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第7話 盗まれた言葉

ノートの一ページ目は、書き終えるまでに二時間かかった。


 たった十数行だった。けれど咲良には、長い長い階段を裸足で降りていくような作業だった。一段下りるたびに、見たくなかったものが足の裏に刺さる。


《私は、自分の悪口アカウントを作りました》


《誰かに傷つけられる前に、自分で自分を傷つければ平気だと思っていました》


《でも、その言葉は私だけでなく、周りの人も傷つけていました》


 そこまで書いて、咲良は何度もペンを止めた。


 言い訳をしたくなる。


 怖かったから。

 眠れなかったから。

 毎日見られる仕事だったから。

 誰かに暴かれる前に、自分で知っていると言いたかったから。


 どれも嘘ではない。

 けれど、それだけを書けば、自分が少し被害者に見える。


 咲良は、今それを一番警戒していた。


 被害者の顔は慣れている。

 傷ついた顔も、泣きそうな声も、うまく作れてしまう。

 そうやって何度も、自分の痛みだけを前に出してきた。


 だから今回は、慎重に言葉を選ばなければならなかった。


 慎重に、ではなく、正直に。


 蓮は向かいの席で、黙っていた。咲良が書くたびに覗き込むことはしない。ただ、ときどき水を差し出し、必要な連絡だけを事務所に返している。


 咲良はノートの端に、小さく書いた。


《私は、由衣を羨ましいと思っていました》


 手が止まる。


 紙の上の文字は、思っていたより醜くなかった。けれど、だからといって軽くもならない。


 羨ましかった。


 由衣は、自然に人の話を聞ける人だった。相手の悩みを、自分の評価に変換しない人だった。職場でも、客からの信頼は厚かった。咲良が明るく華やかに勧めるなら、由衣は静かに寄り添って選ばせる。その違いを、咲良はずっと見ていた。


 そして、由衣がSNSで伸びないことに、安心していた。


 その事実を書くには、さらに時間がかかった。


《由衣が伸びないことに、安心していた自分がいました》


 書いた瞬間、咲良は息を吐いた。


 胸の奥がえぐられるようだった。

 でも、その痛みから逃げなかった。


 蓮が静かに聞いた。


「続けられるか」


「続けないと、また誰かに切り取られる」


「切り取られないためだけに書くと、また防御になる」


 咲良は顔を上げた。


「じゃあ、何のために書けばいいの」


「咲良が、咲良のしたことを自分で見るため」


 その言葉に、咲良は少し黙った。


 誰かに説明するため。

 許してもらうため。

 炎上を収めるため。

 仕事を守るため。


 ずっと、そう考えていた。


 でも蓮は、その前に自分で見ることが必要だと言う。


 咲良はノートに視線を戻した。白い紙の上に並ぶ、拙い文字。そこにいるのは、画面の中の咲良ではなかった。きれいな照明も、角度も、音楽もない。ただ、見栄と嫉妬と恐怖を抱えた一人の人間がいる。


 その人間が、たぶん自分なのだ。


 昼過ぎ、事務所から連絡が入った。


 蓮が電話に出て、短く相槌を打つ。咲良はペンを置き、その横顔を見ていた。蓮の表情が、わずかに変わる。


「わかりました。確認します」


 電話を切った蓮が、咲良を見た。


「アカウントの件で、少し進展があった」


 咲良の体がこわばる。


「復旧できるの?」


「まだ。ただ、運営側から、不正ログインの可能性が高いという一次回答が来た。ログインされた端末情報の一部も出た」


「端末情報?」


「機種名が、咲良の言っていた古いタブレットと一致する可能性がある」


 咲良は唇を噛んだ。


 白いカバーのタブレット。

 あれが、やはり鍵だった。


「場所は?」


「詳細な住所までは出ない。ただ、ログインがあった時間帯の接続地域が、咲良の昔の職場の最寄り駅周辺と重なってる」


 咲良は息を止めた。


 昔の職場。


 数日前まで、ただの過去だった場所。

 今は、そこから何かがこちらを見ている。


「誰が」


「まだわからない」


「でも、あそこに関係ある人ってことだよね」


「可能性は高い」


 蓮は言葉を選ぶように言った。


「あと、事務所に匿名のメールが来た」


「匿名?」


「『咲良さんの件について、昔の職場にいた人間です』という内容。本文は短い。犯人を名乗ってはいない。ただ、一人名前が出ている」


 咲良は体の奥が冷えるのを感じた。


「誰」


 蓮は少し迷ったあと、答えた。


「相沢真奈」


 名前を聞いた瞬間、記憶の奥で小さな扉が開いた。


 相沢真奈。


 美容部員時代、他店舗からヘルプで来ていた年下のスタッフ。咲良より三つ下で、いつも控えめに笑っていた。細い指で器用にラッピングをし、売り場のポップを書くのが上手だった。


 咲良はしばらく、その名前を口の中で転がした。


「真奈ちゃん……」


 完全に忘れていたわけではない。けれど、思い出の中心にはいなかった。


 由衣との写真。

 由衣との会話。

 咲良が伸び始めた頃の忙しさ。


 その背景に、真奈はいた。


「どういうメール?」


 蓮はパソコンを咲良のほうへ向けた。


《桜井咲良さんの件、相沢真奈さんに確認したほうがいいと思います。あの人、昔から咲良さんのことをよく話していました。白いタブレットのことも知っているはずです》


 それだけだった。


 差出人はフリーメール。署名なし。


 咲良は画面を見つめた。


「これ、信用できるの?」


「できない。ただ、無視もできない」


「真奈ちゃんが、そんなことするかな」


 言ってから、咲良は自分の言葉に引っかかった。


 そんなことするかな。


 由衣のときも、同じようなことを思った。

 自分の記憶の中で都合のいい人物像を作り、それに合わない行動を否定する。


 でも、自分は真奈の何を知っているのだろう。


 控えめだったこと。

 ポップを書くのが上手だったこと。

 休憩室でよく一人でお弁当を食べていたこと。

 咲良の動画を「見ました」と言ってくれたこと。


 それくらいだ。


 蓮が言った。


「連絡先はあるか」


「たぶん、昔のグループに残ってる」


 咲良はスマホを開いた。古いメッセージアプリのグループ。退職後ほとんど動いていない、元店舗スタッフの連絡用チャット。名前の一覧を探す。


 相沢真奈。


 あった。


 アイコンは、淡い空の写真だった。最終ログインはわからない。


 咲良は指を止めた。


「何て送ればいいの」


「責める文面はだめだ。確認だけ」


「もし犯人だったら?」


「なおさら責めるな。証拠を消される」


 その冷静さに、咲良は現実へ引き戻される。


 これは感情だけの話ではない。

 誰かが不正にログインし、咲良の言葉を使い、写真やメモを晒している。そこには法的な問題も、仕事上の問題もある。


 でも咲良にとって、それ以上に恐ろしいのは、自分が誰かにここまで恨まれていたかもしれないということだった。


 咲良はメッセージを打った。


《久しぶりです。桜井咲良です。突然ごめんなさい。昔、私が使っていた白いタブレットのことで確認したいことがあって、連絡しました。少し話せますか》


 送信ボタンの上で指が止まる。


 胸が苦しい。


 蓮が静かに言った。


「送るかどうかは、咲良が決めていい」


「送らなかったら、また逃げることになる」


「送ることが正しいとは限らない。でも、今は確認が必要だ」


 咲良は頷き、送信した。


 既読は、すぐにつかなかった。


 待つ時間は、重かった。


 咲良はノートを開き直したが、文字は入ってこない。真奈の顔が、少しずつ記憶の中で輪郭を持ち始める。


 美容部員時代、真奈は由衣に懐いていた。由衣が接客のロールプレイを見てやり、真奈は「由衣さんみたいに落ち着いて話せるようになりたいです」と言っていた。


 一方で、咲良のこともよく見ていた。


「咲良さんのメイク、今日すごく好きです」


「この前の動画、わかりやすかったです」


「私も発信してみたいんですけど、顔出しが怖くて」


 そんなことを言われた記憶がある。


 咲良は、何と返しただろう。


 たぶん、軽く笑って言った。


「真奈ちゃんは、まず売り場で結果出してからじゃない?」


 冗談のつもりだった。

 アドバイスのつもりだった。

 先輩として、正しいことを言ったつもりだった。


 でも、あのときの真奈の顔を思い出せない。


 自分が言った言葉だけは覚えているのに、相手がどんな顔をしたかは覚えていない。


 咲良は、自分の都合のいい部分しか記憶してこなかったのかもしれない。


 夕方になって、既読がついた。


 咲良はスマホを握りしめた。


 返信は、十分ほど来なかった。


 その十分のあいだに、咲良の頭の中では何十通もの返信が作られては消えた。


《何のことですか?》

《知りません》

《今さら連絡しないでください》

《あなたが悪いんじゃないですか》


 そして、実際に届いた文面は短かった。


《話せます。でも、二人では会いたくないです》


 咲良は画面を蓮に見せた。


「会う気はあるみたいだ」


「二人では会いたくないって」


「誰か同席させる。事務所の人間か、俺」


 咲良は考えた。


 真奈が犯人なのかどうかは、まだわからない。けれど少なくとも、真奈は咲良と二人で会うことを避けている。怖がっているのか、警戒しているのか、怒っているのか。


 咲良は返信した。


《蓮さんに同席してもらいます。場所は人目のあるところにします》


 少しして、真奈から返事が来た。


《明日の午後なら》


 場所は、昔の職場があった駅から少し離れたカフェになった。


 その夜、灰色のアカウントはまた投稿した。


《そろそろ、咲良が本当に消したかったものを出します》


 咲良はそれを見た瞬間、胃が縮んだ。


「本当に消したかったものって何」


 蓮が画面を確認する。


「煽りの可能性もある」


「でも、何か持ってる」


 咲良にはわかった。


 あのタブレットには、写真やメモだけではない。未公開の動画、昔の下書き、感情のまま書いた日記、由衣との会話のスクリーンショット。何を保存していたか、全部は思い出せない。


 蓮は言った。


「明日、真奈さんに確認する。ただし、咲良は自分を責めるだけの状態で行くな」


「責めるなって言われても」


「責めるのと、責任を持つのは違う」


 咲良は蓮を見た。


「最近、そういう言葉多い」


「必要だから」


「責めるのと責任を持つの、何が違うの」


 蓮は少し考えた。


「責めるのは、自分を罰して終わりにすること。責任を持つのは、相手の言葉を聞いて、そのあと自分が何をするか選ぶこと」


 咲良はその言葉を胸の中で繰り返した。


 自分を罰して終わりにする。

 それは、咲良がずっとやってきたことだった。


 悪口アカウントもそうだ。自分で自分を叩いて、「ほら、私はわかっている」と言い訳にする。その痛みで、何かを支払った気になっていた。


 でも、誰かを傷つけたことは、自分を傷つけても消えない。


 翌日、咲良は久しぶりに外へ出た。


 帽子を深くかぶり、マスクをした。メイクは薄くしたつもりだったが、それでも何度も鏡で確認してしまった。目元のクマ、肌の赤み、髪の乱れ。外に出る直前まで、直したいところばかり目につく。


 蓮が玄関で言った。


「今日は、きれいに見せるための外出じゃない」


「わかってる」


「わかってても、怖いか」


 咲良は少し黙ってから頷いた。


「怖い」


「それでいい。怖いまま行けばいい」


 カフェには、真奈が先に来ていた。


 窓際ではなく、奥の壁際の席。人目につきにくい場所を選んだのだろう。淡い水色のブラウスを着て、髪は低い位置で結んでいる。昔より大人びていたが、控えめな雰囲気は変わっていない。


 真奈は咲良を見ると、立ち上がらなかった。

 ただ、軽く頭を下げた。


「久しぶりです」


 声は静かだった。


「久しぶり。急にごめんね」


 咲良は向かいに座った。蓮は少し横の席に腰を下ろす。


 注文を済ませるまで、誰も本題に入らなかった。


 真奈は両手を膝の上で重ねていた。指先に力が入っている。咲良はそれに気づいた。以前なら、気づかなかったかもしれない。


「タブレットのことなんだけど」


 咲良が切り出すと、真奈は顔を上げた。


「持っていました」


 あまりにまっすぐな答えに、咲良は言葉を失った。


 蓮が静かに聞いた。


「今もですか」


「いえ。今はありません」


「いつまで持っていましたか」


 真奈は少し俯いた。


「咲良さんが退職する前後です。休憩室に置いてあったのを、私が預かりました。由衣さんが『咲良が取りに来るかも』って言っていたので。でも、結局渡せなくて」


「なぜですか」


 蓮の声は淡々としていた。


 真奈は唇を噛んだ。


「返したくなかったからです」


 咲良は息を止めた。


 真奈は続けた。


「中を見ました。最初は、返す前に充電しようと思っただけです。でも、ロックがかかっていなくて。通知が出ていて、咲良さんのメモが見えて」


 咲良の指が冷たくなる。


「見たんだ」


「はい」


 真奈は逃げなかった。


「最低だと思います。でも、見ました。咲良さんが由衣さんのことを書いていたメモも、自分の顔のことを書いていたメモも。私のことを書いていたものも」


 咲良は顔を上げた。


「真奈ちゃんのこと?」


 真奈は小さく笑った。

 笑顔ではなかった。


「覚えてないですよね」


 その一言で、咲良は何も言えなくなった。


 真奈は鞄から、折りたたまれた紙を出した。印刷されたメモの一部だった。


《真奈ちゃんみたいな子は楽でいい。目立たないから、傷つくことも少なそう》


 咲良は紙の文字を見た。


 覚えていなかった。

 でも、自分の文体だった。


「私、それを見て、しばらく咲良さんのことが嫌いでした」


 真奈の声は震えていなかった。


「目立たないから傷つかないって、どうしてそんなこと言えるんだろうって。私はずっと、目立てないことで傷ついてたのに」


 咲良は胸が詰まった。


 真奈は続けた。


「でも、あのアカウントを乗っ取ったのは私じゃありません」


 咲良は目を見開いた。


「え」


「私はタブレットを持っていました。でも、一年前に捨てました。正確には、リサイクルショップに売りました。初期化したつもりでした。でも、ちゃんとできていたかはわかりません」


 蓮の表情が硬くなった。


「どこの店ですか」


 真奈は店名を答えた。蓮がすぐにメモを取る。


 咲良はまだ、真奈を見ていた。


「じゃあ、今投稿してる人は」


「わかりません。でも」


 真奈は膝の上で手を握った。


「私、昔、そのメモの写真を一人に送ったことがあります」


 空気が張り詰めた。


「誰に」


 咲良の声はかすれた。


 真奈は少し躊躇してから、言った。


「当時、咲良さんのSNSを手伝っていた人です。黒川さん」


 黒川。


 その名前で、咲良の記憶がまた一つ開いた。


 黒川美緒。

 フリーのSNSディレクター。事務所に所属する前、咲良のアカウント運用を少し手伝っていた女性。撮影の構成、投稿時間、伸びる言葉の選び方。咲良が“咲良”として形になっていく過程に、一時期深く関わっていた。


 そして、ある時期を境に関係が切れた。


 理由は、咲良が事務所に入ることになり、黒川との契約を更新しなかったからだ。


 あのとき咲良は、メッセージ一つで終わらせた。


《今後は事務所と進めることになりました。今までありがとうございました》


 黒川からの返信は、短かった。


《了解しました。頑張ってください》


 それで終わったと思っていた。


 真奈は言った。


「黒川さん、咲良さんのことをよく知っていると言っていました。私がメモのことを話したら、『そういう弱さを出せばもっと伸びるのにね』って」


 咲良の背筋が冷えた。


 弱さを出せば、もっと伸びる。


 その言葉に、ぞっとするほど覚えがあった。


 黒川はよく言っていた。


「咲良さんは、きれいなだけじゃ足りない。傷を見せたほうが、人は離れられなくなる」


 当時の咲良は、その言葉に少し抵抗を感じながらも、どこかで納得していた。実際、「会社で泣いた日のメイク直し」は伸びた。痛みは数字になる。涙は共感になる。弱さはコンテンツになる。


 その仕組みを、咲良も利用してきた。


 蓮が低い声で言った。


「黒川美緒さんには、こちらから確認します」


 真奈は小さく頷いた。


 咲良は、ようやく声を出した。


「真奈ちゃん」


「はい」


「あのメモを書いたこと、謝って済むことじゃないと思う。でも、ごめんなさい。私は、真奈ちゃんのことを何も見てなかった」


 真奈は咲良を見た。


 その目には、怒りだけではないものがあった。諦め、疲れ、少しの哀しさ。


「今さらですよね」


「うん。今さらだと思う」


 咲良は逃げずに頷いた。


「でも、今さらでも言わせてほしい。目立たないから傷つかないなんて、勝手に決めつけてごめんなさい」


 真奈は長く黙った。


 そして、視線を落とした。


「私、咲良さんに憧れてました」


 咲良は胸が痛んだ。


「だから、嫌いになったとき、しんどかったです」


 その言葉は、どんな悪口よりも重かった。


 憧れを傷に変えたのは、自分だったのかもしれない。


 カフェを出るとき、真奈は最後に言った。


「私は、咲良さんを許したわけじゃないです」


「うん」


「でも、あのアカウントで晒されてるのを見て、少しだけ怖くなりました。私も同じことをしたかった時期があったから」


 咲良は何も言えなかった。


「だから、止まってほしいとは思ってます」


 それだけ言って、真奈は駅のほうへ歩いていった。


 咲良はその背中を見送った。


 由衣の背中とは違う。けれど、また一人、自分が見てこなかった人の背中だった。


 蓮が隣で言った。


「黒川に連絡する」


 咲良は頷いた。


 犯人の輪郭が、少しずつ見えてきた。

 でも、胸の中には安堵よりも重いものが残っていた。


 盗まれたのは、アカウントだけではない。

 自分の言葉だった。過去だった。醜さだった。


 けれど、それを最初に雑に扱ったのは、自分自身だったのだ。


 咲良は空を見上げた。


 夕方の光は薄く、少し冷たい。


 明日か、明後日か。

 きっと近いうちに、咲良はカメラの前に座ることになる。


 そのとき、どんな顔で話せばいいのか、まだわからない。


 ただ一つだけ、もう決めていた。


 きれいに見える顔ではなく、逃げない顔で話す。

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