起きているのか分からなかった。手にした収穫かごを、とりあえず足元に置いた。
「動画のことです」
「ああ」
「勝手に撮って、勝手に上げて、勝手に伸びました。あたし、それを十日間、放っておきました」
◇
「別に、困らないので」
この十日で三回目の返事だった。
灯が顔を上げた。
「困るんです」
「はい?」
「あたしが困るんです」
膝の粉を払って立ち上がる。目が赤い。泣いていたわけではなく、寝ていないほうの赤さだ。
「配信始めたとき、自分で決めたことが三つあるんですよ。数字を盛らない。演出しない。人とか持ち物を映すときは、必ず先に断る」
指を三本立てて、それから一本ずつ折った。
「三年守ってました。守ってたから伸びなかったんですけど。それを、十日前に自分で跨いだんです」
「跨いだ、と言われても」
「跨いだんです。断らないで撮って、断らないで上げました」
俺は何と言えばいいのか分からず、かごを持ち上げた。
誰かが自分のことでこんなに困っているのを見るのは、たぶん七年ぶりだった。前の会社で、俺の部署が予算を削られたとき、経理の子が同じような顔をしていた。
「怒らないんですか」
「怒る理由が思いつかないので」
「そこが困るんですって」
◇
結局、カブを抜きながら話すことになった。
灯は隣にしゃがんで、抜いたカブを木箱に並べていく。土を落とす手つきが、三日前より上手くなっている。葉の付け根を持って、根を傷めないように置いていた。
「悠真さん」
「はい」
「撮らせてください」
カブを一つ抜く手が止まった。
「動画は困らないと言ってます」
「そうじゃなくて。ちゃんと、許可をもらってから撮りたいんです」
灯は木箱の縁を両手で押さえていた。指が白い。
「何を撮るんですか」
「全部です」
即答だった。
「三週間かかるって、前に言ってたじゃないですか。あの、慣らすやつ」
「馴致です」
「それ。全部です。土いじってるとこも、測ってるとこも、待ってるとこも。何も起きてない日も全部」
◇
俺はカブを木箱に置いて、灯のほうを見た。
「地味ですよ」
「地味なのが撮りたいんです」
「五時間かけて、何も起きない日もありますが」
「知ってます。三日連続で見てました」
灯は言い切ってから、少し早口になった。
「あの三十秒、十二万回回りました。あたしの三年ぶんです。でもあれ、悠真さんが変な人だから回ったんですよ。畑作ってるおっさんが面白いから回ったんです」
「事実ですね」
「事実だけど、嘘なんです」
灯は木箱を持ち上げて、それから下ろした。
「あそこで何が起きてるか、あの三十秒じゃ何にも分からない。あたし、それを撮ってなかったんです。撮ってたのに、撮ってなかった」
層の中は音がない。壁のほうから、水の滴る音だけが等間隔でしている。
十二万回という数字が、この人の中でどう転がっているのか、俺には測りようがなかった。三年で八百人だと本人が言っていた。八百人に三年届かなかったものが、十日で十二万に届いた。届いた理由が、自分の守ってきたやり方を破ったことだった。
俺なら、たぶん、その数字を見なかったことにする。
「分かりました」
「え」
「どうぞ」
「……いいんですか」
「はい」
灯はカメラのキャップを外して、それから外したまま数秒動かなかった。
◇
その日、灯は五時間撮っていた。
最初の三十分で、カメラの置き場所を四回変えていた。畝の高さに合わせたり、俺の手元に寄せたり、区画全体が入る位置まで下がったり。撮りながら、自分でやり方を探している動き方だった。
俺が測定器を三点に刺す。工程表に数字を書き込む。水路の継ぎ目に指を突っ込んで灰土を掻き出す。壁際の再馴致区画で、換気扇の風量を一目盛りだけ動かす。
どれも三分以上かかる作業で、その間、画面には何も起きない。灯は一度も「もっと分かりやすいこと、してもらえます?」と言わなかった。
昼に、灯が唐突に聞いてきた。
「悠真さん、これ、なんで甘くなるんですか」
カブを一つ抜いて、包丁がないので二つに割った。手で割ると、繊維に沿って裂ける。断面が白い。露地のカブは中心にうっすら緑が入るが、これは入っていない。
半分を灯に渡した。
「魔素が代謝を速めるので、光合成の回転も速くなります。作った糖を消費する前に、次の糖が来る。だから溜まります」
「へえ」
「あと、根が張ってます。ここの作土は五センチしかないんですけど、下の灰土との境目に細根が集まってて、そこで水を捕まえてる。乾湿の差が大きい土だと、根が防御に回るので、細胞壁が厚くなります。噛んだときの歯応えが変わるのはそのせいです。あと窒素を入れてないから、葉に回るぶんが実に来てる。追肥をしない畑のほうが味が濃くなるのは露地でも同じで、収量は落ちますけど」
喋ってから、口を閉じた。
三分近く一人で喋っていた。
灯はカメラを回したまま、こちらを見ていた。
「……いま、めちゃくちゃ喋りましたね」
「すみません」
「謝らないでください。それを撮りたかったんです」
◇
帰り際、昇降機のところで灯が言った。
「これ、たぶん全然伸びないですよ」
「でしょうね」
「五時間の素材から、二十分に切ります。編集、やったことないんですけど」
扉が閉まる直前、灯が思い出したように付け足した。
「あ。あの、呼び方なんですけど」
「はい」
「今まで、心の中で『農家の人』って呼んでました」
「はあ」
「悠真さんで、いいですか」
「どうぞ」
◇
その動画は、公開から三日間、再生数が二百七十で止まった。
俺は数字を見ていない。灯が三日目に自分で報告しに来て、報告しながら笑っていた。
「二百七十回です。この前の、四百分の一ですよ」
「そうですか」
「悔しくないんですか」
「俺が撮ったわけじゃないので」
「あたしは撮ったんですよ。五時間も」
「五時間で二十分なら、切りすぎでは」
「そこじゃないです」
それでも灯は、かごを持って、その日も畑を撮っていた。編集ソフトの使い方を、夜のうちに調べたと言っていた。
三日目の分は、壁際の再馴致区画に播いた種が芽を出す場面だった。土の上に緑が二つ、点のように出ているだけの映像を、彼女は四分続けて回していた。
四日目に、その動画がまったく別の理由で跳ねることを、このときは二人とも知らなかった。
その日の夕方、俺は昇降機ホールを通りかかって、いつもの壁際を見た。缶コーヒーの空き缶は、まだない。
大牟田が来なくなって、八日目だった。




