第11話 九年で、一度もなかった数字
午前六時十七分。日本ダンジョン管理協会 板橋支部、観測分析室。
三雲静は、届いたばかりの定時観測データの前で手を止めていた。
第三ダンジョン第三層。魔素濃度、基準値の六十八パーセント。
湿度のときと同じ手順を踏んだ。目を疑い、機器を疑い、三系統の照合を確認する。故障率の計算は二分で終わる。
それから引き出しを開けて、予備の眼鏡を出した。度の強いほうだ。
掛け直して、もう一度見た。
六十八。
◇
この層の魔素濃度が基準値を下回った記録は、観測開始から九年間、一件もない。
下回るどころか、二百八十から三百二十の間で安定していた。周辺層の三倍。それがこの層の性格であり、素材が出ず誰も来ない理由でもある。
三雲は推移グラフを引いた。
横軸に四月八日から今日までの四十三日。縦軸に濃度。
線は、右下がりだった。
でたらめに落ちているのではない。傾きが一定で、途中で二回だけ角度が変わっている。四月十五日と、五月十三日。
その二つの日付を、彼女は台帳と突き合わせた。
四月十五日は、賃借者が最初の資材搬入を届け出た日。
五月十三日は、初めて搬出物の申告があった日だ。品目欄には「野菜」と書いてあった。
湿度の等値線を出したときと同じ形が、時間軸の上に出ている。
一点から始まって、一定の速度で進んでいる。
自然現象は、こういう線を描かない。
これは、誰かが毎日同じことをしている線だ。
◇
八時前に、観測部長が入ってきた。
コートを椅子に投げて、三雲の画面を五秒見た。それから、また五秒見た。
「六十八?」
「はい」
「桁は」
「合っています。三系統照合済みです」
部長は自分の席に戻らず、そのまま立っていた。
湿度のときは「掘ったんだろ」の一言で終わった。今度は何も言わない。
「……これ、階層機能の低下だぞ」
「そう解釈することもできます」
「解釈?」
三雲はグラフの傾きを指で示した。
「この線は、四十三日間ほぼ一定です。階層核の出力が落ちるなら、こういう落ち方はしません。過去の事例では、必ず段階的に落ちて、途中で停滞期が入っています」
「じゃあ何なんだ」
「分かりません」
部長は数秒黙って、それから内線の受話器を取った。
◇
九時、最上階の会議室に人が並んだ。
観測部長。管理局長。渉外担当。本部から映像で二名。
三雲は資料を配りながら、出席者を数えていた。定時データ一件でこの顔ぶれが揃うのを、入職して九年、一度も見たことがない。
「報告します」
三雲はグラフを表示した。
「第三ダンジョン第三層の魔素濃度は、基準値の六十八パーセントです。観測開始から九年、一度も基準値を下回った記録はありません」
紙をめくる音が、いっせいに止まった。
管理局長が資料を机に置いた。置いたというより、投げた。
「第三層は、死にかけているということかね」
◇
三雲は口を開きかけて、やめた。
そうとは限りません、と言おうとした。
だが根拠がない。彼女が持っているのは、線が一定であるという事実だけだ。それは「階層が死んでいない」ことの証明にはならない。
黙っている間に、会議は勝手に走り出した。
「過去の階層崩壊事例を洗ってくれ。前兆と一致するか」
「第三層の入場記録も。この四十三日で誰が入ったか」
「賃借者に使用実態の報告を出させろ。何をしているか把握しておく必要がある」
「報道対応は」
「伏せる方向で。崩壊の可能性と受け取られると、市場が動く」
渉外担当が手を挙げた。
「他の層への波及は」
「観測分析課、どうだ」
「現時点で、周辺層に変化はありません」
「ならば局所現象だ。とりあえず注視でいい」
誰も、現場を見に行こうとは言わなかった。
三雲は議事録を取りながら、その一点だけを考えていた。ここにいる六人のうち、第三層に降りたことがある人間は何人いるのか。たぶん、ゼロだ。
彼女自身も、九年間データだけを見てきた。
◇
会議が終わって、部屋に一人残った。
三雲はグラフをもう一度開いた。
右下がりの線を、端から端まで目でたどる。
死にかけている、と局長は言った。
だが、死にかけているものの数字が、こんなに規則正しく動くだろうか。
病んだ機械は不規則に振れる。壊れかけの階層核は、揺らいでから落ちる。九年間データを見てきて、彼女はそれを知っている。
この線は、揺れていない。
毎日、決まった量だけ、まっすぐ下りている。
議事録の余白に、彼女はペンで一行書いた。
『A-7を見に行く』
書いてから、その行を丸で囲んだ。ペン先が紙に食い込んで、裏まで跡がついた。それから、囲んだ丸をもう一度なぞった。
内部資料の余白に私的なメモを残すのは、規定に反する。彼女はそれを知っていて、消さなかった。
◇
昼過ぎ、区画管理課の滝本から内線があった。
『三雲さん。使用実態報告の様式なんですけどね、これ、うちに雛形がなくて』
「作ってください、と言われたんですね」
『そうなんですよ。十三年ぶりの契約者に、いきなり報告書出せって言われましてもねえ』
滝本の声は困っていたが、どこか楽しそうでもあった。
「笹倉さんは、何をされているんですか」
『畑ですよ。前にもお伝えしましたけどねえ』
「それは伺いました。私が聞きたいのは、何が採れているかです」
受話器の向こうで、紙をめくる音がした。
『搬出申告の控えがありますね。五月十三日、野菜二十四。二十日、野菜三十。それから昨日が四十』
「単位は」
『個、ですね。手書きで「トマト」って書いてあります』
三雲はペンを止めた。
「増えていますね」
『増えてますねえ』
滝本はしばらく黙って、それから声を落とした。
『あの、三雲さん。うちの課、二人しかいないもんで、あんまり難しいことは分からないんですけど』
「はい」
『あそこ、十八年間、誰も何も育てたことがない場所なんですよ。記録上は』
「存じています」
『その人が、四十個持って出てるんです』
◇
電話を切って、三雲はグラフの前に戻った。
四月十五日、傾きが変わった日。
五月十三日、二度目に変わった日。
二度目の変曲点は、搬出が始まった日と一致している。
実が採れ始めた日から、濃度の落ちる速度が上がった。
もし作物が魔素を体内に取り込んでいるなら、株が大きくなるほど落ちる速度は上がる。実をつければ、なおさらだ。
仮説としては、成立する。
だが高校の教科書には、魔素環境下で植物は生育しないと書いてある。実験は何百回も行われていて、結果は全部同じだ。
三雲は椅子の背にもたれて、天井のちらつく蛍光灯を見上げた。
教科書が正しいなら、あの区画では何も育っていない。
何も育っていないなら、四十個の野菜はどこから来た。
三雲は机の引き出しを開けて、予備の眼鏡をケースにしまった。
今日はもう、数字を疑う必要がない。数字は正直だ。
疑うべきは、数字の読み方のほうだった。




