第10話 どこの土だい、これ
赤い。
薄暗い層の中で、LEDの下だけが切り取られている。その光の底に、赤が三つ、ぶら下がっていた。
中玉のトマトだ。トキさんからもらった苗のほうが、種から播いた列よりずっと早い。
灯がカメラを構えたまま、口だけ動かしていた。声が出ていない。
「うそ」
やっと出たのが、それだった。
◇
灰土を一握り取って、指で潰す。匂いを嗅ぐ。
これを飛ばした日に、三株を焼いた。飛ばさない。
湿った匂いがした。かすかに、青い。微生物が動き始めている匂いだ。二か月前、ここには何の匂いもなかった。
それから、一つもいだ。
軸の付け根で、ぷつりと音がした。
手のひらに乗せる。重い。同じ大きさの露地物より、明らかに重い。詰まっている。
ヘタを外して、断面を見た。ゼリー部分が少なく、果肉の壁が厚い。糖度計を持ってくればよかったと思ったが、持っていない。数字は明日でいい。
服の袖で拭いて、そのままかじった。
果肉が硬い。皮が薄い。
酸が先に来て、そのあとで甘さが立ち上がってきた。
「甘い」
声に出してから、自分が何か言ったことに気づいた。
灯がカメラを下ろして、こちらを見ていた。
「悠真さん」
「はい」
「いま、笑いました」
「笑ってません」
「笑いましたって。三か月分くらい笑いましたよ、いま」
「そんなに笑ってません」
「じゃあ、もう一個食べてください。撮るんで」
「撮影はさっき断ったはずですが」
「断られてません。あたしが勝手に諦めただけです」
◇
昇降機ホールで大牟田に会ったのは、正午前だった。
いつもの場所に座り込んで、缶コーヒーを飲んでいる。缶が空なのは、持ち方で分かった。振っても音がしないやつの持ち方だ。
「よお」
「どうも」
「今日は飯持ってきてねえぞ、俺」
「こっちが持ってます」
保冷バッグから、一つ出した。
赤いのを、大牟田の目の前に置いた。
大牟田は、それを三秒見ていた。
それから俺の顔を見て、もう一度トマトへ視線を戻す。
「これ、あんたの畑の」
「はい」
「三層の」
「はい」
大牟田は缶を地面に置いて、両手でトマトを受け取った。持ち方が妙に慎重だ。潰さないように、指の腹だけで支えている。
「食っていいのか」
「たぶん」
「たぶんかよ」
「試したのは、俺だけなので」
「あんた、先に食ったのか」
「はい」
「……いつ」
「三時間前です」
大牟田が俺の顔をまじまじと見た。腹でも壊していないか確かめる目だった。
言いながら、その手はもう口に運んでいる。
◇
しばらく、何も言わなかった。
噛む音だけがしていた。
飲み下して、口を拭って、それから大牟田は喋り出した。
「……あー。うまい。なんだこれ。トマトってこんな味したか」
止まらなくなった。
「俺、子供の頃はトマト嫌いだったんだよ。青臭くてな。でも婆ちゃんちのは食えた。あれと同じだ。いや違うな、あれよりもっと味が濃い。なんつうか、後ろのほうから追いかけてくる感じ。青いところが全然ない。皮が薄い。種のとこが水っぽくない。おい、これ、ほんとに三層で採れたのか。あんな何もねえとこで」
「はい」
「魔素は」
「吸ってます」
「吸ってんの?」
「作物が。だから畝の中は濃度が二十まで落ちてます」
大牟田の顎が止まる。
口の中のものを飲み込むかどうか、本気で迷っている顔だ。
「兄ちゃん」
「はい」
「俺、いま毒食ったのか」
「たぶん逆です」
灯が横から「言い方!」と口を挟む。
◇
夕方、商店街へ回った。
「まるとみ」の日除けの下で、トキさんが大根を並べていた。
保冷バッグから出したのを、木箱ごと差し出す。
中玉が二十四個。半分は、あの苗から採れたものだ。
トキさんは箱を覗いて、一つ手に取った。
まず、常夜灯ではなく夕方の空にかざす。それから軸のほうを親指で押して、匂いを嗅いだ。
店先の包丁を取って、真ん中から割る。
しばらく、断面を見ていた。
「あんた」
「はい」
「これ、水っぽくないねぇ」
割った半分を、そのまま口に入れた。
噛む。ゆっくり噛んで、飲み込んで、それからもう半分も口に入れた。
通りを自転車が一台過ぎていく。ブレーキが鳴った。
俺は何も言わずに待っていた。灯も、隣で息を詰めている。
トキさんは手を前掛けで拭いて、こちらを見た。
「あんた、これ、肥料は何入れた」
「堆肥と燻炭です。追肥はしてません」
「追肥なしで、この味かい」
「はい」
トキさんは残りの半分の断面を、もう一度光にかざした。
「どこの土だい、これ」
◇
答えられなかった。
トキさんは箱をもう一度覗いて、一つ手に取っては置き、また別のを取っては置いた。ヘタの形を見ている。同じ日に採ったものかどうかを、そうやって確かめる人だ。
産地を書く欄が、この国のどこにも存在しない。ダンジョン産という区分がない。板橋区産と書けば嘘ではないが、それは何も言っていないのと同じだ。
言ったところで、信じてもらえるとも思えない。
黙っていると、トキさんは箱を持ち上げて、店の奥へ運び始めた。
「あの」
「三十個持っといで」
「え」
「明日。三十個」
トキさんは奥から声だけ返してきた。
「あたしは味しか信じないって言ったろ。信じたよ」
箱を置く音がして、それから声だけが続いた。
「値段は、うちがつける。安く買い叩いたりしないよ。あんた、たぶん相場を知らないだろ」
知らなかった。
◇
帰り道、灯がずっと黙っていた。
駅の手前で、やっと口を開いた。
「悠真さん。あの、今日の」
「はい」
「出していいですか」
灯はカメラのストラップを両手で握っていた。指が白くなっている。
「どうぞ」
「いや、あの。ちゃんと、聞いてから撮りたくて」
「はい」
「じゃあ、今日はやめときます」
灯はその夜、動画を上げなかった。
理由を、そのときの俺は聞かなかった。
あとから思えば、あの日から彼女は撮り方を探し始めていた。笑いものにならない撮り方を。
◇
その日の夜、腹は何ともなかった。翌朝も、翌々日も。
脈も測った。体温も測った。工程表の裏に、自分の数字を並べて書いた。作物の隣に、人間の欄が一列増えた。
三日後から、大牟田が来なくなった。
昇降機ホールのいつもの場所に、缶コーヒーの空き缶がない。
週に三日は顔を出していた男が、五日続けて見当たらなかった。
灯に聞いても「五層じゃないですか」と言うだけだった。
それにしては長い。あの人が五日も潜りっぱなしになる金を持っているとは思えない。装備の分割払いがまだ二年あると、本人が言っていた。
その週、トキさんの店では三十個が二時間で売り切れた。翌週は四十個にした。それも売れた。買っていくのは近所の人で、探索者ではない。
俺は畝の水を見て、測定器を三点に刺して、工程表に数字を書いた。
地温十五・二度。含水率二十三パーセント。魔素、壁際三十四、中央三十五、通路側三十三。
収穫数、二十四。
その日の欄の余白に、意味もなく一行足した。
『大牟田さん、五日来ず』




