第3話 透明だった友達
由衣と会う日の夕方、咲良はクローゼットの前で十分以上立ち尽くしていた。
仕事の打ち合わせなら、迷わない。ブランドの発表会なら、もっと簡単だ。淡いベージュのワンピースに、華奢なアクセサリー。肌がきれいに見える白のトップス。親しみやすさを出したい日はカーディガン。強く見せたい日はジャケット。
誰にどう見られたいかが決まっていれば、服は選べる。
けれど今日は、わからなかった。
由衣に、どう見られたいのか。
昔の友達として会いたいのか。
成功した今の咲良として会いたいのか。
それとも、疑っていることを悟られないようにしたいのか。
咲良は白いブラウスを手に取って、すぐに戻した。きれいすぎる気がした。次に黒いニットを出したが、今度は防御しているように見えた。
結局、薄いグレーのシャツとデニムを選んだ。カジュアルすぎず、頑張りすぎてもいない。鏡の前で確認すると、ちゃんと“自然体に見える咲良”になっていた。
自然体に見えるために、二十分かけて髪を巻いた。
抜け感を出すために、三種類のスタイリング剤を使った。
何も塗っていないように見える肌を作るために、下地とコンシーラーとパウダーを丁寧に重ねた。
咲良は鏡の中の自分を見て、少しだけ笑った。
「自然って、難しい」
声に出すと、ひどく空虚に響いた。
駅前のカフェは、昔とほとんど変わっていなかった。
木目調のテーブル、少し低めの照明、窓際に並ぶ二人席。美容部員として働いていた頃、遅番終わりによく由衣と来た店だ。閉店間際まで、新作コスメの話や職場の愚痴、どうでもいい恋愛の話をした。
あの頃の咲良は、まだ自分が何者になれるのかわかっていなかった。
席に着くと、窓ガラスに自分の顔が薄く映った。店内の照明は柔らかく、肌の粗を隠してくれる。咲良は無意識に角度を確認した。
「そういうところ、変わらないね」
声がして、咲良は振り向いた。
由衣が立っていた。
肩につくくらいの黒髪。薄いメイク。ベージュのトレンチコート。以前より少し痩せたように見えたが、雰囲気は変わっていない。柔らかいのに、どこか距離を置いている目。
「久しぶり」
咲良は立ち上がり、笑った。
「久しぶり。元気だった?」
「まあまあ。咲良は、元気そうだね」
「そう見える?」
「うん。画面では」
その一言で、空気が少し硬くなった。
二人は向かい合って座った。由衣はホットのカフェラテを、咲良はハーブティーを頼んだ。昔なら、二人とも甘いケーキを追加していた。咲良はメニューの写真を見ながら、それを言うか迷った。
言えば、懐かしい空気に戻れるかもしれない。
でも、戻れないことを確かめるだけかもしれない。
注文が届くまで、沈黙があった。
由衣はスマホをテーブルに置かなかった。鞄の中にしまったままだ。咲良はそれが気になった。昨日の灰色のアカウントが、頭から離れない。
《あなた、本人でしょ》
《本人しか知らないことを書くの?》
《先に傷つけてるつもりでしょ》
あの言葉は、由衣が書いたのだろうか。
咲良は由衣の顔を見た。昔より少し大人びた表情。笑っているようで、笑いきっていない口元。読み取ろうとすればするほど、わからなくなる。
「急にごめんね」
先に口を開いたのは由衣だった。
「ううん。私も、ずっと連絡しようと思ってた」
嘘だった。
由衣はそれを見抜いたように、少しだけ目を伏せた。
「咲良って、そういうこと今でも言うんだ」
「そういうことって?」
「言えば丸くなる言葉」
咲良はカップに視線を落とした。
由衣は責めているわけではない。淡々としている。ただ、その淡々とした声が、咲良の表面を薄く削っていく。
「……ごめん」
「謝らせたいわけじゃない」
「じゃあ、なんで会おうって言ったの?」
自分でも少し刺のある声だと思った。
由衣はしばらく黙ってから、鞄の中から小さな封筒を取り出した。
「これ、返そうと思って」
咲良は封筒を見た。中には、薄いピンクのカードが入っていた。見覚えがある。三年前、二人で美容部員を辞めるかどうか悩んでいた頃、咲良が由衣に渡した誕生日カードだった。
咲良はカードを開いた。
《由衣と一緒にいると、美容がもっと楽しくなる。いつか二人で何かできたらいいね》
丸みのある、自分の文字。
胸が少し詰まった。
「まだ持ってたの」
「捨てられなかった。でも、持ってるのもしんどくなった」
由衣は静かに言った。
「咲良が嫌いになったわけじゃないの。たぶん、嫌いになれたら楽だった。でも、近くにいると、自分がどんどん見えなくなった」
咲良はカードを指で撫でた。
昔、二人で何かをやろうと話していた。コスメレビューのアカウント。小さなイベント。美容で悩む人が気軽に話せる場所。夢と呼ぶには曖昧で、計画と呼ぶには幼いものだった。
けれど、咲良が一人で伸び始めてから、その話は自然に消えた。
消えたのではない。
咲良が、置いてきたのだ。
「由衣も、発信すればよかったじゃん」
言った瞬間、後悔した。
由衣の表情が少しだけ変わった。怒りではない。呆れに近い、深い疲れ。
「そういうところだよ」
「……ごめん」
「私もやったよ。何回も。でも、咲良みたいにはできなかった。咲良はすごいと思う。努力してたのも知ってる。でも、私がつらかったのは、咲良が伸びたことじゃない」
由衣はカップを両手で包んだ。
「咲良が、私の話を聞かなくなったこと」
咲良は何も言えなかった。
「一緒に動画を撮っても、咲良はコメント欄の自分だけを見てた。私が仕事で悩んで話しても、『でも由衣は聞き上手だから大丈夫だよ』って、きれいな言葉で終わらせた。私が本当に何に傷ついてるか、見ようとしなかった」
記憶が断片的に蘇る。
更衣室で泣きそうな顔をしていた由衣。
「私、向いてないのかな」と呟いた由衣。
それに対して咲良は、確かに言った。
「由衣は大丈夫だよ。優しいし、ちゃんと見てる人は見てるよ」
慰めたつもりだった。
でもそれは、由衣の痛みに触れないための言葉だったのかもしれない。
「咲良はさ、自分のことを見られるのは怖がるのに、人のことはちゃんと見ないよね」
由衣の声は震えていなかった。
だからこそ、深く刺さった。
咲良はカップの中のハーブティーを見つめた。薄い琥珀色の水面に、照明が滲んでいる。
「私、そんなにひどかった?」
ようやく出た声は、小さかった。
「ひどいっていうか、必死だった」
由衣は言った。
「咲良はずっと、咲良を守ることで精一杯だったんだと思う」
その言葉は、責め言葉ではなかった。
でも、咲良は責められるより苦しくなった。
必死だった。
そう言われると、否定できない。
咲良はずっと必死だった。きれいになることに。認められることに。選ばれることに。置いていかれないことに。
その必死さの中で、隣にいた由衣を透明にしてしまった。
「今日、会いたかったのはね」
由衣は少しだけ息を吸った。
「このカードを返して、ちゃんと終わらせたかったから」
「終わらせるって」
「咲良と友達だった自分を、いつまでも引きずるのをやめたい」
咲良は顔を上げた。
「友達だった、って言うんだ」
「今も友達だって言える?」
由衣の目が、まっすぐ咲良を見る。
咲良は答えられなかった。
友達。
その言葉は、思っていたより難しかった。
フォロワーならいる。仕事相手ならいる。好意的なコメントをくれる人もいる。会えば褒めてくれる人もいる。
でも、友達と呼べる人は、今の咲良に何人いるのだろう。
由衣は咲良の沈黙を責めなかった。ただ少し寂しそうに笑った。
「ほらね」
胸が痛んだ。
咲良は何か言わなければと思った。謝罪でも、弁解でも、引き止める言葉でも。けれど、どれも違う気がした。
そのとき、スマホが震えた。
テーブルの端に置いていた咲良のスマホ。画面が上を向いていた。通知の一部が、咲良にも由衣にも見える位置に表示された。
「サクラの裏側」
咲良は反射的にスマホを伏せた。
だが、遅かった。
由衣の視線が、一瞬だけ画面に落ちたのを咲良は見た。
空気が止まる。
由衣は何も言わなかった。けれど、その沈黙が何よりも大きかった。
「今の、仕事の通知」
咲良は言った。
自分でも下手な嘘だと思った。
由衣は小さく頷いた。
「そう」
ただ、それだけだった。
咲良の心臓は激しく打っていた。由衣は知っているのか。今の通知を見て何を思ったのか。そもそも、あの捨てアカウントは由衣なのか。
聞きたい。
でも、聞けない。
もし違ったら、最低だ。
もし当たっていたら、もっと怖い。
「咲良」
由衣が静かに呼んだ。
「なに」
「今の咲良、昔よりきれいだと思う」
予想外の言葉に、咲良は瞬いた。
「でも、昔より苦しそう」
由衣は椅子から立ち上がった。
「今日は来てくれてありがとう」
「待って」
咲良も立ち上がった。
引き止めたのに、続く言葉がなかった。
由衣は少し待ってくれた。けれど咲良が何も言えないとわかると、柔らかく首を振った。
「またね、とは言わないでおく」
その言い方が優しくて、残酷だった。
由衣が店を出ていく。ガラス扉の向こうで、トレンチコートの背中が人混みに紛れていく。咲良はしばらくその背中を見ていた。
席に戻ると、テーブルの上にカードが残っていた。
《由衣と一緒にいると、美容がもっと楽しくなる。いつか二人で何かできたらいいね》
咲良はカードを封筒に戻した。
スマホがまた震えた。
今度こそ、咲良は画面を開いた。
「サクラの裏側」に、例の捨てアカウントから返信が来ていた。
《友達にも嘘つくんだ》
血の気が引いた。
咲良は周囲を見回した。カフェの中には仕事帰りの客、学生らしき二人組、窓際で本を読む年配の女性。誰も咲良を見ていない。
でも、見られている。
今、この場所で。
今、この瞬間に。
咲良は急いで返信を打った。
《あなた、近くにいるの?》
既読はすぐについた。
返事は来ない。
咲良は立ち上がり、会計を済ませ、外に出た。駅前の人混みが視界に流れ込む。帰宅する人、待ち合わせをする人、イヤホンをつけて歩く人。その中に、咲良を見ている誰かがいるのかもしれない。
怖さより先に、怒りが湧いた。
誰。
何のために。
どこまで知っているの。
咲良は駅のトイレに駆け込み、個室に入った。鍵をかけると、ようやく膝から力が抜けた。
スマホを握る手が汗ばんでいる。
「サクラの裏側」の設定画面を開いた。パスワードを変えよう。今すぐ消すべきかもしれない。いや、消したら証拠隠滅みたいに見える。そもそも、消してもスクリーンショットを撮られていたら意味がない。
頭の中が混乱する。
とにかく、パスワードだけは変える。
そう思って設定を押した瞬間、画面に表示された文字を見て、咲良は固まった。
《再ログインしてください》
セッションが切れていた。
咲良はメールアドレスとパスワードを入力する。
エラー。
《パスワードが正しくありません》
打ち間違えたのかと思い、もう一度入力する。
エラー。
心臓が嫌な音を立てた。
パスワードリセットを試みる。登録したはずのメールアドレスを入力する。届いたメールを開こうとして、咲良はさらに凍りついた。
メールが届かない。
登録メールアドレスが変更されている。
咲良は個室の壁にもたれた。
嘘。
嘘でしょ。
もう一度、アプリを開く。
「サクラの裏側」は、咲良の手から離れていた。
その瞬間、新しい投稿通知が表示された。
《咲良が昔、友達を踏み台にして伸びた話、需要ある?》
咲良は息を飲んだ。
自分は投稿していない。
なのに、灰色のアイコンが、咲良の知らない言葉を吐き出している。
数秒後、さらに通知が増えた。
誰かが反応している。
拡散され始めている。
咲良は画面を見つめたまま、動けなかった。
自分で作った暗い部屋に、誰かが勝手に入っていた。
そこに捨ててきた言葉を拾い上げ、別の刃物に作り替えている。
スマホが震える。
今度は蓮からだった。
《今どこ? 裏アカの投稿、見た》
咲良は返信しようとして、指が動かなかった。
裏アカ。
蓮が、その言葉を使った。
もう、隠せない。
もう、自分で管理できない。
トイレの個室の中で、咲良は両手で口を覆った。声が漏れそうだった。泣きたいのか、叫びたいのか、自分でもわからなかった。
通知は止まらない。
本アカウントにもコメントが来始めている。
《裏アカって何ですか?》
《由衣さんって誰?》
《説明してください》
《咲良ちゃん、これ本当?》
咲良はスマホを胸に押し当てた。
自分を守るために作った場所が、自分を壊し始めていた。
そして、その場所の鍵はもう、咲良の手にはなかった。




