第2話 門の向こう
王都の南門には、朝のうちから人が集まり並んでいた。
樽を山のように積んだ荷車、荷物を括りつけた驢馬、その後ろには籠を背負った女がいる。どこから迷い込んだのか、白い山羊が一頭、車輪の間へ鼻先を突っ込んでは引き戻されていた。
エリクスとルークも、その列の後についた。
春とはいえ、朝の空気にはまだ冬の冷たさが残っている。馬の吐く息が白く、踏み固められた土の上には昨夜の雨が浅く溜まっていた。
エリクスが門楼を見上げると、それは王宮から眺めていた時よりもずっと大きく見えた。
左右に張り出した石塔の間に、暗い口のような通路が開いている。上げられた鉄格子の先にある木の扉は既に開いている。荷車が一台ずつ順にその下へ入り、しばらくすると向こう側の光の中へと消えていく。
あそこへ、自分も行く。
――光の中へ。
前の荷車が進むと、ようやく、二人の番になった。
門の下へ入ると、空気が変わった。
蹄の音が反響し、頭上では鎖が小さく軋む。壁際には槍を持った衛兵が立っていて、奥の小部屋からは、油と革、それに朝から焚かれていた炭の匂いがした。
エリクスにとっては、ここは王家の馬車で通り過ぎる場所だ。
こんなに暗かったのか、とエリクスは思った。
前を行くルークの背が先に光の中へ抜ける。
エリクスもその後を追う。
門を出た途端、視界が大きくひらけた。
近くには馬屋や鍛冶場、旅人宿が並んでいる。その先には畑が続き、生垣の向こうでは早くも土を起こしている人の姿があった。
王都は、門を一つ抜けただけでは終わらないようだ。
しばらくは家々が道沿いに続いた。
荷車の轍が重なる街道を南へ進み、昼近くになる頃、ようやく煙突の数が減っていった。
二頭の馬は水の溜まった轍を避けて、畑の境に積まれた石壁沿いに進む。
遠くで鐘が鳴ったが、それは王都の鐘の音とは違い、風に流されてすぐ聞こえなくなった。
旅人というのは道中もっと話をするのかと思っていたが、ルークは自分からは口を開かない。エリクスもわざわざ自分から何か言うのも変だと思い、二人の間には馬蹄の音だけが聞こえていた。
途中、街道脇で石を運ぶ男たちがいた。ぬかるみに砕いた石を撒き、その上から木槌で叩いている。通り過ぎる馬の脚まで泥が跳ねた。
エリクスは振り返らず、頭の中で地図を思い出していた。ここから一番近い石切り場はどこだろうかと。
そして、少し前に机の上で見た「春季街道補修」という文字が、頭の隅をよぎる。
光の中というのは、思っていたより泥の匂いがするものなのだな、とエリクスは思った。
* * * * *
「殿……ではなくて、エリオ、今日はこの辺で休みましょう」
初めに決めた偽名がまだ呼び慣れないらしく、ルークはほんの少しだけ間を置いた。
夕方になる前に、ルークは街道沿いの集落の方へ馬を向けた。まだ次の領までたどりついていない。
「まだ早くないか?」
「でも、このまま進んでも、次の町の門が閉まるまでには着けませんよ。門の前で野宿するよりいいでしょう?」
いや、その野宿もしてみたかったのだが……。と、エリクスは頭の中でだけこっそりと呟いた。
エリクスは門を閉められた経験がない。どんな時間であろうと王家の馬車が通れば、門は開かれたのだから。
ルークは家並みを見ながら進み、やがて一軒の建物の前で馬を止めた。
二階建ての大きな木造家屋で、太い柱の間を白い漆喰で埋めた壁は、ところどころ煤けている。
軒下には木の看板が吊られ、風が吹くたび鎖が小さく鳴っていた。
建物の横には広い厩があり、数頭の馬が顔を出している。
「この宿でどうでしょう?」
その看板には、『王宮亭』という名が彫られていた。その綴りの下に、なんとなく宮廷を簡単にしたような建物の絵が描かれている。まぁ、実際の宮廷とは大違いではあるのだが。
「……随分と皮肉だな」
エリクスの言葉にルークは少し笑った。
「名前を見て決めたのか?」
ルークは馬から降りながら、今度は真剣な顔で答える。
「いえ、厩が広いし、馬も詰め込まれてませんから。ここなら大丈夫でしょう。それに、王都周辺の町ではよくある名前ですよ。場所によって『二本松亭』とか『金の麦穂亭』とか『赤鹿亭』とか」
宿の名前でその土地のことが垣間見えるとは知らなかった。
ルークは宿の少年に馬を預け、鞍を緩めて脚の様子を伝えた。水と飼葉を頼み、鞍袋だけを外す。そして、ルークは少年に少しお金を渡していた。
エリクスはそれを横目で見ながら、自分の馬の首を撫でた。
『王宮亭』と言えども、王宮にあらず。
二階建ての古い建物は、壁の下半分は石、上は木組みになっている。横手の厩から干草の匂いが流れ、軒下には濡れた外套が何枚も吊るされていた。
二人が中へ入ると、そこは食堂のようで、室内はすでに暖まっていた。
大きな炉には薪がくべられ、炎の近くに濡れた靴が並んでいる。長卓の上には木椀と陶器の杯が置かれ、商人らしい男、農夫、旅装の女、荷運び人らしい若者が、互いに知り合いなのかそうでないのかも分からないまま肩を並べていた。
宮廷と比べてずっと狭い食堂の中を、言葉と笑いと食べ物の匂いが満たしていた。
席を探すより先に、宿の女が空いた場所を指した。
エリクスとルークの二人はそこへ並んで座る。
「ところで、どうやってお母上様とリアナ様を言いくるめたのですか?」
食堂のざわめきに紛れるように、ルークがそっと聞いてきた。『王妃』とも『侍女長』とも言わないようにしているようだ。
「お二人には『花嫁探し』をしてくる、と言ってきた」
それを聞いたルークは、口ではなく目で「本気ですか?」と言っていた。
「それに、父上は何もおっしゃらなかった」
しばらくして、豆と肉を煮込んだもの、それに葡萄酒が運ばれてきた。黒いパンは厚く切られ、表面だけが少し硬い。煮込みの湯気には、玉葱と脂の匂いが混じっていた。
「珍しいね、黒髪さん。ヘーンブルグの人?」
「うん、帰るところなんです」
給仕の若い女性に話しかけられ、ルークが自然と答える。
周りが騒がしくて聞き取りにくいが、エリクスはルークが話していることに耳を傾けた。
「やっぱり。王家の人じゃなきゃ、黒髪なんてあっちの人くらいだものね。本当に黒髪ばっかりなの?」
「うん、そうですよ」
エリクスは黙って、向かいの男がしているようにパンを煮込みへ浸した。どうやら目の前の黒髪が、その『王家の人間』だとは思いもしないらしい。
「王家と同じ黒髪ばっかりなんて、すごいところなのね」
「びっくりするくらい、すごい田舎だけどね」
田舎なのか。それも、びっくりするくらいすごい? いったいどんな田舎なのだ?
ルークの言葉を頭の中で繰り返しながら、エリクスは黙って匙を動かした。
味は濃かった。
けれど一日中馬に揺られた身体には、その塩気が不思議と身に染みる。
いつの間に来たのか、最初の給仕の隣にもう一人若い女が立っていた。
「幽霊屋敷があるんでしょ?」
「ああ、領主の屋敷がそう呼ばれてるよ」
二人とも、なかなか仕事へ戻らない。
そこでようやくエリクスは気がついた。
ルークの母――ラシェル夫人が『王都一の美女』と言われていたことを。
見慣れるということは、何かを見落とす危険性がある。そう気づいて、エリクスは隣に座る自分の騎士の顔を改めてじろじろと見つめた。
「……何ですか?」
「いや、君は――」
その声をかき消すように、炉の近くで笑い声が上がり、一人の男が酔った調子で何か歌い始めた。
誰も相手にしていないが、男は気にせず歌っている。
春になったら南へ行こう、と歌っていた。
冬に閉ざされた道が開けば、荷を積み、靴を履き直し、川を越えよう。――そんな歌だ。
二番に入ったところで、向かいの卓から低い男の声が重なった。
誰かが木の杯で卓を叩き始めるが、拍子は少しずれている。いつの間にか手拍子や口笛も混じり出す。
しかし、歌詞が途中で二つに分かれ、どちらが正しいのか分からなくなった男たちが顔を見合わせると、食堂中に笑いが広がった。
いつの間にか、ルークも歌っていた。
パンをちぎり、煮込みを食べながら、周りに混じって口ずさんでいる。その顔は、王宮で見る時よりずっと幼く見えた。
宮廷音楽なら知っているが、この歌をエリクスは知らない。
歌が終わっても、誰も拍手などしなかった。
歌い出した男はそのまま杯を傾け、女たちはまた別の話を始めた。炉では薪が崩れ、火の粉が小さく舞った。
しばらくして、別の歌が始まった。
「さっきの歌を知ってるのか?」
エリクスが聞くと、ルークはようやくこちらを向いた。
「はい。でも、僕が知っている歌詞ともちょっと違いましたけど」
それだけ言うと、ルークはまた歌の方へ耳を向けた。
杯の底には、少し濁った葡萄酒が残っていた。いつも宮廷で口にするモンタルヴァンとは、ずいぶん違う味がした。舌に少しざらつく。けれど、豆と肉の煮込みには不思議とこちらの方が合う気がした。
窓の外は、もう真っ暗だ。
* * * * *
翌朝、二人が宿を出たときには霧が出ていたが、昼頃にはその霧もすっきりと晴れた。
丘を越え、麦畑の多い土地を抜け、林の間を進む。道端の祠には萎れた花が置かれ、浅い川では子どもが葉っぱを流して遊んでいる。
やはり道中はあまり言葉を交わすことはしなかった。
その夜にも宿をもう一度とり、馬に餌をやり、二人も食べて眠った。
三日目になると、すれ違う人々の髪に黒が増えたことにエリクスは気がついた。
王都なら、それだけで視線を集める髪だが、ここでは誰も振り返らない。
やがて道が緩やかに上り、また下る。
街道を外れ、巡礼者の通るような古道に入る。
小川をまたいだ先に、かすれた道標が立っていた。
『ヘーンブルグ領、アレー村方面』
ルークが顔を上げてエリクスの方を向いた。
「殿下、もう少しですよ」
「殿下、ではなく、エリオ、だ」
「……精進します」
二頭の馬は、そのまま春の古道を進んでいった。
次の丘を越えれば、アレー村だった。




