第4話 鍵を失った部屋
蓮からの電話は、三回続けて鳴った。
駅のトイレの個室の中で、咲良はスマホを握ったまま動けなかった。画面には蓮の名前が表示されている。その背後で、本アカウントの通知が滝のように流れていく。
《裏アカの件、本当ですか?》
《由衣さんって誰?》
《踏み台ってどういう意味?》
《説明したほうがいいと思います》
《咲良ちゃん信じてたのに》
信じてたのに。
その一文だけが、他の文字より濃く見えた。
咲良は、信じられるようなものを見せていただろうか。
自分で自分を叩く裏アカウントを作り、友達に嘘をつき、きれいな言葉だけを表に並べていた自分が。
四度目の着信で、ようやく通話ボタンを押した。
「咲良、今どこ」
蓮の声はいつもより低かった。怒っているというより、急いでいる声だった。
「……駅」
「どこの駅」
「さっきのカフェの近く」
「一人?」
「うん」
「そこから動くな。迎えに行く」
「来なくていい」
「行く」
即答だった。
咲良は笑おうとした。でも、喉が引きつって音にならなかった。
「仕事、終わったかも」
「今それを判断するな」
「だって、もう無理でしょ。蓮さんも見たんでしょ、あの投稿」
「見た。だから行く」
「私じゃない」
咲良は反射的に言った。
通話の向こうで、蓮が黙った。
「投稿したのは、私じゃない」
「今の投稿は、だろ」
胸を突かれたようだった。
咲良は壁に背中を押しつけた。狭い個室の中で、バッグの金具が小さく鳴った。
「……蓮さん、どこまで知ってるの」
「知らない。だから聞く」
「聞かれたくない」
「聞かないと守れない」
その言葉が苦しかった。
守る。
誰を。
何から。
咲良はもう、自分が加害者なのか被害者なのかもわからなかった。
「十分で着く。電話は切らない」
「やだ」
「じゃあ、メッセージでもいい。とにかく一人で判断するな。アカウントに触るな。投稿も消そうとするな。スクショだけ取れるなら取って」
蓮の声は淡々としていた。
その淡々さに、咲良は少しだけ現実へ引き戻された。
「スクショ……」
「そう。今出てる投稿、ログインできない画面、通知、全部」
「でも、手が」
「ゆっくりでいい」
咲良は震える指で画面を操作した。スクリーンショットを撮るたび、シャッター音のない小さな振動が手の中に残る。
灰色のアイコン。
自分のものだったはずのアカウント。
そこに並ぶ、知らない言葉。
《咲良が昔、友達を踏み台にして伸びた話、需要ある?》
投稿には、もう百を超える反応がついていた。フォロワーは二十三人しかいなかったはずなのに、誰かが拡散し、誰かが面白がり、誰かが咲良の名前を添えて広げている。
咲良は吐き気をこらえた。
トイレの外では、誰かが手を洗う音がする。笑い声も聞こえる。世界は普通に動いている。その普通さが、今の咲良には残酷だった。
十分後、蓮からメッセージが届いた。
《改札前にいる》
咲良は個室を出て、鏡の前で立ち止まった。
顔がひどかった。メイクは崩れていない。けれど、表情が崩れていた。目が泳ぎ、唇が白く、頬だけ不自然に赤い。
咲良はバッグからリップを出そうとして、やめた。
今それを塗ったら、自分が自分を見捨てる気がした。
改札前に蓮はいた。
白いシャツの上に黒いジャケットを羽織り、片手にスマホを持っている。咲良を見つけると、何も言わずに近づいてきた。
「歩ける?」
咲良は頷いた。
「事務所に行く?」
「いや。今日は人の目がある。タクシーで咲良の家に行く」
「家は」
「住所は知ってる。送迎で何回も行ってるだろ」
そうだった。
そんなことも、うまく考えられない。
駅を出るまでのあいだ、咲良はずっと下を向いていた。誰かに顔を見られるのが怖かった。街の中に、自分のフォロワーがいるかもしれない。さっきの投稿を見た誰かがいるかもしれない。
タクシーに乗ると、ようやく息が少し深くなった。
蓮は運転手に住所を告げ、それから咲良を見た。
「スマホ、見せて」
咲良は一瞬ためらった。
スマホは、咲良の生活そのものだった。仕事、写真、メモ、未投稿の動画、コメント、検索履歴、そして見られたくないもの全部。
でも今さら、何を守るつもりなのだろう。
咲良はスマホを渡した。
蓮は必要な画面だけを確認した。余計なところを見ようとはしない。その節度に、咲良はなぜか泣きそうになった。
「ログインは完全に弾かれてるな。メールも変えられてる」
「取り返せる?」
「申請はできる。ただ時間がかかる。まずは証拠をまとめる。あと、今後の投稿に対して、何を認めて何を否定するか決める必要がある」
咲良は窓の外を見た。夜の街の光が流れていく。そこに映る自分の顔は、暗くてよく見えなかった。
「何を認めるかって」
「咲良」
蓮は静かに名前を呼んだ。
「あのアカウント、最初に作ったのは咲良だな」
問いではなかった。
咲良は唇を噛んだ。
否定したかった。
でも、もう無理だった。
タクシーの走行音が、沈黙を埋める。数秒か、数十秒か、わからない時間が過ぎた。
「……うん」
声は、思ったより小さかった。
「私が作った」
言った瞬間、体のどこかが少し軽くなった。けれど同時に、別の場所が深く沈んだ。
蓮は驚かなかった。怒りもしなかった。ただ、少しだけ目を伏せた。
「いつから」
「半年前」
「目的は」
「目的なんて」
咲良は言いかけて、笑った。乾いた笑いだった。
「自分の悪口を、自分で書いてた。誰かに言われる前に。先に」
蓮は黙って聞いていた。
「馬鹿みたいでしょ」
「馬鹿みたいとは思わない」
「じゃあ、何」
「危ないと思う」
その言葉は、予想していたよりずっと重かった。
「咲良が悪いとか、気持ち悪いとか、そういう話じゃない。自分を守る方法が、自分を壊す方向に行ってる」
咲良は膝の上で指を握りしめた。
「そんなの、わかってる」
「本当にわかってたら、続けてない」
優しい声ではなかった。
けれど、突き放す声でもなかった。
咲良は返事をしなかった。
マンションに着くと、蓮は咲良を部屋まで送り、そのまま中に入った。仕事で何度か来たことがあるとはいえ、夜に二人きりになるのは初めてだった。けれど、そんなことを気にする余裕は咲良にはなかった。
部屋の明かりをつける。
白い棚。淡いラグ。整えられた観葉植物。撮影用のリングライト。テーブルには、朝のままのプロテインの空き容器が置いてあった。
蓮は部屋を一瞥し、少しだけ眉をひそめた。
「今日は何か食べた?」
「今それ?」
「今だから聞いてる」
「……昼に少し」
蓮はコンビニの袋をテーブルに置いた。いつ買ったのかわからない。中にはおにぎりと味噌汁と水が入っていた。
「食べながらでいい。話せる範囲で全部話して」
咲良はおにぎりを見た。まるで遠い国の食べ物のようだった。
「食べられない」
「一口でいい」
「母親みたい」
「それもできればやりたくない」
蓮のその返しに、咲良は少しだけ笑った。笑ったことに、自分で驚いた。
椅子に座り、ラップを剥がす。鮭のおにぎりを一口かじると、急に空腹だったことを思い出した。喉は詰まったが、水で流し込んだ。
蓮はノートパソコンを開き、投稿のスクリーンショットを整理し始めた。
「アカウントを知っていた可能性がある人は?」
「誰も知らない」
「ログイン情報を見られた可能性は」
「ないと思う」
「思うじゃなくて、可能性」
咲良は考えた。
スマホ。自宅のパソコン。仕事用の古いタブレット。以前、撮影用に使っていた端末。
パスワードは使い回していないつもりだった。けれど、完全に安全だったかと言われると自信がない。
「昔のタブレットに、ログインしたままだったかもしれない」
「そのタブレットは?」
「……わからない」
「家にない?」
咲良は棚の下の収納を開けた。撮影機材、古いコスメ、ケーブル類。だが、タブレットはなかった。
胸がざわつく。
あのタブレットを最後に見たのはいつだったか。
記憶を探る。
半年前。
由衣と会わなくなる少し前。
確か、二人で動画を撮ろうとしていたとき、咲良のスマホの容量が足りなくなった。古いタブレットに資料や写真を入れて、由衣に渡した。由衣の家で編集アプリを試すために。
その後、返してもらっただろうか。
咲良の顔色が変わったのを、蓮は見逃さなかった。
「心当たりある?」
「ある、かもしれない」
「誰」
咲良はすぐには答えられなかった。
由衣の顔が浮かぶ。カフェでの静かな目。
「今の咲良、昔よりきれいだと思う。でも、昔より苦しそう」
あの言葉を言った人が、こんなことをするだろうか。
でも、通知を見た瞬間の由衣の視線。
「またね、とは言わないでおく」と言った声。
わからない。
「由衣に、昔タブレットを貸したかもしれない」
蓮の手が止まった。
「今日会ってた友達?」
「元友達」
自分で言って、胸が痛んだ。
「その人がやったと思う?」
「わからない。思いたくない。でも、わからない」
蓮は頷いた。
「決めつけるな。今は可能性として置いておく」
その言い方に、咲良は少し救われた。
疑いは、確信とは違う。
まだ、由衣を犯人にしなくていい。
そのとき、本アカウントの通知がまた跳ね上がった。
咲良は反射的にスマホを見た。
灰色のアカウントが、新しい投稿をしていた。
《咲良の昔の写真、出していい? 今の顔と比べたら面白いよ》
咲良は息を飲んだ。
数秒後、さらに投稿が続く。
《美容医療を受けたこと、隠してるのもどうかと思う》
画面が遠くなった。
蓮がスマホを取り、投稿を確認する。
「落ち着け」
「無理」
「写真はまだ出てない」
「出るよ。絶対出る」
咲良の声が震えた。
「昔の顔、見られる」
「咲良」
「無理。あれは無理」
高校の卒業アルバム。美容部員時代の無加工写真。施術前に撮ったクリニックの写真。
どこから出るのかはわからない。けれど、もし出たら。
今の自分が全部嘘だったと言われる。
努力ではなく詐欺だと言われる。
きれいだと言ってくれた人たちが、騙されたと思う。
「美容医療を受けたこと自体は、悪いことじゃない」
蓮は言った。
「わかってる!」
咲良は叫んだ。
自分の声に、自分で驚いた。
「わかってるよ。人にはそう言える。変わりたいなら変わっていいって。メイクも美容医療も、自分のためならいいって。でも、自分のことになると無理なの。昔の私を見られたら、今の私が全部否定される気がする」
涙がこぼれた。
「私、昔の顔が嫌いだった。写真も嫌いだった。誰かの横に並ぶのも嫌だった。やっと、やっと見てもらえるようになったのに」
蓮は何も言わなかった。
咲良は両手で顔を覆った。メイクが崩れる、と思った。けれど、もうどうでもよかった。
「きれいになりたかっただけなのに」
それは、ずっと誰にも言えなかった言葉だった。
蓮は少し間を置いてから、静かに言った。
「じゃあ、その言葉は嘘にするな」
咲良は顔を上げた。
「昔の写真が出る前に、咲良の言葉で話す準備をする。今すぐ投稿はしない。でも、逃げるためじゃなくて、事実を整理するために」
「話したら、終わる」
「黙っていても、相手が勝手に話す」
その通りだった。
咲良は唇を噛んだ。
スマホがまた震えた。今度はメールだった。
件名を見て、胃が冷える。
《案件投稿一時停止のご相談》
別の通知。
《明日の撮影について確認させてください》
また別の通知。
《現在のSNS上の件について》
仕事が、一つずつ距離を取り始めていた。
咲良は椅子に座り込んだ。
「私、何を守ろうとしてたんだろう」
蓮は画面から目を離さずに言った。
「たぶん、咲良という名前で作った居場所」
「居場所?」
「褒められる場所。必要とされる場所。昔の自分を見なくて済む場所」
咲良は部屋を見回した。
整えられた家具。撮影用の照明。並べられたコスメ。
全部、咲良が作った場所だった。
でもそこには、素顔で座れる余白がなかった。
深夜零時を過ぎた頃、灰色のアカウントがまた動いた。
今度は、画像付きだった。
咲良は見た瞬間、息が止まった。
美容部員時代の集合写真。店のバックヤードで撮ったものだ。咲良と由衣が並んで笑っている。咲良は今より顔が丸く、メイクも少し濃い。由衣は控えめにピースをしている。
投稿文には、こう書かれていた。
《左が昔の咲良。右が“踏み台にされた友達”。きれいな物語って、作るの上手だよね》
咲良は画面を見つめた。
写真の中の自分は、楽しそうに笑っていた。
由衣も笑っていた。
それなのに今、その写真は刃物になっている。
蓮が何か言った気がした。けれど、咲良には聞こえなかった。
通知が増えていく。
誰かが比べる。
誰かが笑う。
誰かが裁く。
咲良は、初めてはっきりと思った。
これは炎上ではない。
これは、自分が閉じ込めてきた過去の扉が、内側から壊された音だ。




