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第9話 私の言葉

「こんにちは、咲良です」


 録画を始めた瞬間、部屋の空気が変わった。


 何度も言ってきた言葉だった。新作コスメを紹介するときも、スキンケアの手順を話すときも、企業案件の冒頭でも、咲良はいつも同じようにカメラへ向かって微笑んできた。


 けれど今日は、笑えなかった。


 窓から入る朝の光は柔らかい。リングライトを使っていないせいで、顔の左側に薄い影が落ちている。目の下のくまも、頬の赤みも、隠しきれていない。


 いつもの咲良なら、撮り直していた。

 肌がきれいに見えない。

 顔色が悪い。

 髪が少し乱れている。

 表情が暗すぎる。


 そうやって、何度もカメラを止めていた。


 でも今日は、止めなかった。


 咲良は膝の上で手を握った。画面の向こう側では、蓮が黙って立っている。頷きもせず、口も挟まない。ただ、そこにいる。


 それだけでよかった。


「今日は、私自身のしたことについて話します」


 声が震えた。


 その震えを隠すように咳払いをしかけて、咲良はやめた。震えているなら、震えたままでいい。取り繕えば、またいつもの癖になる。


「まず、今問題になっている『サクラの裏側』というアカウントについてです。あのアカウントは、最初に私が作りました」


 言った瞬間、胸の奥が強く痛んだ。


 カメラのレンズは黒く、小さい。けれど、その向こうに無数の目があることを咲良は知っている。好意的な目。疑う目。失望した目。面白がる目。責める目。


 それでも、続けた。


「そこには、私自身への悪口を書いていました。加工しすぎだとか、実物は普通だとか、作り物だとか。誰かに言われるのが怖かった言葉を、自分で先に書いていました」


 言葉にすると、あまりにも滑稽だった。


 大人の女が、自分の悪口アカウントを作って、自分で自分を叩いていた。

 客観的に見れば、奇妙で、不気味で、理解しづらい行為だ。


 咲良自身も、ようやくそう思えるようになっていた。


「誰かに傷つけられる前に、自分で傷つけておけば平気だと思っていました。でも、平気ではありませんでした。私はその言葉を読むたびに傷ついていました。自分で書いた言葉なのに、何度も自分に刺さっていました」


 息を吸う。


 ここから先が、難しかった。


「そして、そのアカウントや、私が残していたメモには、私以外の人を傷つける言葉もありました。友人や、昔一緒に働いていた人たちへの嫉妬や、決めつけや、見下すような言葉です」


 由衣の顔が浮かぶ。


 カフェでカードを返した由衣。

 「私も、私の人生に戻りたい」と送ってきた由衣。


 真奈の顔も浮かぶ。


 「目立たないから傷つかないって、どうしてそんなこと言えるんだろう」と言った真奈。


「その人たちの名前は出しません。私が勝手に語っていいことではないからです。ただ、私は自分の自信のなさや劣等感を理由に、人の痛みを見ないことがありました。相手のことをちゃんと見ずに、自分の不安の鏡として扱っていました」


 喉が詰まった。


 咲良は一度だけ目を伏せた。

 けれど、止めない。


「傷つけてしまった人たちに、ここで謝れば済むとは思っていません。許してほしいから話しているわけでもありません。ただ、私がしたことを、誰かに切り取られたままにしたくありませんでした」


 蓮が、わずかに顔を上げた。


 咲良は続けた。


「美容医療についても話します。私は過去に、美容医療を受けています。これまで、受けていないと明言したことはありません。でも、聞かれても答えず、曖昧にしてきました」


 この部分は、何度も書き直した。


 隠していた。

 公表していなかった。

 曖昧にしていた。


 どの言葉を選ぶかで、責任の重さが変わってしまう気がした。


 結局、咲良は一番逃げにくい言葉を選んだ。


「隠していました。きれいだと言われる今の自分と、昔の自分を比べられるのが怖かったからです。昔の顔を見られることが怖かった。努力して変えてきた自分まで、全部嘘だと言われる気がしたからです」


 涙が込み上げる。


 咲良は唇を噛まなかった。涙が出るなら、出てもいい。ただ、泣くことで言葉を曖昧にしたくはなかった。


「でも、美容医療を受けたことよりも、私が本当に向き合わなければいけないのは、自分を嫌いなまま、その嫌いを他人にも向けていたことだと思っています」


 涙が頬を伝った。


 カメラは止めない。


「今、乗っ取られているアカウントから投稿されている内容には、私が書いたものもあります。でも、現在の投稿は私の管理下にはありません。事務所を通じて対応しています。ただ、乗っ取られたからといって、最初にその場所を作った責任が消えるとは思っていません」


 咲良は深く息を吸った。


「私は、自分の弱さを雑に扱ってきました。自分で自分を傷つけることを、強さのように思っていました。でもそれは、強さではありませんでした。自分の中にアンチを住まわせて、その声を本物みたいに育てていただけでした」


 言葉が、部屋の中に落ちる。


 咲良は、最後にカメラをまっすぐ見た。


「今後、離れていく人もいると思います。失望した人もいると思います。それを止めることはできません。ただ、これからは、きれいに見える私だけでなく、私がしてきたことも含めて、自分の言葉で引き受けます」


 そこで、咲良は少しだけ迷った。


 締めの言葉。


 いつもの動画なら、「最後まで見てくれてありがとうございました」と言う。

 けれど今日は、その言葉が軽く感じた。


 咲良は予定していた台本から少し外れた。


「最後まで聞いてくれた方がいたら、ありがとうございます。聞きたくなかった方には、嫌な思いをさせてしまってごめんなさい」


 それだけ言って、録画を止めた。


 部屋に静けさが戻る。


 咲良はしばらく動けなかった。肩から力が抜け、膝の上の手が震えていることに気づく。泣いたせいで頬が濡れていた。鼻も赤い。目元も崩れている。


 それでも、撮り直したいとは思わなかった。


 蓮がカメラを止め、ゆっくり息を吐いた。


「確認するか」


「見る」


 自分で言って、咲良は驚いた。


 以前なら、自分の映りを確認するために見た。肌、角度、表情、声の聞こえ方。

 でも今は、逃げていないかを確認したかった。


 動画を再生する。


 画面の中の咲良は、疲れて見えた。きれいではない。少なくとも、咲良がこれまで見せてきた“きれいな咲良”ではなかった。


 声は震えている。

 言葉も、ところどころ詰まっている。

 涙も出ている。


 でも、嘘をついている顔ではないと思った。


「これで出す」


 咲良が言うと、蓮は少しだけ頷いた。


「事務所に確認を取る。文面も添える」


「文面は、短くしたい」


「わかった」


 投稿文は、何度も削った。


《今回の件について、私自身の言葉で話しました》


 それだけに近いものになった。言い訳のような補足も、過度な謝罪も入れなかった。動画で話したことを、文章で飾り直したくなかったからだ。


 正午前、動画は投稿された。


 咲良は投稿ボタンを押したあと、スマホをテーブルに置いた。すぐに通知が鳴り始める。コメント、引用、メッセージ。数字が動き始める。


 体が反射的にスマホへ伸びそうになった。


 蓮が静かに言った。


「今は見ない」


「わかってる」


 咲良は両手を膝の上に置いた。


 一分。

 三分。

 十分。


 通知は止まらない。


 見たい。

 怖い。

 見たくない。

 でも、知りたい。


 咲良は唇を噛みそうになって、やめた。


「一時間だけ、見ない」


「それでいい」


 蓮はそう言って、キッチンへ向かった。


「何してるの」


「昼を作る」


「作れるの?」


「袋麺なら」


「それ、作るって言う?」


「今は言う」


 咲良は少し笑った。


 袋麺を二人で食べることになるとは思わなかった。しかも、自分の謝罪動画を投稿した直後に。人生は、整えた背景では収まりきらないことばかりだ。


 一時間後、咲良はコメントを見た。


 最初に目に入ったのは、批判だった。


《結局、自分がかわいそうって話に見える》

《裏アカ作ってた時点で無理》

《美容医療より、人のこと書いてたのが怖い》

《謝ればいいってもんじゃない》

《もう信用できない》


 胸は痛んだ。


 でも、前ほど呼吸が乱れなかった。


 どれも、受け止めるべき言葉だった。全部を正しいと飲み込む必要はない。けれど、咲良のしたことに対して失望する人がいるのは当然だった。


 その中に、別のコメントもあった。


《私も、自分の中にずっと自分のアンチがいる》

《許す許さないはまだわからないけど、話したことは伝わりました》

《美容って、救いにもなるけど苦しくなるときあるよね》

《昔の自分を嫌ってる話、刺さった》

《離れるけど、ちゃんと話したことは覚えておきます》


 離れるけど、覚えておきます。


 咲良はそのコメントを何度も読んだ。


 それは、好意ではなかった。許しでもなかった。

 でも、ひとつの誠実な別れだった。


 咲良は初めて、離れていく人にも言葉があるのだと思った。


 夜になり、由衣からメッセージが届いた。


《見た》


 咲良はスマホを握った。


《名前を出さないでくれてありがとう》


 続けて、もう一通。


《許せたわけじゃない。でも、あのまま勝手に使われるよりはよかった》


 咲良はすぐに返信した。


《見てくれてありがとう。傷つけたこと、本当にごめんなさい》


 送信してから、胸が詰まった。


 由衣からの返信は少し間を置いて届いた。


《今は、それだけ受け取っておく》


 許しではない。

 でも、拒絶でもない。


 咲良はその距離を、今度こそ尊重したいと思った。


 母からは、もっと短いメッセージが来た。


《見たよ。咲良の声だったね。今日は温かいものを食べてね》


 咲良は泣きそうになりながら、袋麺の写真を送った。


《食べた》


 すぐに返信が来た。


《野菜も食べなさい》


 咲良は声を出して笑った。


 その笑い声は、少しだけ部屋の空気を変えた。


 けれど、夜十時を過ぎた頃、灰色のアカウントが再び動いた。


 通知を見た蓮の表情が硬くなる。


「咲良」


「何」


「見るかどうかは、選んでいい」


 その言い方で、咲良は嫌な予感がした。


「見る」


 蓮はスマホを渡した。


 灰色のアカウントには、新しい動画が投稿されていた。


 再生ボタンの上に映っているのは、咲良だった。三年前の咲良。撮影用のライトの前で、泣きながらメイクを直している。


 すぐにわかった。


 「会社で泣いた日のメイク直し」の元動画だ。


 投稿された動画は、咲良が公開したものとは違っていた。編集前の素材。泣いたあとに何度も撮り直し、言葉を変え、角度を確認している咲良が映っている。


《もう一回。泣きすぎると重いかな》

《この言い方のほうが共感されそう》

《会社で泣いたって入れたほうが伸びるよね》


 自分の声だった。


 見ているうちに、咲良の体が冷えていった。


 あの日、咲良は本当に会社で泣いた。

 それは嘘ではない。


 でも、その涙をどう見せれば伸びるか考えた。何度も撮り直した。黒川の助言もあった。痛みを物語にして、投稿にした。


 それも、事実だった。


 動画の投稿文には、こう書かれていた。


《弱さは商品じゃないって言ってたけど、ずっと売ってたよね》


 咲良はスマホを見つめたまま、動けなかった。


 これは、効いた。


 さっき投稿した動画で、咲良は言った。

 私の弱さは商品じゃない。


 その言葉を、過去の自分が裏切っているように見えた。


 蓮が低い声で言った。


「これは、黒川が持っていた素材だ」


 咲良は顔を上げた。


「黒川さん?」


「当時の未編集動画を持っていたのは、咲良と黒川だけのはずだ。事務所に入る前の素材だろ」


「でも、不正ログインはしてないって」


「本人が直接していなくても、素材を渡した可能性はある」


 そのとき、蓮のスマホが鳴った。


 事務所からだった。


 蓮は通話に出る。数秒後、その顔が険しくなった。


「わかりました。すぐ確認します」


 通話を切ると、蓮は咲良を見た。


「リサイクルショップから連絡があった。タブレットの買取記録が残っていた」


「誰が買ったの」


「個人情報はすぐには出せない。ただ、店頭ではなく業者経由でまとめて買われている。その業者の取引先に、黒川の名前がある会社が入っていた」


 咲良の背筋が冷えた。


「じゃあ、やっぱり」


「まだ確定ではない。でもかなり近い」


 灰色のアカウントは、さらに投稿した。


《私は、咲良を作った人間の一人です》


 咲良は息を止めた。


 続けて、次の投稿。


《きれいな咲良も、弱い咲良も、全部作り物。本人が忘れた素材を、返してあげてるだけ》


 その文面を見た瞬間、咲良は確信した。


 黒川だ。


 直接ログインしたのが誰かはわからない。業者を通じたのか、誰かにやらせたのか、別の端末からなのか。細かい仕組みはわからない。


 でも、この言葉は黒川のものだった。


 素材。

 作り物。

 返してあげてる。


 咲良はスマホを置いた。


 不思議と、手の震えは止まっていた。


 蓮が言った。


「今夜は反応しない。事務所と弁護士に回す」


「うん」


 咲良は頷いた。


「でも、私、わかったことがある」


「何」


「あの人は、私がまた崩れると思ってる」


 蓮は黙って聞いていた。


「昔の動画を出せば、私が『やっぱり全部嘘だった』って思うと思ってる。弱さを商品にしてた自分を責めて、さっきの動画まで取り消したくなると思ってる」


 咲良は自分の膝を見た。


「でも、取り消さない」


 声は静かだった。


「あの頃の私は、確かに弱さを売ってた。泣きながら、どう見せるか考えてた。それは本当。ひどいと思う人がいても仕方ない。でも、だからって今日話した言葉まで嘘にはしない」


 蓮の表情が少し変わった。


 咲良は続けた。


「過去の私が間違っていたことと、今の私が話したことは、同時に存在する。どっちか一つにしなくていい」


 言いながら、咲良自身が一番驚いていた。


 昔なら、すべてを白か黒にしたがった。

 きれいか、醜いか。

 本物か、嘘か。

 許されるか、終わるか。


 でも人間は、そんなに簡単ではない。


 弱さを売った過去がある。

 それでも、弱さを商品にしたくないと今思っている。


 どちらも自分だった。


 蓮は静かに言った。


「明日、正式に動く。黒川にも通知が行く」


「うん」


「怖いか」


 咲良は少し考えた。


「怖い。でも、前とは違う」


「どう違う」


「自分のこと全部嫌いにならなくても、怖がれる」


 蓮は小さく頷いた。


「それは大きい」


 深夜、咲良はもう一度、自分が投稿した動画を見返した。


 コメントは荒れていた。

 灰色のアカウントが出した動画のせいで、さらに批判も増えている。


《結局、弱さビジネスじゃん》

《今日の動画も演出に見える》

《もう何を信じればいいのかわからない》


 それらを読んで、咲良は胸が痛んだ。

 でも、スマホを閉じる前に、もう一つコメントが目に入った。


《過去の動画も見ました。正直ショックです。でも、今日の言葉まで全部なかったことにはしなくていいと思います。変わる途中って、きれいじゃないから》


 咲良はそのコメントを保存した。


 変わる途中は、きれいじゃない。


 本当に、その通りだと思った。


 翌朝、事務所と弁護士が正式に動き始めた。


 黒川への通知。

 アカウント復旧申請の追加資料。

 不正アクセスと名誉毀損に関する相談。

 灰色のアカウントへの削除要請。


 咲良はその報告を聞きながら、ようやく一つの区切りが近づいていることを感じた。


 犯人が誰か、完全にはまだ決まっていない。

 すべてがきれいに片づくわけでもない。

 失った仕事も、離れた人も、すぐには戻らない。


 それでも、咲良はもう鍵を失った部屋の前で泣いているだけではなかった。


 盗まれた言葉を、取り返す作業は始まった。


 そして何より、咲良は自分の言葉を、自分で持ち直し始めていた。

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