第5話 昔の顔
写真が投稿されてから、咲良はほとんど眠れなかった。
夜明け前の部屋は、奇妙なほど静かだった。スマホはテーブルの上で伏せられている。蓮に「これ以上見るな」と言われ、通知も切った。けれど、画面を見なくても、頭の中ではコメントが勝手に流れ続けていた。
《昔と全然違う》
《努力っていうより別人》
《友達のほうが自然でかわいい》
《踏み台って本当なら最悪》
《咲良ちゃん、説明して》
実際にそんなコメントがあるかどうかはわからない。
でも、きっとある。
絶対にある。
咲良はソファの上で膝を抱えたまま、窓の外が少しずつ明るくなっていくのを見ていた。
蓮は床に座り、ローテーブルに置いたノートパソコンを見ている。彼も一睡もしていないはずなのに、表情は大きく崩れていなかった。時折、事務所や関係先に短い返信を送り、投稿の保存を続け、必要な情報を整理している。
その落ち着きがありがたくもあり、少し腹立たしくもあった。
世界が壊れているのは咲良だけで、蓮にとってはただのトラブル対応なのかもしれない。そう思いかけて、咲良は自分で自分にうんざりした。
蓮は来てくれた。
逃げずに、ここにいる。
それなのに、また勝手に傷つこうとしている。
「コーヒー、飲む?」
蓮が顔を上げた。
咲良は首を振った。
「胃が変」
「水は?」
「いらない」
「いる」
蓮は立ち上がり、キッチンでグラスに水を注いだ。勝手に人の家のキッチンを使う手つきが妙に自然で、咲良は少しだけおかしくなった。
「蓮さん、なんでそんなに普通なの」
グラスを受け取りながら言うと、蓮は短く息を吐いた。
「普通ではない」
「普通に見える」
「そう見せてるだけ」
咲良はグラスの水面を見た。
「それ、私と同じじゃん」
「そうだな」
蓮は否定しなかった。
「ただ、俺は今、それを仕事のためにやってる。咲良を安心させるために。咲良は、自分を罰するためにやってる」
咲良は返事をしなかった。
水を一口飲む。喉が思っていたより乾いていた。冷たい水が体の奥へ落ちていく感覚だけが、今の咲良に現実を教えてくれる。
蓮は再びパソコンの前に座った。
「事務所から連絡が来た。午前十時にオンラインで話したいって」
「怒られる?」
「怒られるというより、状況確認。案件先への説明も必要になる」
「契約、切られるかな」
「一部は止まると思う」
咲良は目を閉じた。
わかっていた。
でも、言葉にされると重い。
「ただ、全部が今日終わるわけじゃない」
「終わるよ」
「咲良」
「だって、見たでしょ。あの写真」
咲良は、伏せてあるスマホを見た。
あの集合写真。
美容部員時代の自分。
今より丸い顔。浮いているアイライン。少し作りすぎた笑顔。隣には由衣がいる。控えめで、でも確かにそこにいる。
写真そのものは、悪いものではなかった。
むしろ、当時の咲良は楽しかったはずだ。
なのに今は、それが証拠写真のように扱われている。
「昔の顔、出ちゃった」
「昔の顔が出たことと、咲良の価値がなくなることは別だ」
「きれいごと」
「そうかもしれない。でも事実でもある」
「蓮さんは見られる側じゃないから言えるんだよ」
また、棘が出た。
蓮はすぐには返さなかった。少し考えてから、静かに言った。
「そうだな。俺は咲良ほど見られる側じゃない。だから全部はわからない」
その素直さに、咲良は言葉を失った。
「でも、見られる側じゃない人間にも見えることはある。咲良は、昔の自分を敵にしすぎてる」
咲良は膝の上で手を握った。
「敵だよ」
声が出た瞬間、自分でも驚くほど冷たかった。
「あの頃の私は、何も持ってなかった。可愛くもなかったし、自信もなかったし、誰かに選ばれることもなかった。写真を撮られるのも嫌だった。なのに、周りは『そんなことないよ』って言うだけで、本当には助けてくれなかった」
蓮は黙って聞いている。
「だから、自分で変えたの。メイクも、髪も、話し方も、顔も、生活も。やっと今の私を作ったのに、昔の私を出されたら、全部引き戻される気がする」
咲良は声を落とした。
「あの顔に戻される気がする」
蓮は少しだけ眉を寄せた。
「戻らない」
「わからないじゃん」
「顔の話じゃない。時間は戻らない。咲良がやってきたことも消えない」
咲良は唇を噛んだ。
言葉ではわかる。
けれど、体が信じない。
昔の自分は、ずっと咲良の内側にいる。暗い廊下の奥に立って、こちらを見ている。どれだけ新しい服を着せても、どれだけ光を当てても、ふとした瞬間に追いついてくる。
午前十時、事務所とのオンライン面談が始まった。
画面の向こうには、代表の三島と広報担当の女性がいた。どちらも表情は硬い。咲良はメイクを直す気力もなく、薄くリップだけ塗ってカメラの前に座った。蓮は隣にいるが、画面には映らない位置にいた。
三島は最初に言った。
「まず確認します。現在問題になっている『サクラの裏側』というアカウントは、桜井さんが作成したものですか」
桜井さん。
仕事でその名字を呼ばれるとき、咲良はいつも少し距離を感じる。画面の中の咲良ではなく、契約書上の桜井咲良に戻される。
「……はい。作ったのは私です」
広報担当の女性がメモを取る。
「現在の投稿も、桜井さんによるものですか」
「違います。昨日の夜からログインできなくなりました。メールアドレスも変更されています」
「それを証明できる資料はありますか」
咲良は蓮を見た。蓮が頷き、スクリーンショットのフォルダを共有する。
淡々と状況が整理されていく。
まるで自分のことではないみたいだった。
三島は資料を確認したあと、深く息を吐いた。
「乗っ取りについては、正式に申し立てを進めます。ただし、最初に桜井さん自身がアカウントを作成し、自己批判的な投稿をしていた事実は残ります。そこは今後説明が必要です」
「はい」
「美容医療についても、事実確認をさせてください。受けたことがありますか」
喉が詰まる。
咲良は一瞬だけ目を伏せた。
「あります」
言った瞬間、画面の向こうの空気が少し変わった気がした。誰も責めていない。けれど、記録されている。判断されている。
「これまで、受けていないと明言したことは?」
「ありません。でも、聞かれても答えていませんでした」
「案件商品について、使用実態と異なる紹介をしたことは?」
「それはありません。使っていないものを使ったとは言っていません」
そこだけは、はっきり言えた。
どれだけ自分の顔を作っても、紹介するものについて嘘をつくことは避けてきた。案件でも、合わないものは断った。言葉を選んでも、実感のない褒め方はしなかった。
咲良にはまだ、守りたい線があった。
三島は頷いた。
「わかりました。今日の段階で、桜井さん本人からの発信は控えてください。こちらで文面を作成します」
咲良は顔を上げた。
「文面?」
「事実確認中であること、乗っ取りの可能性があること、関係各所と協議していること。まずはそれを事務所から出します」
「私の言葉では、出さないんですか」
「今は危険です」
「でも、私のアカウントのことです」
三島の表情は変わらなかった。
「だからこそ、感情的な発信は避けるべきです」
感情的。
その言葉に、咲良の胸が少しだけざわついた。
確かに、今の咲良が書けば危うい。余計なことを言うかもしれない。誰かを傷つけるかもしれない。自分をさらに追い込むかもしれない。
でも、自分のことなのに、自分の言葉で話せないのか。
画面の中の三島は、続けた。
「今後については、炎上の推移を見ながら判断します。しばらく投稿は停止してください。案件先には弊社から連絡します」
咲良は頷いた。
投稿停止。
その四文字が、胸の奥に落ちた。
通話が終わると、部屋はまた静かになった。
咲良は椅子に座ったまま、しばらく動かなかった。
「投稿、止めるんだ」
「今はそれが安全だ」
蓮が言った。
「安全って、誰にとって?」
咲良は画面の消えたパソコンを見つめた。
「事務所? 案件先? フォロワー? 私?」
「全部だ」
「私は今、全然安全じゃない」
蓮は言葉を探すように黙った。
咲良は立ち上がり、窓際に置いてあるリングライトに触れた。いつもなら、これをつけるだけで仕事の自分になれた。顔を明るく照らし、肌をなめらかに見せ、瞳に光を入れる輪。
電源を入れると、白い光が部屋に広がった。
咲良はその前に座った。カメラは回っていない。けれど体が勝手に角度を探す。少し顎を引き、肩の力を抜き、口角を上げる。
いつもの咲良が、そこにいる。
咲良はふと、笑いそうになった。
「私、気持ち悪いね」
「やめろ」
「だって、こんなときでもきれいに映る角度探してる」
「それは癖だ。気持ち悪いことじゃない」
「じゃあ何?」
「生き方になりすぎてる」
蓮の言葉は、責めるでも慰めるでもなかった。
咲良はリングライトの白い輪を見つめた。光が強すぎて、少し目が痛い。
そのとき、通知を切っていたはずのスマホが震えた。電話だった。
画面には、母の名前が表示されていた。
咲良の心臓が別の意味で沈んだ。
母。
地元に住む母は、咲良の活動をよく知らない。SNSで仕事をしている、くらいの認識だ。たまにテレビや雑誌に出ると喜ぶが、ネット上で何が起きているかまでは追っていない。
でも、炎上が広がれば、誰かから耳に入るかもしれない。
咲良は電話を無視しようとした。
蓮が静かに言った。
「出たほうがいい」
「今は無理」
「出なかったら、余計心配する」
咲良は深く息を吸い、通話を押した。
「もしもし」
「あ、咲良? 今、大丈夫?」
母の声は、いつも通りだった。少し高くて、少し急いでいる。咲良はそれだけで泣きそうになった。
「なに?」
「今朝ね、近所の田中さんに会って。咲良ちゃんネットで有名なのねって言われたのよ。なんか写真がどうとか……お母さん、よくわからなくて」
咲良は目を閉じた。
もう、届いている。
「別に、大したことじゃない」
「そうなの? でも、咲良、大丈夫? 声、疲れてる」
「大丈夫」
反射のように答えた。
すると母は、少し黙った。
「あなた、小さい頃からすぐ大丈夫って言うのよね」
咲良は息を止めた。
「転んで膝から血が出てても、大丈夫って言ってた。泣きそうな顔で」
「そんなの覚えてない」
「お母さんは覚えてるわよ」
母の声が少し柔らかくなった。
「咲良、昔から写真嫌いだったでしょう。運動会も、入学式も、撮ろうとすると怒って。お母さん、あの頃はただ反抗期だと思ってたけど」
咲良はスマホを握る手に力を込めた。
「お母さん、何が言いたいの」
「何も。ただ、もし昔の写真のことで嫌な思いしてるなら、咲良は昔から咲良だったよって言いたくて」
その言葉は、咲良の一番弱いところに触れた。
昔から咲良だった。
そんなこと、言わないでほしかった。
昔の自分と今の自分をつなげないでほしかった。
咲良は変わったのだ。変えてきたのだ。あの頃の自分から逃げるために、必死で。
「お母さんにはわかんないよ」
声が硬くなった。
「え?」
「昔から咲良だったとか、簡単に言わないで。私は昔の自分が嫌だったの。写真も嫌いだった。顔も嫌いだった。お母さんが可愛い可愛いって言うのも嫌だった。全然可愛くないのに、適当に言ってるみたいで」
電話の向こうで、母が息を飲んだ気配がした。
咲良は止まれなかった。
「今さら昔の私も私だよとか言われても困る。私は、あの頃の私を消したくて頑張ってきたの」
言ってから、部屋が静まり返った。
蓮は何も言わない。
電話の向こうで、母も少しの間黙っていた。
やがて、母は静かに言った。
「消したかったんだね」
咲良の喉が詰まった。
「……そうだよ」
「そっか」
母の声は震えていた。
「お母さん、気づかなかった。ごめんね」
謝られたくなかった。
責めてくれたほうが楽だった。そんなこと言わないで、と怒ってくれたほうが、咲良は自分を正当化できた。
でも母は、謝った。
「ただね、咲良。お母さんは適当に可愛いって言ったこと、一度もないよ」
咲良は目を閉じた。
「今は聞けない」
「うん。じゃあ、またにする」
母は無理に続けなかった。
「ちゃんと食べてね」
いつもの言葉。
いつもなら少し面倒に感じる言葉。
今は、それすら痛かった。
電話を切ると、咲良はスマホをテーブルに置いた。
涙は出なかった。
出そうなのに、出なかった。
「私、最低だ」
蓮は静かに言った。
「最低ではない」
「お母さんにあんな言い方した」
「今のうちに傷つけたことに気づけるなら、まだ戻れる」
「戻れるって、どこに」
「言葉を選び直せるところに」
咲良は床に座り込んだ。
もう、誰に何を謝ればいいのかわからない。母に。由衣に。フォロワーに。案件先に。蓮に。昔の自分に。
どれも正しい気がして、どれも今の自分には遠かった。
午後になると、事務所から公式の文面が出た。
《所属クリエイター桜井咲良に関するSNS上の投稿について、現在事実確認を行っております。一部アカウントについては、本人の管理下にない状態である可能性があり、関係各所と連携のうえ対応を進めております》
きれいな文章だった。
何も間違っていない。
でも、咲良の声ではなかった。
その文面の下には、すぐにコメントがついた。
《本人が説明しないの?》
《乗っ取りって便利な言葉》
《事務所文じゃなくて自分で話して》
《昔の写真より、裏アカ作ってたことが無理》
咲良は読んでしまった。
蓮に止められる前に、いくつも読んでしまった。
昔の写真より、裏アカ作ってたことが無理。
その通りだと思った。
自分の悪口を自分で書くこと。
それは、他人を騙すためというより、自分を守るためだった。
でも、見ていた人からすれば、奇妙で、不誠実で、怖い行為に見えるのだろう。
咲良自身も、同じことを他人がしていたらどう思うかわからない。
夕方、灰色のアカウントがまた投稿した。
《事務所は守ってくれるんだね。友達は守らなかったのに》
咲良は画面を見た瞬間、胃がきゅっと縮んだ。
由衣。
やはり、由衣なのか。
そう思った次の瞬間、別の可能性も浮かぶ。
由衣を犯人に見せたい誰か。
咲良と由衣の関係を知っている誰か。
あの写真を持っている誰か。
美容部員時代の職場には、他にも同僚がいた。集合写真は咲良だけが持っていたわけではない。誰でも保存していたかもしれない。
疑い始めると、きりがなかった。
夜、蓮は一度事務所に戻ると言った。
「一人にして大丈夫?」
「大丈夫」
咲良は答えてから、少し笑った。
「また言った」
蓮は玄関で靴を履きながら、咲良を見た。
「大丈夫じゃないなら、そう言え」
咲良はしばらく黙った。
いつもの自分なら、言わない。
言えるはずがない。
でも、今日はもう何も残っていなかった。
「……大丈夫じゃない」
声は小さかった。
蓮は頷いた。
「じゃあ、事務所に行ったら戻る。二時間くらい」
「いいの?」
「いい」
「蓮さんの仕事、私だけじゃないでしょ」
「今は咲良が一番燃えてる」
「言い方」
ほんの少しだけ笑えた。
蓮が出ていくと、部屋は急に広くなった。
咲良はソファに座り、スマホを伏せたまま眺めた。
見ないほうがいい。
わかっている。
けれど、灰色のアカウントの投稿が頭から離れなかった。
《友達は守らなかったのに》
咲良は立ち上がり、クローゼットの奥から古い箱を取り出した。引っ越しのときに、そのまましまっていたものだ。中には、昔の写真や手紙、使わなくなった名札、イベントの資料が入っている。
手が止まった。
美容部員時代の名札。
桜井咲良、と印字された小さなプレート。
その下に、写真が何枚かあった。
由衣と並んで笑っている写真。
新作リップを手に持ってふざけている写真。
閉店後の売り場で、二人でピースしている写真。
咲良は一枚ずつ見た。
昔の自分は、確かに今より垢抜けていない。顔も違う。メイクも下手だ。
でも、全部が嫌いかと聞かれたら、すぐには頷けなかった。
写真の中の咲良は、由衣の横で笑っている。
今の画面用の笑顔とは違う、少し崩れた笑い方で。
こんな顔をしていたことを、咲良は忘れていた。
箱の底に、もう一枚カードがあった。
由衣の文字だった。
《咲良は、咲良が思ってるより人を明るくするよ。だから、自分のことももう少し明るく見てあげてね》
誕生日にもらったカードだ。
咲良はその場に座り込んだ。
由衣は、見てくれていた。
咲良が自分を嫌っていることを、きっと昔から知っていた。
それなのに咲良は、由衣の寂しさを見なかった。
スマホが震えた。
今度は、知らない番号からのメッセージだった。
《由衣です。あのアカウント、私じゃない》
咲良は息を止めた。
続けて、もう一通届いた。
《でも、あの写真を撮ったのは私。昔、咲良に送った。誰が持ってるのかわからない。ごめん》
咲良は画面を見つめた。
疑っていた。
さっきまで、由衣を疑っていた。
喉の奥が熱くなる。
さらに一通。
《私も咲良を傷つけたかった時期がある。だから、疑われても仕方ないと思ってる。でも今回は違う》
咲良は震える指で返信を打った。
《疑ってごめん》
既読はつかなかった。
咲良はスマホを胸に押し当てた。
犯人は由衣ではない。
少なくとも、由衣はそう言った。
それを信じるかどうかは、咲良次第だった。
咲良は、信じたいと思った。
今度こそ、由衣の言葉をきれいに処理するのではなく、そのまま受け取りたいと思った。
その夜、蓮が戻ってくるまで、咲良は古い写真を見続けた。
昔の顔は、まだ好きになれない。
けれど、そこにいた自分がただ醜く、消すべき存在だったのかと問われると、答えられなかった。
写真の中の咲良は、確かに未完成だった。
でも、未完成なりに、笑っていた。
その笑顔を見ているうちに、咲良は初めて思った。
今の自分を守るために必要なのは、昔の自分を殺すことではなかったのかもしれない。
あの頃の自分を、誰よりも先に傷つけてきたのは、他でもない自分だったのかもしれない。




