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第6話 本当のアンチ

蓮が戻ってきたのは、夜の十時を少し過ぎた頃だった。


 玄関の鍵が開く音がして、咲良は古い写真を膝に乗せたまま顔を上げた。蓮はコンビニの袋と紙袋を持っていた。目の下には疲れが見えたが、表情は崩れていない。


「起きてたか」


「寝られると思う?」


「思わない」


 蓮は靴を脱ぎ、テーブルに袋を置いた。中には温かいスープ、ゼリー飲料、使い捨ての歯ブラシ、それから小さな栄養ドリンクが入っていた。


「泊まる気?」


「咲良が嫌なら帰る」


 咲良は少し考えた。


 普通なら嫌だった。マネージャーとはいえ、夜に男の人を部屋に泊めるなんて、どこからどう見ても面倒なことになる。自分でも、その判断くらいはできる。


 けれど今は、一人になった瞬間にスマホを開いてしまう気がした。

 そして、灰色のアカウントの投稿を一つ残らず読んで、自分で自分を壊してしまう気がした。


「……ソファでいいなら」


「十分」


 蓮は余計なことを言わなかった。咲良の許可を得ると、上着を椅子に掛け、パソコンを開いた。


 咲良は膝の上の写真を見下ろした。


 由衣と並んで笑っている一枚。

 今の自分なら絶対に選ばない角度で、絶対に許さないメイクで、でも確かに楽しそうに笑っている自分。


「由衣から連絡が来た」


 咲良が言うと、蓮は手を止めた。


「なんて?」


「あのアカウントは自分じゃないって。でも、写真は昔、私に送ったものだって」


「信じる?」


 その問いに、咲良はすぐ答えられなかった。


 信じたい。

 でも、怖い。


 人を信じるということは、自分の判断を相手に預けることに似ている。裏切られたら、そのぶん深く傷つく。咲良はそれが嫌で、ずっと先回りしてきた。期待しない。甘えない。信じすぎない。自分で疑って、自分で傷ついておけば、誰かに壊されずに済むと思っていた。


「信じたい」


 少し時間を置いて、咲良は言った。


「信じたいってことは、まだ信じきれてないってことだけど」


「それでいい」


 蓮は静かに言った。


「最初から百パーセント信じようとしなくていい。疑いながらでも、相手の言葉を保留できれば十分だ」


「保留」


「犯人にしない、という意味で」


 咲良は小さく頷いた。


 犯人にしない。


 それだけで、少しだけ呼吸がしやすくなった。由衣を疑っていた自分は消えない。けれど、疑ったまま決めつけなかったことに、まだぎりぎり救いがある気がした。


 蓮はパソコンの画面を咲良に向けた。


「現時点で、あの写真を持っていた可能性があるのは、由衣さん、咲良、当時の職場の同僚。あと、誰かが保存していた共有フォルダや旧端末」


「昔の職場の人に連絡するの?」


「必要があれば。ただ、今すぐ全員に聞くと騒ぎが広がる。まずは、端末の所在を確認したい」


 咲良は古いタブレットのことを思い出した。


 白いカバーをつけた、少し重い端末。撮影用の資料や、過去の写真、下書きのメモを入れていた。由衣に貸したあと、返してもらった記憶が曖昧だった。


「由衣に聞いてみる」


「今?」


「うん。先延ばしにしたら、また疑うから」


 咲良はスマホを手に取った。


 由衣からのメッセージには、まだ咲良の返信以降、既読がついていなかった。迷惑かもしれない。こんな時間に送るべきではないかもしれない。けれど、今聞かなければ、自分の中でまた都合のいい悪意が育ってしまう。


《昔、私がタブレット貸したこと覚えてる? 白いカバーの。あれ、返してもらったか覚えてる?》


 送信して、すぐスマホを伏せた。


 蓮は何も言わず、スープの蓋を開けた。


「食べろ」


「またそれ」


「今の咲良に必要なのは、反論より糖分と塩分」


「美容アカウントの危機に塩分勧めるマネージャー、どうなの」


「むくみより命」


 咲良はほんの少し笑った。


 スープを口に運ぶと、温かさが胃に落ちた。久しぶりに体の輪郭が戻るような感覚があった。炎上しても、食べれば体は温まる。おかしな話だと思った。世界が終わっても、人間の体は勝手に生きようとする。


 食べ終わった頃、由衣から返信が来た。


《覚えてる。私、返したと思ってた。でも自信ない。最後に見たのは、咲良と撮った動画を編集したとき》


 続けて、もう一通。


《そのあと、職場の休憩室に置きっぱなしにしてた日がある。咲良が取りに来るって言ってた気がする》


 咲良は記憶をたどった。


 休憩室。

 閉店後。

 白いタブレット。

 その日、誰かに呼ばれて途中で帰ったような気がする。取りに行ったのか、由衣が持ち帰ったのか、思い出せない。


《休憩室って、誰でも入れた?》


《スタッフなら。あと、退職前後だったから、ヘルプで来てた人もいた》


 咲良は画面を蓮に見せた。


「広がったな」


 蓮は低く言った。


「誰か、わからないってこと?」


「候補が増えたということ」


「同じじゃん」


「違う。由衣さんだけを疑う理由が減った」


 咲良はその言葉をゆっくり飲み込んだ。


 由衣だけを疑う理由が減った。

 確かにそうだ。


 でもその代わり、周りの誰もが疑わしくなった。


 昔の同僚。

 ヘルプで来ていたスタッフ。

 咲良のことをよく思っていなかった人。

 もしかすると、咲良自身が忘れている誰か。


 人に見られる仕事をしていると、敵が増える。そう思っていた。けれど、今はもっと昔から、自分は誰かを傷つけてきたのではないかと考えてしまう。


 蓮は画面を閉じた。


「今日はここまでにしよう」


「まだ何もわかってない」


「だからこそ、ここで止める。眠れなくても横になれ」


「蓮さんは?」


「事務所と少しやり取りしてから寝る」


「寝ないやつじゃん」


「寝る努力はする」


 咲良はソファから立ち上がり、寝室へ向かった。ドアの前で振り返る。


「蓮さん」


「うん」


「私って、そんなに人を傷つけてたのかな」


 蓮はすぐには答えなかった。


「傷つけたことはあると思う」


 咲良の胸が沈んだ。


「でも、傷つけたことがある人間と、傷つけるだけの人間は違う」


「違うの?」


「違う。前者は、気づいたあとに選び直せる」


 咲良は小さく頷いた。


 選び直す。


 それは、今の咲良にはまだ遠い言葉だった。


 寝室に入り、ベッドに横になる。目を閉じても、眠れなかった。灰色のアカウント、由衣の顔、昔の写真、母の声、蓮の言葉。それらが順番を無視して頭の中に浮かんでは消える。


 傷つけたことがある人間。

 傷つけるだけの人間。


 自分はどちらなのだろう。


 少なくとも、「サクラの裏側」を作った咲良は、自分を傷つけるだけの人間だった。


 誰かに言われる前に、自分で自分を叩く。

 他人の悪意を先取りして、自分の中で再生する。

 そうすれば強くなれると思っていた。


 でも、本当は違った。

 それはただ、自分の中にアンチを住まわせただけだった。


 朝になっても、咲良はほとんど眠れていなかった。


 リビングに出ると、蓮はソファで浅く眠っていた。パソコンは閉じられ、スマホはテーブルの上に伏せてある。床にはコンビニの紙袋が畳まれて置かれていた。


 咲良は少しの間、その姿を見た。


 蓮はいつも、正しい距離を取る。近づきすぎず、離れすぎず、必要なときにだけ手を伸ばす。咲良はそれを仕事だからだと思っていた。今も、仕事の一部なのかもしれない。


 けれど、もし自分が蓮の立場だったら、ここまでできるだろうか。


 そう考えたとき、咲良は自分がこれまで、どれだけ人の優しさを「役割」として処理してきたかに気づいた。


 母は母だから心配する。

 蓮はマネージャーだから助ける。

 由衣は優しいから聞いてくれる。

 フォロワーは咲良が好きだから褒める。


 そうやって名前をつければ、受け取らずに済む。

 受け取らなければ、返さずに済む。

 返せなかったときの罪悪感から逃げられる。


 咲良はキッチンで湯を沸かし、インスタントのコーヒーを二つ作った。料理は得意ではない。けれど、それくらいならできる。


 マグカップをテーブルに置くと、蓮が目を開けた。


「……おはよう」


「おはよう。コーヒー、薄いかも」


「助かる」


 蓮は体を起こし、マグカップを受け取った。


「眠れた?」


「少し。咲良は?」


「横になってただけ」


「それでもいい」


 蓮はスマホを確認し、表情を少し硬くした。


「何かあった?」


「灰色のアカウントが、深夜にまた投稿してる」


 咲良の体がこわばった。


「見る」


「見ないほうがいい」


「見ないと、余計怖い」


 蓮は迷った末、スマホを渡した。


 投稿は短かった。


《咲良は自分が嫌いなだけじゃない。自分を嫌ってる顔で、人にも同じことをしてた》


 その下に、スクリーンショットが貼られていた。


 咲良の昔の非公開メモだった。


《由衣はいいよね。自然体で許されるから》

《私は努力しないと見てもらえない》

《由衣の隣にいると、自分がみじめになる》

《でも、由衣が伸びないことに安心してる自分もいる》


 咲良はスマホを落としそうになった。


「これ……」


 自分が書いたものだった。


 誰にも見せるつもりのなかったメモ。白いタブレットに入っていた、日記とも下書きともつかない文章。由衣に対する嫉妬、劣等感、醜い安心。自分でも見返したくなくて、忘れたふりをしていた言葉。


 それが、切り取られて晒されている。


「最低」


 咲良は呟いた。


「これは」


 蓮が言いかけたが、咲良は首を振った。


「違う。投稿した人じゃなくて、私が最低」


 メモの中の言葉は、確かに咲良のものだった。


 由衣を羨ましいと思っていた。

 由衣が伸びないことに安心した日もあった。

 友達だと言いながら、比べていた。

 隣にいる由衣を、透明にしただけではない。自分の劣等感の鏡として使っていた。


 咲良は震える手でスマホを握った。


「由衣に、これ見られる」


「もう見ている可能性はある」


 蓮の声は厳しかった。


 咲良は息を吸った。肺がうまく膨らまない。


「謝らなきゃ」


「今すぐ感情のまま送るな」


「でも」


「謝るなら、何に対して謝るのか整理しろ。自分が楽になりたいだけの謝罪にするな」


 その言葉に、咲良は口を閉じた。


 自分が楽になりたいだけの謝罪。


 また、胸を刺された。


 謝りたい。

 それは本当だ。

 でもその奥には、早く許されたい、早くこの苦しさから逃げたいという気持ちも確かにあった。


 咲良はソファに座り込んだ。


「私、ずっと自分だけが傷ついてると思ってた」


 声が、自然にこぼれた。


「でも、私の自信のなさって、周りにも向いてたんだね。由衣が悪いわけじゃないのに、由衣を見て勝手に傷ついて、勝手に安心して、勝手に見下してた」


 蓮は何も言わなかった。


「自分が嫌いって、もっと個人的なことだと思ってた。自分の中だけで完結するものだと思ってた。でも違った。私、自分を嫌いなまま、人と関わってた。だから、相手のこともちゃんと見られなかった」


 咲良は顔を覆った。


「本当のアンチって、私だったんだ」


 その言葉を口にした瞬間、涙が出た。


 昨日までの涙とは違った。怖いからでも、晒されたからでも、仕事がなくなるからでもない。自分がしてきたことの輪郭が、ようやく見えてしまった涙だった。


 蓮はティッシュを差し出した。


「気づいたなら、そこからだ」


「遅すぎる」


「遅いかどうかは、相手が決める。でも、気づかないままよりはいい」


 咲良は涙を拭いた。メイクはしていない。崩れるものもなかった。


 しばらくして、由衣からメッセージが届いた。


《見た》


 咲良は画面を見つめた。


 続けて、もう一通。


《正直、きつい。でも、咲良が私をそう見てたこと、少し知ってた気もする》


 咲良の喉が詰まった。


 さらに一通。


《今は返事しなくていい。私も整理したい》


 咲良は返信欄を開いた。何度も文字を打ち、消した。


《ごめん》

 軽すぎる。


《そんなつもりじゃなかった》

 嘘だ。そんなつもりがあったから書いた。


《傷つけてごめん》

 それだけでは足りない。


 咲良はスマホを置いた。


「返さないのか」


 蓮が聞いた。


「今返すと、許してほしいだけになりそうだから」


 蓮は小さく頷いた。


「それでいい」


 昼過ぎ、事務所から連絡が入った。アカウントの乗っ取り申請は進めているが、復旧には時間がかかる。警察への相談も視野に入れる。今後、咲良本人の説明が必要になる可能性が高い。


 説明。


 咲良はその言葉を、今度は前ほど遠く感じなかった。


 怖い。

 逃げたい。

 でも、事務所の整った文章だけでは届かないものがあることもわかっていた。


 咲良は蓮に言った。


「私、話したい」


 蓮は顔を上げた。


「今すぐ投稿するという意味なら止める」


「違う。準備する。ちゃんと。何をしたのか、何を隠してたのか、誰を傷つけたのか。自分の言葉で」


 蓮はしばらく咲良を見ていた。


「かなり苦しい作業になる」


「もう苦しいよ」


「もっとだ」


「それでも」


 咲良は膝の上で手を握った。


「これ以上、誰かに勝手に私の言葉を使われたくない。汚い言葉も、弱い言葉も、私が書いたなら、私が引き受けたい」


 蓮は静かに息を吐いた。


「わかった。まず、紙に書こう。投稿文じゃなくて、自分用に。誰に向けるかも決めずに、事実だけ」


「動画じゃないの?」


「最後は動画になるかもしれない。でも最初からカメラを見ると、咲良はまた“咲良”を作る」


 その通りだった。


 咲良はノートを取り出した。いつもなら企画案や投稿スケジュールを書くためのものだ。白いページを開き、ペンを持つ。


 何から書けばいいのかわからない。


 蓮が言った。


「最初は、これでいい」


 咲良はペン先を紙に置いた。


 少し震える文字で、ゆっくり書く。


《私は、自分の悪口アカウントを作りました》


 書いた瞬間、胸が痛んだ。


 でも、逃げなかった。


 次の行に進む。


《誰かに傷つけられる前に、自分で自分を傷つければ平気だと思っていました》


 涙で文字が少し滲んだ。


 咲良は手の甲で拭い、また書いた。


《でも、その言葉は私だけでなく、周りの人も傷つけていました》


 ページの上に、咲良の嘘ではない言葉が少しずつ並んでいく。


 きれいな文章ではなかった。

 好かれるための言葉でもなかった。

 言い訳を削れば削るほど、そこに残る自分はひどく小さかった。


 それでも咲良は、初めてその小さな自分から目を逸らさなかった。

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