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第2話 先に傷つける

 翌朝、咲良はいつもより二時間早く目を覚ました。


 眠りが浅かった。夢の中でもスマホが震えていた気がする。目を開けた瞬間、胸の奥に嫌な重さが残っていて、咲良はしばらく天井を見つめた。


 部屋はまだ薄暗い。カーテンの隙間から、朝になる前の青白い光が差している。観葉植物の葉も、白い棚も、花瓶に挿した淡いピンクのガーベラも、すべて色を失って見えた。


 スマホは枕元に伏せてある。


 咲良はすぐには手を伸ばさなかった。


 昨日、眠る直前に見えた通知。

 「サクラの裏側」への返信。


《あなた、本人でしょ》


 たった八文字だった。

 それなのに、胸の内側を爪で引っかかれたように、何度も思い出してしまう。


 偶然かもしれない。

 ただの煽りかもしれない。

 根拠なんてないはずだ。


 咲良は自分にそう言い聞かせた。


 そもそも、あのアカウントには咲良だとわかる情報を載せていない。メールアドレスも別。電話番号も登録していない。投稿も、よくあるアンチコメントに見えるようにしている。文体だって本アカウントとは変えていた。


 大丈夫。


 そう思おうとして、咲良はようやくスマホを手に取った。


 ロック画面には、本アカウントの通知が並んでいる。いつも通りのコメント、いいね、保存通知。その中に混じって、灰色のアイコンからの通知が一つだけ残っていた。


 指先が冷たくなる。


 咲良は一度、スマホを置いた。

 それから、もう一度持ち上げた。


 逃げても消えるわけではない。


 アプリを開き、「サクラの裏側」に切り替える。昨夜の投稿の下に、例の返信がついていた。アカウント名は、英数字の羅列。アイコンは初期設定のまま。フォロワーも投稿もない、捨てアカウントだった。


《あなた、本人でしょ》


 咲良は画面を見つめたまま、呼吸を止めた。


 返信を消すことはできない。相手をブロックすることはできる。けれど、ブロックしたら逆に怪しまれる気がした。


 本人なら、反応する。

 本人じゃなければ、無視する。


 咲良はそう判断し、何もしなかった。


 ただ、指はずっと震えていた。


 洗面台の前に立つと、鏡の中の自分はひどい顔をしていた。目の下の影が濃い。唇に血色がない。頬の赤みも昨日より目立つ。


 咲良は顔をしかめた。


「こんなの、出せない」


 誰に向かって言ったのか、自分でもわからなかった。


 シートマスクを取り出す。冷蔵庫から出したばかりのマスクを顔に貼ると、肌に冷たさが広がった。少しだけ落ち着く。冷たいものは、感情の温度を下げてくれる。


 そのまま洗面台にもたれ、咲良は鏡の中の自分を見た。


 高校生の頃、咲良は鏡が嫌いだった。


 特別、目立っていじめられていたわけではない。けれど、クラスにはいつも“かわいい子”がいた。何もしなくても髪がさらさらで、体育のあとでも頬が自然に赤く、笑えば周りの空気が柔らかくなるような子。


 咲良は、その子たちの隣に立つ自分が嫌だった。


 写真を撮ると、自分だけ少し違って見えた。顔の余白が多い気がした。目が小さい気がした。笑い方が不自然に見えた。友達は「そんなことないよ」と言ったけれど、その言葉を信じられるほど咲良は素直ではなかった。


 大学生になってから、メイクを覚えた。


 初めてアイラインを引いた日、鏡の中の自分が少しだけ変わった。涙袋に影を入れると、目が大きく見えた。髪色を明るくすると、肌が白く見えた。リップを変えると、顔全体の印象が変わった。


 努力すれば、変われる。


 その事実は、咲良にとって救いだった。


 けれど同時に、呪いでもあった。


 努力すれば変われるなら、きれいじゃないのは努力が足りないからだ。

 もっと整えられるはず。

 もっと隠せるはず。

 もっと良くなれるはず。


 咲良は、どこまで変わっても、変わる前の自分を置き去りにできなかった。


 午前九時、蓮からメッセージが届いた。


《今日の打ち合わせ、十一時からで大丈夫?》


 咲良はすぐに返信した。


《大丈夫》


 送ってから、すぐに鏡を見た。

 大丈夫な顔ではなかった。


 打ち合わせはオンラインだった。画面越しとはいえ、蓮は咲良の変化に気づく。妙に目ざとい。照明を強め、カメラの補正を上げる。メイクはいつもより厚めにした。


 十一時ちょうど、ビデオ通話がつながった。


 画面の向こうの蓮は、白いシャツに黒いカーディガンを羽織っていた。背景は事務所の会議室。手元には資料がある。いつも通り、無駄のない顔をしている。


「おはよう」


「おはようございます」


 咲良は、仕事用の声で言った。


 蓮は一瞬だけ目を細めた。


「寝た?」


「寝たよ」


「何時間」


「……普通に」


「普通に、は数字じゃない」


 咲良は笑った。


「マネージャーって睡眠時間まで管理する仕事だっけ?」


「できれば管理したくない」


「じゃあ聞かないで」


 蓮はため息をついた。怒っているというより、困っている顔だった。


「昨日の投稿は反応いい。ブランド側も喜んでる。ただ、来週のライブ配信は少し内容を調整したい。最近、コメント欄に美容医療系の質問が増えてる」


 咲良の心臓が跳ねた。


「美容医療?」


「うん。咲良が取り上げるかどうかは別として、質問が来たときの返し方は決めておいたほうがいい」


 咲良は唇の内側を噛んだ。


「適当に流せばよくない?」


「流せる質問ならそれでいい。ただ、嘘に見える流し方はしないほうがいい」


 蓮の言葉は静かだった。

 静かだから、余計に刺さる。


「嘘ってなに」


「たとえば、何もしてませんって断言するとか」


「別に、そんなこと言わない」


「ならいい」


 咲良は画面の中の蓮を見た。彼は何かを知っているのだろうか。いや、知っているはずがない。美容医療を受けたことは事務所にも話していない。施術を受けたクリニックも、紹介ではなく自分で探したところだ。


 それでも、疑われているように感じた。


「蓮さんってさ」


「うん」


「私のこと、作り物だと思ってる?」


 言ってから、しまったと思った。


 蓮は少しだけ眉を動かした。


「急にどうした」


「別に。聞いてみただけ」


「作り物って、どういう意味で?」


「そのまま。見た目も、キャラも、言ってることも」


 蓮はすぐには答えなかった。

 その沈黙のあいだ、咲良は画面越しに自分の小さな映像を見た。強いライトに照らされた顔。きれいに整えた眉。いつも通りの咲良。


 蓮は言った。


「作ってるとは思う」


 胸が冷えた。


「でも、それが悪いとは思ってない」


 咲良は黙った。


「人前に出る仕事なら、誰でもある程度は作る。見せ方を整えるのも仕事だ。ただ、咲良は作った自分以外を全部だめだと思いすぎてる」


 画面の向こうで、蓮の視線がまっすぐこちらを向いた。


「そこが心配」


 咲良は笑おうとした。けれど口元だけが少し引きつった。


「心配されるほど弱くないよ」


「弱いって言ってない」


「同じでしょ」


「違う」


「違わないよ」


 声が、思ったより強く出た。


 咲良は視線を逸らした。胸の奥で、何かがざわざわしている。蓮は責めていない。わかっている。けれど、心配という言葉の中に、見下されているような気配を勝手に探してしまう。


「私がここまで来るのに、どれだけ頑張ったか知らないでしょ」


「知ってるつもりだよ」


「つもりでしょ」


 蓮は黙った。


 咲良は止まれなかった。


「元がいい人にはわかんないよ。何もしなくても選ばれる人には。ちょっとメイクして、ちょっと努力して、それで褒められる人には。こっちは、ずっと直してきたの。足りないところを探して、隠して、削って、足して、やっとここまで来たの」


 言いながら、自分でも誰に怒っているのかわからなくなっていた。


 蓮ではない。

 コメントを書いた人でもない。

 たぶん、昔の自分だった。


 蓮は低い声で言った。


「咲良」


「なに」


「俺は、咲良の努力を否定してない」


 その言葉に、咲良の喉が詰まった。


「ただ、その努力で咲良自身を殴るなって言ってる」


 咲良は、息を止めた。


 昨日の投稿が頭に浮かぶ。


《加工と美容医療で作った顔って感じ》


 自分で自分を殴った言葉。


 咲良は画面を見られなくなった。


「……打ち合わせ、続けよ」


 声を整えるのに失敗した。少し震えていた。


 蓮は何か言いたそうだったが、それ以上踏み込まなかった。資料を開き、来週の案件について説明を始めた。咲良は相槌を打ちながら、ほとんど内容が頭に入らなかった。


 通話が終わると、咲良は椅子の背にもたれた。


 部屋の中は静かだった。

 静かすぎて、自分の呼吸だけが大きく聞こえる。


 スマホを手に取り、「サクラの裏側」を開く。例の返信はまだ残っていた。


《あなた、本人でしょ》


 咲良は相手のプロフィールをもう一度確認した。投稿なし。フォローなし。フォロワーなし。何もない。空っぽのアカウント。


 なのに、その空っぽの相手に見られている気がした。


 咲良は返信欄を開いた。


《違いますけど》


 そこまで打って消す。


《本人なわけないじゃん》


 それも消す。


 反応したら負けだ。

 わかっている。


 でも、このまま放っておけば、相手はまた何か言ってくるかもしれない。

 ほかの人に広めるかもしれない。

 「咲良本人が自分を叩いている」と噂になったら、終わる。


 自分を守るために作った場所が、自分を壊す証拠になる。


 咲良は指先を唇に当てた。

 爪が少し欠けている。昨日、投稿を見ながら無意識に噛んだのだろう。ネイルサロンの予約を入れなければ。そんなことを考えて、すぐに馬鹿らしくなった。


 午後三時、由衣から久しぶりにメッセージが届いた。


《久しぶり。今度、少し会えない?》


 咲良は画面を見て、固まった。


 由衣。


 元同僚で、元友人。

 咲良がまだ美容部員として働いていた頃、いちばん近くにいた人。


 最後に会ったのは、半年前だった。


 あの頃、咲良のアカウントは急に伸び始めていた。ブランドのイベントに呼ばれ、雑誌の小さな企画に載り、事務所に所属することも決まった。由衣はそのたびに「すごいね」と笑ってくれた。


 けれど、咲良はその笑顔の奥を見なかった。


 いや、本当は見えていた。

 見えていたのに、見ないふりをした。


 由衣も美容が好きだった。コスメの知識も豊富で、接客も丁寧で、咲良よりずっと人の話を聞くのがうまかった。けれどSNSでは伸びなかった。咲良と一緒に動画に出ても、コメント欄で褒められるのはいつも咲良だった。


《隣の人、誰?》

《咲良ちゃん一人の動画が見たい》

《友達さんもかわいいけど、咲良ちゃんが強すぎる》


 最初は二人で笑っていた。


 でも、少しずつ由衣は動画に出なくなった。

 誘っても、「今日はいいや」と断るようになった。


 そして最後に会った日、由衣はカフェで言った。


「咲良って、私といるときもカメラ回ってるみたい」


 咲良は意味がわからないふりをした。


「どういうこと?」


「今の反応も、たぶん動画っぽい」


 由衣は笑っていなかった。


「私が何を言っても、咲良は自分がどう見えるかで返事してる。優しい咲良、頑張ってる咲良、傷ついてる咲良。全部、ちゃんと見せ方がある」


「そんな言い方しなくてもよくない?」


「ごめん。でも、疲れた」


 その日から、二人は会っていない。


 咲良は由衣からのメッセージを見つめた。

 今さら、何の用だろう。


 胸の奥がざわつく。


 まさか。


 咲良はすぐにその考えを打ち消した。由衣が、あの返信をしたとは限らない。そもそも「サクラの裏側」の存在を知っているはずがない。


 けれど、半年前。

 あのアカウントを作ったのは、由衣と会わなくなった直後だった。


 咲良は返信に迷った末、短く送った。


《いいよ。いつ?》


 既読はすぐについた。


《明日の夜は? 前に行ってた駅前のカフェで》


 懐かしい店名だった。二人で仕事帰りによく寄っていた場所だ。咲良がまだ、フォロワー数を一日に何十回も確認する前。由衣と新作リップを試して、互いの手の甲に色を並べ、くだらない話で笑っていた頃。


 咲良は少しだけ胸が痛くなった。


《わかった》


 送信してから、咲良はスマホを置いた。


 疑うなんて最低だ。

 そう思った。


 でも、疑わずにはいられなかった。


 夜になり、咲良は予定していたショート動画を投稿した。いつも通りの明るい声。いつも通りの肌。いつも通りの笑顔。


 コメント欄には、すぐに褒め言葉が並び始めた。


《この咲良ちゃん好き》

《今日のメイク真似したい》

《透明感えぐい》


 咲良はその言葉を眺めながら、なぜか少しも満たされなかった。


 それどころか、画面の中の自分が遠く見えた。


 この女は誰だろう。


 自分で作った顔。

 自分で作った声。

 自分で作った物語。


 そのどれもが、確かに咲良だった。

 でも、それだけが咲良ではないはずだった。


 それなのに、画面の外にいる自分を、咲良はどう扱えばいいのかわからない。


 深夜、咲良はまた「サクラの裏側」にログインした。


 例の返信には触れない。

 触れないまま、新しい投稿を作る。


《咲良って、昔から自分が主役じゃないと気が済まないタイプなんだろうな》


 打ってから、咲良は手を止めた。


 これは、誰の言葉だろう。


 自分が自分に向けている言葉なのか。

 由衣に言われた気がしている言葉なのか。

 それとも、本当は由衣に言われる前から、自分で知っていたことなのか。


 咲良は投稿ボタンを押せずにいた。


 そのとき、通知が来た。


 例の捨てアカウントからだった。


《本人じゃないなら、なんでそんなに本人しか知らないことを書くの?》


 心臓が、嫌な音を立てた。


 咲良は画面を握りしめた。


 相手は、まだ見ている。

 咲良の暗い部屋を、外から覗いている。


 指先が震える。

 怖い。

 腹が立つ。

 逃げたい。

 でも、画面から目が離せない。


 咲良は返信欄を開いた。


 今度は、消さなかった。


《あなた誰?》


 送信した瞬間、部屋の空気が変わった気がした。


 しばらく通知は来なかった。


 一分。

 三分。

 五分。


 咲良はスマホを置くこともできず、ただ画面を見つめていた。


 十分ほど経った頃、返信が届いた。


《先に傷つけてるつもりでしょ。でも、それ、あなたが一番傷ついてるだけだよ》


 咲良は息を吸うのを忘れた。


 その言葉は、蓮の言葉によく似ていた。


 努力で自分を殴るな。


 咲良は反射的に、相手のプロフィールを開いた。やはり何もない。何もわからない。けれど、画面の向こうの誰かは、咲良が見ないようにしてきた場所を正確に見つけている。


 咲良はスマホをベッドに投げた。


 投げたのに、すぐ拾った。


 怖い。

 でも、知りたい。


 この相手は誰なのか。

 なぜ、咲良だとわかったのか。

 そして、どこまで知っているのか。


 窓の外では、夜の街が静かに光っていた。何千、何万という部屋に明かりが灯っている。その一つひとつに誰かの生活がある。誰かの顔がある。誰かの秘密がある。


 咲良の秘密は、たった一つの灰色のアカウントに詰まっていた。


 誰にも見せないはずだった。

 誰にも届かないはずだった。


 けれどその夜、咲良は初めて思った。


 もしかしたら、自分はずっと、誰かに見つけてほしかったのかもしれない。


 そんな考えが浮かんだ瞬間、咲良は自分に腹が立った。


 見つけてほしかったなんて、甘えだ。

 助けてほしかったなんて、弱さだ。

 そんなものを認めたら、今まで積み上げてきた咲良が崩れてしまう。


 咲良はもう一度、返信欄を開いた。


《知ったようなこと言わないで》


 送信する。


 すぐに既読がついた。


 返事は来なかった。


 それが余計に苦しかった。


 その夜、咲良は眠れなかった。スマホの画面が消えても、胸の中ではずっと灰色のアイコンがこちらを見ていた。


 先に傷つければ、傷つかずに済むと思っていた。

 けれど本当は、誰よりも深く自分を傷つけていた。


 そんなこと、知りたくなかった。


 翌日、咲良は由衣に会う。


 その約束が、やけに重く胸に残っていた。

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