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第1話 きれいな私

咲良の朝は、鏡を見る前にスマホを見るところから始まる。


 目覚ましを止めるより先に、枕元のスマホを手探りでつかむ。片目だけ薄く開けて、通知欄を確認する。コメント、いいね、保存数、フォロワーの増減。寝起きの体温よりも、そちらの数字のほうが今日の咲良の調子を正確に教えてくれる。


 フォロワー、八万一千二百四十三人。


 昨日より、二十七人増えていた。


 咲良は小さく息を吐いた。たった二十七人。けれど、減っていない。それだけで、胸の奥に張りついていた薄い膜が少しだけ剥がれる。


 美容系インフルエンサーとして活動を始めて三年。最初は会社帰りにプチプラコスメを紹介するだけのアカウントだった。照明もなく、背景には洗濯物が映り込み、話し方もぎこちなかった。けれど、ある日投稿した「会社で泣いた日のメイク直し」が拡散され、そこから咲良の生活は少しずつ画面の中へ移っていった。


 今では企業案件もある。新作コスメの発表会に呼ばれ、ブランドから名前入りのリップが届き、街で声をかけられることもある。


「咲良さんですよね? いつも見てます」


 そう言われるたび、咲良は笑う。少し驚いた顔をして、ありがとうございます、と柔らかく返す。相手が期待している“咲良”を、ちゃんと差し出す。


 きれいで、感じがよくて、努力家で、少しだけ親しみやすい女。


 それが、画面の中の咲良だった。


 ベッドから起き上がり、カーテンを開ける。五月の光が白いレース越しに部屋へ流れ込む。観葉植物、韓国風の白い棚、淡いベージュのラグ、テーブルに置かれた花瓶。どれも、投稿に映り込んだときに生活感が出すぎないよう選んだものだ。


 部屋は、住む場所というより撮影用の背景に近い。


 洗面台の前に立つと、そこには画面の中より少し疲れた二十九歳の女がいた。昨夜遅くまで編集していたせいで、目の下に薄い影がある。頬には、数日前にできた小さな赤み。スマホの美肌補正なら一瞬で消えるものが、鏡の中ではやけに大きく見えた。


 咲良は顔を近づけ、肌の凹凸を確認する。


「……最悪」


 誰に聞かせるでもなく呟いてから、すぐに口を閉じた。


 こんな顔は、誰にも見せられない。


 いや、違う。こんな顔でも、きっと多くの人から見れば普通なのだろう。特別ひどいわけではない。けれど咲良には、許せなかった。自分が自分に課した基準から、少しでも外れることが怖かった。


 洗顔をして、スキンケアをして、冷蔵庫で冷やしていたシートマスクを貼る。そのあいだに今日の投稿予定を確認する。午前十一時に新作下地のレビュー、午後七時にショート動画、夜にはストーリーで質問返し。


 咲良の一日は、細かく切り分けられている。肌を整える時間。撮影する時間。編集する時間。コメントを返す時間。案件先に提出する文章を直す時間。そして、エゴサーチをしないように我慢する時間。


 けれど、その我慢はだいたい長く続かない。


 朝食代わりのプロテインを飲みながら、咲良は本アカウントを開いた。昨夜投稿したリップのレビューには、もう三百件を超えるコメントがついている。


《咲良ちゃんの唇になりたい》

《この色、絶対買います!》

《今日も透明感すごい》

《肌きれいすぎて見惚れる》


 咲良は画面をスクロールしながら、一つひとつの言葉を胸に入れていく。まるで足りない栄養を補うみたいに。


 けれど、百の褒め言葉の中に一つだけ違う色の言葉が混じっていると、咲良の指は必ずそこで止まった。


《最近、顔変わった?》


 たったそれだけだった。


 悪意があるのかどうかもわからない。何気ない感想かもしれない。むしろ、他の人なら読み飛ばせる程度の言葉だ。


 それなのに咲良の胸は、ぎゅっと縮んだ。


 顔変わった?


 整形した?


 加工しすぎ?


 実物と違う?


 そこまで書かれていない言葉まで、勝手に頭の中で増えていく。咲良はスマホを伏せた。プロテインの甘さが急に気持ち悪くなった。


 午前十時、マネージャーの蓮から電話がかかってきた。


「起きてる?」


「もちろん。もう撮影してる」


 嘘だった。まだメイクも終わっていない。


「今日、午後にブランド側から修正が入るかもしれない。昨日の動画、成分名のところだけ確認したいって」


「わかった。対応する」


「あと、昨日のコメント欄、少し荒れてた」


 咲良の手が止まった。


「荒れてたってほどじゃないでしょ」


「一部だけだ。でも、気にしすぎるなよ」


 蓮はいつもそう言う。気にしすぎるな。見るな。寝ろ。食べろ。外に出ろ。


 簡単に言わないでほしい、と咲良は思う。


 見ないでいられるなら、最初から見ていない。気にしないでいられるなら、こんなに苦しくなっていない。


「大丈夫。慣れてるから」


 咲良は明るく言った。


 電話の向こうで、蓮が少し黙った。その沈黙が、咲良は苦手だった。彼は咲良の言葉ではなく、言葉の下にあるものを見ようとする。


「咲良」


「なに?」


「本当にきついときは、ちゃんと言えよ」


 咲良は笑った。


「きつくないよ。仕事だし」


「仕事でも、人間がやってる」


「私、そんなに弱く見える?」


 少しだけ声が尖った。自分でもわかった。


 蓮は責めなかった。ただ静かに、「そういう意味じゃない」と言った。


「じゃあ、どういう意味?」


「……ちゃんと休めって意味」


「休んだら、数字落ちる」


「一日休んだくらいで落ちるなら、それは咲良の価値じゃなくて、アルゴリズムの機嫌だろ」


 咲良は返事をしなかった。


 蓮のそういうところが、腹立たしい。正しいことを、正しい顔で言う。けれど、正しい言葉が人を助けるとは限らない。少なくとも今の咲良には、少しも優しくなかった。


「撮影するから切るね」


「ああ。無理するなよ」


 通話を終えて、咲良はスマホをテーブルに置いた。


 無理をしなかったら、今の自分はどこにもいない。


 そう言い返したかった。


 咲良はメイクポーチを開き、下地を指に取った。赤みを消す。影を飛ばす。輪郭を整える。目元に光を足す。唇に血色を戻す。鏡の中の女が、少しずつ“咲良”に近づいていく。


 メイクは魔法だ、とフォロワーにはよく言う。


 けれど咲良にとって、それは魔法というより鎧だった。塗れば塗るほど安心する。隠せば隠すほど、ようやく人前に出られる気がする。


 午前十一時、咲良は窓際に三脚を立て、撮影を始めた。


「今日は、最近使って本当によかった下地を紹介します。これ、乾燥しにくいのに崩れ方がきれいで……」


 声のトーンを少し上げる。言葉の端を丸くする。表情は柔らかく。目線はレンズの少し上。商品の良さを伝えながら、自分の肌が一番きれいに見える角度を探す。


 撮影は、順調に進んだ。


 途中で何度か言い間違えたが、それも編集で切ればいい。光の入り方も悪くない。肌の赤みはコンシーラーと照明でほとんど消えている。


 咲良は撮り終えた動画を確認し、少しだけ安心した。


 画面の中の自分は、今日もちゃんと咲良だった。


 午後、ブランド側からの修正対応を終え、短い昼食をとる。サラダチキン、ゆで卵、オートミール。満腹になりすぎると顔がむくむ気がして、咲良はいつも腹八分目より少し手前で箸を置く。


 夕方、投稿した動画が伸び始めた。


 保存数がいい。コメントも悪くない。案件としては成功だろう。咲良は蓮にスクリーンショットを送り、「反応良さそう」とメッセージを打った。


 すぐに既読がついた。


《よかった。今日は早めに寝ろ》


 咲良はその文面を見て、鼻で笑った。


「お父さんか」


 けれど、本当は少し嬉しかった。


 蓮は、咲良が今よりフォロワー三千人程度だった頃から見てくれている。事務所に所属したばかりで、案件の受け方も断り方もわからなかった咲良に、彼は何度も言った。


「短期で数字を取るより、長く続けられる形を作れ」


 当時の咲良には、その意味がよくわからなかった。数字が伸びているときに走らない理由がわからなかった。だから無理もした。睡眠を削り、食事を削り、自分の弱さを削った。


 その結果、咲良は八万人の人に見られる女になった。


 でも、八万人に見られるということは、八万人に判断されるということでもあった。


 夜八時。質問返しを終えたあと、咲良はまたエゴサーチをしていた。


 自分の名前を検索窓に入れる。

 咲良、コスメ。咲良、整形。咲良、加工。咲良、実物。


 見たくない言葉ほど、指が勝手に押してしまう。


 匿名の投稿がいくつか出てきた。


《咲良って最近案件ばっかりじゃない?》

《昔のほうが好きだった》

《肌きれいって言われてるけど、ライト強すぎ》

《実物見た人いる?》


 咲良は呼吸を浅くしたまま読み続けた。


 傷つく。

 傷つくのに、やめられない。


 誰かが自分について話している。自分の知らない場所で、自分の価値が勝手に決められている。そう思うと、見ないことのほうが怖かった。


 ふと、半年前の夜を思い出す。


 あの日も咲良は、同じように検索していた。そして、たった一つの投稿を見つけた。


《咲良って、なんか全部作り物っぽい》


 その言葉は、なぜか深く刺さった。


 きれいじゃない、と言われたわけではない。嫌い、と言われたわけでもない。なのに、自分の奥にある一番見られたくない部分を、細い針で突かれたような気がした。


 全部作り物。


 その通りだと思った。


 肌も、顔も、部屋も、話し方も、笑顔も、言葉も。咲良は自分で自分を作ってきた。必死に、丁寧に、隙間なく。


 でも、作り物の何が悪いのだろう。


 生まれつききれいな人だけが、人前に出ていいのか。何もしなくても愛される人だけが、自信を持っていいのか。違う。違うはずだ。だから咲良は努力した。お金も時間も使った。研究して、試して、失敗して、また直した。


 それでも、誰かの一言で全部が崩れそうになる。


 咲良はその夜、初めて別のアカウントを作った。


 名前は、「サクラの裏側」。


 アイコンは灰色。プロフィールには何も書かなかった。


 最初の投稿は、短かった。


《咲良って加工しすぎ》


 投稿ボタンを押した瞬間、手が震えた。


 自分で自分を殴ったような気がした。けれど、同時に妙な安心もあった。


 ほら、言われる前に言えた。


 誰かに気づかれる前に、自分で言えた。


 そこから、咲良は少しずつそのアカウントに言葉を増やしていった。


《実物は普通そう》

《おすすめしてるコスメ、本当に使ってるのかな》

《自信ありそうに見えて、承認欲求すごそう》

《昔の写真、全然違うよね》


 どれも、自分が一番恐れている言葉だった。


 他人に言われたら立ち直れない言葉を、先に自分で書く。そうすれば、いざ誰かに言われても「知ってる」と思える。傷つかないわけではない。でも、初めて刺されるよりはましだった。


 咲良はその行為が異常だと、どこかでわかっていた。


 けれど、やめられなかった。


 そのアカウントは、咲良にとってゴミ箱だった。表では言えない不安、嫉妬、恐怖、自己嫌悪。そういうものを捨てる場所。誰にも見られない暗い部屋。


 フォロワーは二十三人しかいない。反応もほとんどない。だから大丈夫だと思っていた。


 その夜も、咲良は「サクラの裏側」にログインした。


 本アカウントでは、今日の動画に賞賛のコメントが並んでいる。けれど咲良の頭に残っているのは、「顔変わった?」の一言だけだった。


 投稿欄に文字を打つ。


《咲良、最近ほんと顔変わった。加工と美容医療で作った顔って感じ》


 そこまで打って、指が止まった。


 美容医療。


 その言葉を入れるかどうか迷った。実際、咲良は過去に目元の施術を受けたことがある。輪郭を整えるための施術も受けた。隠しているつもりはなかったが、公表もしていない。


 言えば、きっと誰かは離れる。

 言わなければ、いつか暴かれるかもしれない。


 咲良は数秒だけ画面を見つめ、それから投稿ボタンを押した。


 胸の奥が、じんと痛んだ。


 その痛みを確認して、咲良は少し安心する。


 まだ大丈夫。

 私は、自分で自分を管理できている。


 そう思った。


 けれど、そのとき咲良は気づいていなかった。


 暗い部屋に捨てているつもりだった言葉が、少しずつ腐り、形を変え、いつか自分の手には負えないものになることに。


 スマホを充電器につなぎ、ベッドに入る。部屋の明かりを消すと、天井に街の光が薄く揺れた。


 咲良は目を閉じる。


 今日もきれいだった。

 今日も褒められた。

 今日も増えた。

 だから大丈夫。


 何度も自分に言い聞かせる。


 眠りに落ちる直前、スマホが一度だけ震えた。


 咲良は目を開けなかった。どうせ本アカウントの通知だと思った。


 けれど、画面に表示されていたのは、本アカウントではなかった。


「サクラの裏側」に、初めて知らない誰かから返信がついていた。


《あなた、本人でしょ》

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