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第10話 私を始める

灰色のアカウントが消えたのは、それから三日後の朝だった。


 目覚めてすぐ、咲良はいつもの癖でスマホに手を伸ばした。画面を見る前に、一度だけ深く息を吸う。通知を開く。コメント、メッセージ、事務所からの連絡。その中に、蓮からの短いメッセージがあった。


《アカウント、停止された》


 咲良はベッドの上でしばらく固まった。


 すぐに該当ページを開く。

 そこにはもう、灰色のアイコンも、咲良の悪口も、盗まれた写真も、未編集の動画もなかった。


《このアカウントは表示できません》


 たった一文。


 自分を半年間閉じ込めてきた暗い部屋は、あまりにもあっけなく画面から消えていた。


 けれど、咲良の中に残ったものまで消えたわけではない。


 晒された言葉。

 傷つけた人たち。

 自分で自分を叩き続けていた時間。

 そのすべてが、なかったことになるわけではなかった。


 咲良はスマホを置き、洗面台へ向かった。


 鏡の中には、寝起きの顔がある。髪は乱れていて、目元はむくんでいて、肌にはまだ小さな赤みが残っている。


 前なら、すぐに顔をしかめていた。

 今日は、少しだけ長く見た。


「……おはよう」


 自分に向かって言うと、気恥ずかしくて笑ってしまった。


 好きにはなれない。

 でも、嫌うためだけに見る顔でもない。


 その変化は、とても小さかった。けれど咲良にとっては、大きすぎるくらいだった。


 午前十時、事務所で説明を受けた。


 黒川美緒は、最初の確認では関与を否定し続けていた。けれど、弁護士を通じて端末の流通経路や未編集素材の保有状況を示されると、最終的に「一部素材を第三者に提供した」ことを認めた。


 ただし、不正ログインそのものについては曖昧なままだった。


 黒川の説明では、咲良の古いタブレットを業者経由で入手した知人から相談を受け、そこに残っていたデータの一部を確認したという。灰色のアカウントを直接操作したのはその知人だと主張した。


 蓮はその説明を聞きながら、眉一つ動かさなかった。


「逃げ道を残してきましたね」


 会議室で、彼は静かに言った。


 代表の三島が頷く。


「完全に本人が操作したとまでは、現時点では言い切れない。ただ、素材提供と拡散への関与は追及できる。こちらとしては、削除、謝罪、今後の接触禁止、損害の協議で進める」


 咲良はテーブルの上の資料を見つめた。


 そこには、灰色のアカウントの投稿履歴、黒川との過去の契約、リサイクルショップの取引記録、未編集動画の保有者に関するメモが並んでいた。


 自分の痛みが、証拠資料として整理されている。


 その光景は奇妙だった。

 けれど、必要なことでもあった。


 三島が咲良を見た。


「桜井さん、今後についてだけど」


「はい」


「しばらく案件は難しい。少なくとも、美容医療やスキンケア関連は慎重に判断する必要がある。離れた企業もある」


「はい」


 咲良は、思ったより落ち着いて返事ができた。


「ただ、動画を見た企業から、継続の意向も来ている。急いで復帰させるつもりはないけれど、完全に終わったわけではない」


 完全に終わったわけではない。


 以前の咲良なら、その言葉に縋ったかもしれない。よかった、まだ戻れる、と。

 でも今は、少し違った。


 戻りたいのか。

 どこに戻りたいのか。


 咲良には、まだわからなかった。


「少し休みたいです」


 咲良は言った。


 三島が目を上げる。


「投稿を、ですか」


「はい。全部やめるわけではないです。でも、今までと同じペースでは戻りたくありません」


 言ってから、咲良は蓮のほうを見た。


 蓮は何も言わなかった。

 ただ、咲良が自分で言い終えるのを待っている。


「私は、美容が嫌いになったわけじゃありません。メイクで救われたこともあります。変われたことも、嬉しかった。だから、それを全部嘘にはしたくないです」


 咲良はゆっくり言葉を選んだ。


「でも、誰かに見せるためだけの美容に戻るのは、今は怖いです。ちゃんと、自分が何を話したいのか考えたいです」


 三島はしばらく咲良を見ていた。


「わかりました。事務所としても、その方向で調整します」


 会議が終わったあと、蓮と二人で事務所を出た。


 外はよく晴れていた。五月の光がビルのガラスに反射して、少しまぶしい。咲良は思わず目を細めた。


「よく言ったな」


 蓮が言った。


「蓮さんが言わせたんじゃないの」


「俺は黙ってただけ」


「それが一番怖いときある」


 咲良が言うと、蓮は少し笑った。


 駅までの道を、二人で歩く。以前なら、咲良は必ず周囲の視線を気にしていた。誰かが見ているのではないか。写真を撮られるのではないか。変な顔をしていないか。


 今も気にならないわけではない。


 けれど、気になりながら歩くことはできた。


「蓮さん」


「うん」


「今回のことで、マネージャー変わる可能性ある?」


 蓮は横を見た。


「急に何だ」


「迷惑かけたから」


「それは事務所が決めることだな」


「蓮さんは?」


 蓮はすぐには答えなかった。


 信号が赤に変わり、二人は横断歩道の前で立ち止まる。車が通り過ぎる音が、少しの沈黙を埋めた。


「俺は、続けるつもりでいる」


 咲良は、胸の奥が少し熱くなるのを感じた。


「仕事だから?」


「仕事だから始まった」


 蓮は信号の向こうを見たまま言った。


「でも、仕事だけなら、あの日の夜に帰ってた」


 咲良は何も言えなかった。


 青信号に変わる。


 二人は歩き出した。


 その言葉を、恋愛のように受け取ることもできた。

 胸が少し揺れたのも事実だった。


 けれど咲良は、すぐに名前をつけなかった。


 今の自分は、誰かに救われる物語に飛びつきたくなる。

 蓮を、自分を救ってくれた人にしてしまいたくなる。


 でもそれは、また相手を自分の物語の役にしてしまうことかもしれない。


「ありがとう」


 咲良は言った。


 それ以上は、まだ言わなかった。


 蓮も、それ以上を求めなかった。


 数日後、由衣と会った。


 場所は、前と同じカフェではなかった。由衣が指定したのは、少し離れた静かな喫茶店だった。小さな店で、窓際には季節の花が飾られている。


 由衣は先に来ていた。


 咲良が席に着くと、由衣は短く言った。


「久しぶり、ではないね」


「うん」


 二人は少し笑った。


 以前より、沈黙が怖くなかった。


「アカウント、止まったんだね」


「うん。まだ全部終わったわけじゃないけど」


「そっか」


 由衣はカップを見つめた。


「動画、見たよ」


「ありがとう」


「正直、複雑だった。名前を出されなかったのはよかった。でも、あの頃のことを思い出して、しんどくもなった」


「うん」


 咲良は、そこで言い訳をしなかった。


「私、咲良のことを許せるかはまだわからない」


「うん」


「でも、私もずっと、咲良にわかってほしかったんだと思う。どれだけ嫌だったか。どれだけ寂しかったか」


 由衣は顔を上げた。


「それを今、少しだけ言えたから、もう咲良のことばかり考えなくて済む気がする」


 咲良は胸が詰まった。


「ごめん」


「うん」


 由衣は、その謝罪を受け取るように頷いた。


「でも、私は私の場所に戻るね」


「うん」


「友達に戻るかどうかは、今は決めない」


「うん」


 以前なら、咲良は不安になっていた。

 今ここで「また会おう」と言ってほしかった。

 関係に名前をつけて、安心したかった。


 でも今は、その余白を少しだけ受け止められた。


「由衣が決めていい」


 咲良が言うと、由衣は少し驚いた顔をした。


「咲良、そういうこと言えるようになったんだ」


「練習中」


「そっか」


 由衣は小さく笑った。


 その笑顔は、昔のものとは違った。

 けれど、嘘ではなかった。


 別れ際、由衣は言った。


「美容、嫌いにならないでね」


 咲良は目を瞬いた。


「咲良と一緒にいた頃、美容が楽しかったのも本当だから」


 そう言って、由衣は先に店を出た。


 咲良はしばらく席に残り、冷めた紅茶を飲んだ。


 美容が楽しかった。


 その言葉が、胸の中に静かに残った。


 一か月後、咲良は久しぶりに投稿した。


 フォロワーは、半分近く減っていた。

 案件の予定も、ほとんど白紙になったままだった。

 以前のように、投稿すればすぐに賞賛が並ぶわけでもない。


 それでも、アカウントを開く指は、前より少しだけ落ち着いていた。


 新しい投稿のタイトルは、何度も迷った末にこうした。


《加工しない金曜日》


 動画ではなく、文章と写真だけにした。


 写真は、洗面台の前で撮ったものだった。自然光の中、寝起きの顔に近い咲良が写っている。肌には赤みがある。目元にも少し影がある。髪も完全には整っていない。


 文章には、こう書いた。


《今日は、何かを紹介する投稿ではありません。

金曜日だけ、加工しない顔と、加工しない気持ちを少しだけ置いてみようと思います。

きれいになることを諦めたわけではありません。

でも、きれいじゃない日の自分を、すぐに罰するのをやめる練習をしたいです。

美容は、誰かに勝つための武器にもなるけれど、自分を雑に扱わないための習慣にもなると思っています。

私はまだ、その使い方を練習しています。》


 投稿ボタンを押したあと、咲良はスマホを伏せた。


 通知は鳴った。

 以前ほどではない。

 でも、確かに誰かが見ている。


 一時間後にコメントを見ると、批判もあった。


《結局また弱さ売り?》

《加工しないって言いながら角度は選んでる》

《もう信用してない》


 咲良は胸が痛んだ。

 痛んだけれど、全部を飲み込もうとはしなかった。


 その下に、別のコメントもあった。


《私も今日、自分の顔にひどいこと言わない練習します》

《きれいになりたい気持ちと、今の自分を嫌いたくない気持ち、両方ある》

《毎週じゃなくても、続けてほしいです》

《無理しないでください。でも、読めてよかった》


 咲良はスマホを置いた。


 救われた、とは思わなかった。

 でも、届いたと思った。


 少しだけ。


 夜、母から野菜スープの作り方が送られてきた。

 真奈からは、短く《投稿見ました》とだけ来た。

 由衣からは何も来なかった。


 それでよかった。


 誰かからの反応で、自分の一日を全部決めない。

 その練習も、必要だった。


 蓮からは、いつものように業務連絡が来た。


《来週、今後の方針を話そう。あと、今日の投稿は咲良の言葉だった》


 咲良はその文面を見て、しばらく笑っていた。


《ありがとう。今日は早く寝ます》


 送ると、すぐに返信が来た。


《それが一番いい》


 本当にお父さんみたいだと思った。

 でも、もうそれだけではないことも、少しだけわかっていた。


 咲良はスマホをテーブルに置き、窓を開けた。


 夜風が部屋に入ってくる。白い棚、淡いラグ、観葉植物、撮影用の三脚。以前と同じ部屋なのに、少しだけ違って見える。


 ここは、撮影用の背景だけではない。

 咲良が暮らす部屋だった。


 洗面台の鏡の前に立つ。


 映っている顔は、まだ好きとは言えない。

 昔の顔も、今の顔も、全部を受け入れたとは言えない。


 それでも、咲良はもう、その顔に向かってすぐ悪口を言わなかった。


 しばらく見つめてから、ゆっくり笑う。


 完璧な笑顔ではない。

 画面用の角度でもない。

 少し歪んでいて、少し疲れていて、でも自分に向けた笑顔だった。


「おやすみ、咲良」


 声に出すと、胸の奥が静かになった。


 誰かに憧れられるための咲良ではなく。

 誰かに嫌われないための咲良でもなく。

 自分を先に傷つけて守る咲良でもなく。


 失敗して、傷つけて、傷ついて、それでも言葉を選び直そうとする一人の人間として。


 咲良はようやく、自分の人生の画面を閉じずに見られるようになっていた。


 灰色のアカウントはもうない。


 けれど、心の中のアンチは、きっとすぐには消えない。

 明日もまた、鏡の前で嫌な言葉が浮かぶかもしれない。

 数字に振り回される日もある。

 誰かの何気ない一言で、眠れなくなる夜もある。


 それでも、その声を本物だと決めつけなくていい。


 咲良は明かりを消した。


 暗くなった部屋の中で、スマホは静かに伏せられている。

 通知は、あとで見ればいい。


 今夜は、自分の呼吸を先に聞く。


 それはとても小さな再出発だった。

 けれど咲良にとっては、初めて自分を始める夜だった。

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