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第8話 弱さの商品

黒川美緒に連絡を入れたのは、蓮だった。


 咲良は隣で、ただスマホの画面を見ていた。蓮の指が迷いなく文字を打つ。用件は短く、丁寧で、逃げ道を塞ぎすぎないものだった。


《桜井咲良のSNSアカウントに関する件で、確認したいことがあります。本日中にお話しできますか》


 送信から十五分後、返信が来た。


《何の件でしょうか》


 咲良はその一文を見ただけで、胸の奥が冷えた。


 黒川らしい、と思った。

 知らないふりをしているのか、本当に知らないのか。どちらにも見える言葉を選ぶ人だった。


 蓮はすぐに返した。


《過去に桜井が使用していた端末、および現在不正に使用されている可能性のあるアカウントについてです》


 既読はついた。

 だが、返事はなかなか来なかった。


 待っている間、咲良は黒川のことを思い出していた。


 初めて会ったのは、咲良のフォロワーが一万人を超えたばかりの頃だった。紹介してくれたのは、当時の知り合いのカメラマンだ。


「咲良さんは、伸びる顔をしてます」


 黒川は初対面でそう言った。


 褒め言葉のようで、少し違った。

 咲良自身ではなく、咲良という素材を見ている目だった。


「きれいです。でも、きれいな人はたくさんいる。そこから残るには、物語が必要です」


 物語。


 その言葉に、当時の咲良は少し高揚した。自分にも物語があるのだと思うと、平凡な自分が特別なものに変わる気がした。


 黒川は有能だった。


 投稿時間を変えただけで反応が伸びた。動画の冒頭三秒に「会社で泣いた日」「元彼に会う日」「自信がない朝」などの言葉を入れると、保存数が増えた。


「ただ商品を紹介するんじゃなくて、咲良さんの痛みとセットで出すんです」


 黒川はよくそう言った。


「人は、完璧な人を眺めるだけだと飽きます。でも、完璧そうな人が少し崩れると、見続ける理由ができる」


 咲良はその言葉に、違和感を覚えながらも従った。


 実際、伸びたからだ。


 会社で泣いた日のメイク直し。

 人に会いたくない日のベースメイク。

 自信がない朝に塗るリップ。


 咲良の痛みは、数字になった。


 そしていつの間にか咲良は、自分が本当に傷ついているのか、傷ついている自分を演出しているのか、わからなくなっていた。


 スマホが震えた。


 黒川からの返信だった。


《オンラインであれば、一時間後に可能です》


 蓮は咲良を見た。


「どうする」


「出る」


「咲良は出なくてもいい。俺と事務所で確認することもできる」


 咲良は首を振った。


「出る。逃げたくない」


「逃げないことと、自分を危険に晒すことは違う」


「わかってる。でも、黒川さんとは私が話したい」


 蓮はしばらく黙ったあと、頷いた。


「わかった。ただし、感情的になりそうなら俺が止める」


「うん」


 咲良は深く息を吸った。


 黒川と話す。

 それは、犯人候補と向き合うだけではなかった。


 “咲良”が作られていく過程と向き合うことでもあった。


 一時間後、画面の向こうに黒川が現れた。


 相変わらず隙のない人だった。短く整えた髪、薄いフレームの眼鏡、黒いトップス。背景は仕事部屋らしく、棚にはマーケティングやブランディングの本が並んでいる。


「お久しぶりです、咲良さん」


 黒川は微笑んだ。


 その声を聞いた瞬間、咲良の背筋が少し強張った。


「お久しぶりです」


「大変なことになっていますね」


 まるで他人事のような言い方だった。


 蓮が口を開いた。


「本日は確認事項のみ、簡潔に伺います。桜井が過去に使用していた白いタブレットについて、心当たりはありますか」


 黒川は少し首を傾げた。


「白いタブレット……ありましたね。撮影資料を入れていたものですか?」


「それです」


「懐かしいですね。でも、私の手元にはありません」


「過去に触ったことは?」


「仕事上、資料確認で使ったことはあります」


 黒川はよどみなく答える。


 蓮は続けた。


「その端末、または端末内のデータを、相沢真奈さんから受け取ったことはありますか」


 黒川の表情が、ほんのわずかに変わった。


 咲良はそれを見逃さなかった。


「相沢さん……ああ、店舗スタッフの方ですね。何か送られてきたことはあったかもしれません。かなり前なので」


「咲良の非公開メモの画像を受け取った記憶は?」


 黒川は一拍置いた。


「記憶が曖昧です」


 蓮の声が低くなる。


「では、現在問題になっている『サクラの裏側』というアカウントについては?」


「報道というか、SNSで見ました」


「不正ログインには関与していない、という理解でよろしいですか」


 黒川は笑った。


「当然です。そんなリスクのあること、私がすると思いますか?」


 その笑顔に、咲良は胸の奥がざらつくのを感じた。


 するかしないかではない。

 得か損かで語るところが、黒川らしかった。


 咲良は思わず口を開いた。


「黒川さん」


「はい」


「あのアカウントに、私のメモが出ました。由衣のこと、真奈ちゃんのこと、自分の顔のこと。あれを持っていた可能性がある人は限られています」


 黒川は、咲良をまっすぐ見た。


「それで、私を疑っているんですか」


「疑っています」


 言うと、胸が少し震えた。

 けれど、目は逸らさなかった。


 黒川はしばらく黙り、それから小さく息を吐いた。


「咲良さん、変わりましたね」


「変わった?」


「昔なら、そういうことは言えなかった。嫌われたくなくて、もっと遠回しに言っていた」


 咲良は返事をしなかった。


 黒川は続けた。


「でも、疑う相手を間違えています。私はそんな雑なことはしません」


「雑?」


「あのアカウント、やり方が下手です。怒りのままに出している。素材の切り方も甘い。炎上を継続させる設計がない」


 咲良は、ぞっとした。


 人の秘密を晒す行為について、黒川は善悪ではなく技術で話している。


「黒川さんにとって、人の傷って何なんですか」


 咲良の声は、思ったより静かだった。


 黒川は少しだけ目を細めた。


「コンテンツになり得るものです」


 即答だった。


 蓮が眉を動かした。


 咲良は画面の向こうの黒川を見つめる。


「私に、そう言いましたよね。弱さを出せばもっと伸びるって」


「言いました。実際、伸びましたよね」


「私が本当に苦しかったかどうかは、関係なかったんですか」


 黒川は少し考えるように顎に手を当てた。


「咲良さんも、伸びることを望んでいたでしょう」


 その言葉に、咲良は反論できなかった。


 望んでいた。

 確かに望んでいた。


 数字が増えること。

 必要とされること。

 選ばれること。

 きれいだと、救われたと言われること。


 咲良は黒川に利用されたのではない。

 咲良もまた、黒川の方法を利用した。


「私は、咲良さんの素材を見つけただけです」


 黒川は言った。


「きれいになりたいけれど、きれいなだけでは不安な人。憧れられたいけれど、親近感も欲しい人。傷ついているけれど、傷まで美しく見せたい人。咲良さんは、そのバランスが良かった」


 咲良は唇を噛んだ。


 それは、あまりに正確だった。


 黒川の言葉は、いつも刃物に似ている。美しい形をしていて、よく切れる。


「でも、今の咲良さんは危ういですね」


「何がですか」


「本当に正直になれば救われると思っているところです」


 黒川は淡々と言った。


「正直さも、結局は見せ方です。加工なしの顔を見せるなら、それも演出になる。謝罪動画を出すなら、涙の量、照明、間、言葉選び、全部見られる。『逃げない顔で話す』という態度すら、誰かには商品に見えます」


 咲良は息を止めた。


 昨夜、自分が思ったことを見透かされたようだった。


 逃げない顔で話す。

 その決意さえ、コンテンツになる。


 では、何をしても同じなのか。


 きれいに見せても嘘。

 弱さを見せても演出。

 黙っていても逃げ。

 話しても商品。


 咲良の中で、また足場が崩れそうになった。


 そのとき、蓮が静かに言った。


「それでも、本人が引き受ける言葉と、他人が盗んで晒す言葉は違います」


 黒川の視線が蓮に移る。


「マネージャーさんらしいですね」


「仕事ですから」


「咲良さんを守る仕事?」


「咲良が自分で立つまで、横にいる仕事です」


 咲良は思わず蓮を見た。


 黒川は薄く笑った。


「きれいな言い方ですね」


「あなたほどではありません」


 二人の間に、冷たい空気が流れた。


 黒川は椅子にもたれた。


「私は不正ログインには関与していません。必要なら弁護士を通してください。ただ、一つだけ言うなら」


 黒川は咲良を見た。


「あなたの秘密を一番雑に扱っていたのは、あなた自身ですよ」


 咲良は何も言えなかった。


「自分の悪口アカウントを作る。自分の醜いメモを消しもせず、端末に残す。人に見られたくないと言いながら、どこかで見つけてほしがっている。そんな状態で表に立てば、いつか誰かに利用されるのは当然です」


 当然。


 その言葉に、咲良の胸の奥で何かが切れかけた。


 だが、怒りより先に、別の感情が来た。


 悔しさだった。

 黒川の言葉の中には、認めたくない事実が混ざっていた。


 咲良は自分の秘密を大切にしてこなかった。

 自分を罰するために、自分の傷を乱暴に扱った。

 だから誰かに奪われたとき、抵抗する言葉を持っていなかった。


 でも、それでも。


「当然ではないです」


 咲良は言った。


 声は震えていた。

 でも、言葉ははっきりしていた。


「私が自分を雑に扱っていたことと、誰かがそれを奪って晒していいことは別です」


 黒川が黙る。


「私は、自分のしたことは引き受けます。裏アカウントを作ったことも、人を傷つけるメモを書いたことも、美容医療を隠していたことも。でも、それを誰かに勝手に使われることまで、当然だとは思いません」


 咲良は息を吸った。


「私の弱さは、商品じゃありません」


 言ってから、胸の奥が熱くなった。


 ずっと言えなかった言葉だった。

 黒川に向けているようで、本当は自分にも向けていた。


 自分の弱さを数字にしてきたのは、黒川だけではない。咲良自身もそうだった。泣いた日のメイク、傷ついた日のリップ、自信のない朝。全部、自分で差し出してきた。


 けれど、これからも同じように扱う必要はない。


 黒川は、初めて少し表情を消した。


「そうですか」


 それだけだった。


 通話は、蓮が事務的に締めた。


「必要に応じて、改めてご連絡します。本日の内容は記録しています」


「どうぞ」


 黒川は最後まで崩れなかった。


 画面が切れると、咲良は大きく息を吐いた。体の力が抜け、椅子にもたれかかる。


「怖かった」


「よく言った」


 蓮の声が、少しだけ柔らかかった。


「黒川さんじゃないのかな」


「関与していないとは言い切れない。ただ、本人が言った通り、やり方が彼女らしくない部分はある」


「じゃあ、誰」


「そこはまだ追う。でも今、咲良がやることは少し見えた」


 咲良は顔を上げた。


「何?」


「盗まれる前に、自分の言葉で話すこと」


 その言葉は、重かった。


 夜になっても、灰色のアカウントは動かなかった。


 不気味な沈黙だった。次に何が出るのか、誰にもわからない。事務所は警戒を強め、蓮は関係者への確認を続けた。リサイクルショップにも連絡を入れたが、端末の行方をすぐに追うのは難しそうだった。


 咲良はノートの前に座った。


 黒川の言葉が、頭の中に残っている。


 正直さも見せ方。

 謝罪も演出。

 逃げない顔すら商品。


 たぶん、それは間違いではない。


 カメラの前に座る以上、誰かはそう見る。涙の量を測る人もいる。肌の状態を見る人もいる。言葉尻を切り取る人もいる。許さない人もいる。離れていく人もいる。


 それでも、話さなければならない。


 許されるためではない。

 炎上を収めるためだけでもない。

 これ以上、自分の言葉を誰かに預けないために。


 咲良はノートに新しいページを開いた。


《こんにちは、咲良です》


 いつもの動画なら、ここで少し笑う。声を明るくする。見てくれてありがとう、と続ける。


 でも今回は、違う。


 咲良はペンを動かした。


《今日は、私自身のしたことについて話します》


 そこで止まる。


 蓮が向かいから言った。


「きれいにまとめなくていい」


「うん」


「泣いてもいい。でも、泣くために言葉を選ぶな」


「わかってる」


「わかってなくても、今からわかればいい」


 咲良は少し笑った。


「厳しい」


「今は甘やかす場面じゃない」


「でも、いてくれるんだ」


 蓮は一瞬、黙った。


「いる」


 短い返事だった。


 それだけで、咲良はまた少し書ける気がした。


 深夜、由衣にメッセージを送った。


《今、説明するための言葉を書いています。由衣のことも話すと思う。でも、名前は出さない。私があなたを傷つけたことは、私の責任として話します。許してほしいからじゃなくて、勝手に切り取られたままにしたくないから》


 送信してから、心臓が強く鳴った。


 返信はすぐには来なかった。


 十分後、短い返事が届いた。


《わかった。私も、私の人生に戻りたい》


 咲良はその文面を何度も読んだ。


 私の人生に戻りたい。


 それは、由衣が咲良の物語の登場人物ではないという宣言だった。


 咲良はスマホを置き、ノートに戻った。


 次に母へ、メッセージを打った。


《この前はひどい言い方をしてごめん。今はまだうまく話せないけど、昔の私のことを可愛いと言ってくれたことを、適当だったとは思わないようにしたいです》


 送ってから、涙が出た。


 すぐに母から返信が来た。


《いつでも電話してね。ご飯は食べてね》


 咲良は泣きながら笑った。


 やっぱり母は母だった。

 でも、その言葉をただの役割として処理したくなかった。


 翌朝、咲良は久しぶりにカメラをセットした。


 リングライトは使わなかった。

 窓から入る自然光だけにした。肌の赤みも、目の下の影も見える。髪も完璧には整えない。


 蓮がカメラの後ろに立つ。


「撮る前に、確認する」


「うん」


「これは、仕事を取り戻すための動画じゃない」


「うん」


「許されるための動画でもない」


「うん」


「咲良が、自分のしたことを自分の言葉で引き受けるための動画だ」


 咲良は深く息を吸った。


「うん」


 録画ボタンを押す前、スマホが震えた。


 灰色のアカウントからの通知だった。


《今さら自分の言葉で話すんだ。遅いよ》


 咲良は画面を見つめた。


 胸は痛んだ。

 でも、前ほど崩れなかった。


「遅いって」


 咲良は小さく呟いた。


「たぶん、本当に遅いんだと思う」


 蓮は何も言わなかった。


「でも、遅いからやらなくていい理由にはならない」


 咲良はスマホを伏せた。


 カメラの前に座る。


 画面に映る自分は、いつもの咲良より疲れていて、弱くて、きれいではなかった。


 それでも、逃げてはいなかった。


 咲良は録画ボタンを押した。


「こんにちは、咲良です」


 声は震えた。


 でも、その震えも含めて、自分の声だった。

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