第9話 灰土が、鳴った
草丈が、二日で四センチ伸びていた。
工程表の数字を三度見直した。書き間違いではない。
トマトの発芽から四日目。本来なら、まだ本葉が出るかどうかという頃だ。それが本葉を三枚展開して、茎が立ち始めている。
しゃがんで、葉を裏返した。
毛じが密で、色が濃い。徒長していない。光が足りない株は間延びして色が薄くなるが、これは逆だ。節と節の間が詰まって、葉の厚みがある。
触ると、指に張りが返ってくる。露地でこの手触りになるのは、水と光と肥料が三つとも過不足なく揃った年だけだ。七年で二度しか見ていない。
トキさんからもらった苗のほうは、もっと分かりやすかった。
植えたのが二週間前。ふつうなら、まだ支柱もいらない大きさのはずだ。
それが膝の高さまで来ている。慌てて園芸支柱を買い足して、昨日のうちに立てた。麻紐で結ぶとき、茎の太さが指の関節ほどあることに気づいて、手が止まった。
第一花房に、蕾がついていた。
露地なら、五月末の景色だ。今日は五月六日で、この株が土に入ってからまだ十四日しか経っていない。
◇
ノートに書き出した。
播種から発芽まで十七日。ここまでは、むしろ遅い。馴致で濃度を絞っていたぶん、代謝も抑えられていたからだ。
だが発芽してからが速い。草丈、葉数、節間、どれを取っても露地の三倍から四倍で回っている。
肥料は入れていない。持ち込んだのはバーク堆肥と燻炭とゼオライトだけで、追肥は一度もしていなかった。水にしても、壁から滲む量が上限だ。
条件は貧しい。それでこの速度が出るなら、理由は一つしかない。
理屈は、通っている。
魔素は代謝を加速する。人間が浴びれば臓器が焼ける。植物も、いきなり浴びれば根から焼ける。焼けたのは四日前に見た。
だが慣らしたあとなら。
慣らして、根が構造を変えて追いついたあとなら。加速はそのまま、成長速度になる。
毒が肥料に変わるというのは、正確ではない。魔素は最初から最後まで、代謝を速めるだけのものだ。速さに耐えられる体を先に作れば、同じものが肥料として働く。
順番だけの話だった。誰も試さなかったのは、順番を守るのに三週間かかるからだ。
ペンが止まった。
俺が塩害地でやっていたのは、土を「普通に戻す」仕事だった。
ここでやっているのは、それとは違う。
「速いな」
声に出して、自分でその言葉に引っかかった。
速いのは、いいことなのか。
急いだ人間が何を失うか、俺は十四のときに見ている。
工程表の余白に、こう書いた。
『生育速度 露地比 三・二倍/要監視。速さは、こちらが選んだものではない』
◇
その日、灯が来た。
三日連続だ。カメラは持っているが、レンズにキャップをしたままぶら下げている。
「悠真さん、これ」
「はい」
「昨日より、また伸びてません?」
「伸びてます」
「え、怖」
灯は畝の脇にしゃがんで、蕾を覗き込んだ。指は出さない。触らないように、手を後ろで組んでいる。三日目にして、そのくらいは覚えたらしい。
「あの、聞いていいですか」
「はい」
「これ、食べられるんですか」
その問いは、まだ考えていなかった。
育てることばかり考えていて、口に入れる段になったときのことを、俺は一度も検討していない。
魔素を吸った作物を、人間が食べたらどうなるか。前例を聞いたことがない。
「分かりません」
「分かんないのに作ってるんですか」
「はい」
「悠真さん、それ昨日も言ってましたよ」
灯が笑いかけたところで、音がした。
◇
灰土が鳴った。
乾いた砂を、大きな手で握り潰すような音。それが区画の西側から、こちらへ近づいてくる。
俺は顔を上げただけで、何が起きているのか分からなかった。
灯の反応のほうが、はるかに速かった。
「走って!」
腕を掴まれた。
振り返る間もなく、引っ張られる。ヘッドライトの光が跳ねて、天井と地面が交互に流れた。
俺は走りながら、後ろを見た。
二十メートルほど後方の暗がりで、何かが灰土を掻いている。輪郭は分からない。ただ、地面を擦る音の位置が、こちらへ動いてくる。
「見ないで!」
灯の声が裏返っていた。
◇
通路を百七十メートル。昇降機ホールの明かりが見えたところで、灯が速度を落とした。
膝に手をついて、二人とも息を切らしていた。
俺は何もしていない。
武器を持っていないし、持っていても使い方を知らない。逃げ方すら習っていなかった。腕を掴まれるまで、その場に突っ立っていた。
資格がないというのは、そういうことだ。
畑を作る技術は、あの音の前では一グラムも役に立たない。
「あんた」
灯が息の合間に言った。丁寧語が消えている。
「なんで逃げないの」
「すみません」
「謝るとこじゃないでしょ」
灯は壁にもたれて、天井を見上げた。汗が顎から落ちて、コンクリートに小さい染みを作った。
それから、急に静かな声になった。
「ごめんなさい。あたしが、悪いです」
「え」
「ここ、魔物ほとんど出ないんですよ。年に二回とか、そのくらいで。だから、大丈夫だと思ってて」
灯は膝を抱えて座り込んだ。作業着の膝に、灰土の粉が白くついている。
「三年通ってて、あたし、二回しか見たことないんです」
「二回」
「一回目は、四年目の春。二回目は」
言いかけて、灯は口を閉じた。
言い直しもしなかった。
三年。
その数字が、さっきの足の速さと繋がらなかった。
この人は、なぜ三年も、誰も来ない層に通っているのか。
聞かなかった。
聞けば、たぶん、答えないだろうと思ったからだ。
◇
協会に湧出の報告を出して、区画に戻れたのは翌朝だった。
窓口で書いた報告書には、記入欄が十七あった。発見時刻、個体数、推定等級、被害の有無。個体数と等級の欄は空欄で出した。見ていないからだ。職員は何も言わずに受け取った。年に二回の層の話に、誰も時間をかけない。
畝は無事だった。
トンネルのビニールに穴一つない。踏まれた形跡もない。灯が先に入って、四隅を見て回ってから「大丈夫です」と言った。
灰土に、跡は残っていた。
畝の一メートル手前まで来て、そこで直角に折れて、通路のほうへ抜けている。
跡をたどって、しゃがんだ。
折れた地点に、線が引いてある。俺が撒いた作土の境目だった。境目の外側は灰白色で、内側は黒っぽい。
その線を、跡はまたいでいない。
「……避けてる」
灯が横で「え」と言った。
「魔物、たぶん魔素の匂いで寄ってくるんです」
「はあ」
「畝の中は、濃度が二十まで落ちてます。作土の下は、もっと低い」
葉を一枚裏返した。
「吸ってるので。作物が」
灯が三秒くらい黙って、それから声を出した。
「え。じゃあ、この畑」
灯はそこで言葉を切って、言い直した。
「この畑の周りって、安全ってことですか」
俺は答えなかった。
二畝ぶん、たった十六メートルの話だ。安全と呼べる広さではない。作物が吸える魔素の量には上限がある。十六メートルを八十メートルにするには、畝を五倍にして、電力を五倍にして、水を五倍にしないといけない。
できるとは言えない。
だが灰土の跡は、確かにそこで折れていた。




