第1話 一月の暇
王太子エリクスとその騎士ルークが初めて会ったのは、エリクスが四歳、ルークが二歳の時だった。
だけど、二人とも「その日のことを覚えている」とは相手に告げていない。
十四年ぶりに再会してから一年が過ぎた今も、である。
ルークが一月の暇を願い出たのは、春の議会が終わって三日目のことだった。
午後の執務を終えたエリクスは、自分の書斎で、ヴァロニア各地から届いた報告書に目を通していた。
雪解けで崩れた街道が二か所、春の長雨に備えて補修の必要な堤防が一か所。どれも急ぎではないが、放置してよい話でもない。
エリクスはその問題をどうすべきか考えようとした。だが、手元にあるのは既にずいぶんと整えられた書類で、後は自分が名前を書くだけとなっていた。
その書類のどこにも不正の痕跡はなさそうだ。ということは、十九歳の王太子に失敗をさせないようにしたのか、はたまた手間をかけさせまいとして、優秀な臣下たちが先回りしてくれたのだろう。
しかし、エリクスは最後の一枚へ目を通したところで書類を机へ置き、すぐに署名はしなかった。
その様子を見て、仕事は終わりと判断したのだろう。机の向こうに立つルークが改まった声で言った。
「殿下。一月ほど、お暇をいただけないでしょうか」
二つ年下の護衛騎士、ルーク・ノクシアルは、黒髪に深い蒼の瞳を持つ十七歳の青年だった。王宮ではいつも礼儀正しいが、今日は普段よりも肩に力が入っている。
エリクス自身も、黒髪に青い瞳をしている。まるで親戚のような主従だが、血は繋がっていないので顔立ちも雰囲気もまるで違う。
しかし、王都では、二人が並んでいるだけでも十分に人目を引いた。
エリクスはさっきからずっと口を閉ざしたままで、すぐに返事をしなかった。ルークの蒼い目をちらりと見てから、顎に手を当てた。
一月も?
聞き間違いとして処理するには、いささか長すぎる。
「一月も?」
口にしてから、「も」は余計だった気がした。
だが、目の前のルークは特に気にしていない様子で話しを続けた。
「実は、田舎にいる父方の祖母が倒れたと連絡がありまして……」
「祖母が倒れた? ノクシアル侯の母君か。容体は悪いのか?」
「いえ、命に関わるほどではないと聞いていますが、話によると祭りの準備中に無理をしたようでして。熱を出して、足も痛めているようなんです。ただ……」
ルークは一度言葉を止めて視線を少し落とし、またエリクスに戻した。
「殿下もご存じの通り、父上はすぐには王都を離れられません。なので、僕に祖母の様子を見てくるようにと」
ルークの父、ホープ・ノクシアルは現在、ギリアン王の側近として複数の案件を抱えていた。王都を一月も空けるのは難しいだろう。
なるほど、事情は理解できた。
エリクスには騎士の『家族の見舞い』を妨げる理由もない。
「分かった。許可しよう」
「ありがとうございます」
そう言って、ルークが少し肩の力を抜いて頭を下げた。
「春祭りが終わる頃までには戻るつもりです」
「春祭り? どこの春祭りだ?」
「アレー村です。ヘーンブルグの。そこで、毎年春に成人を祝う祭りがあるんですよ。祖母はその準備を手伝っていたようでして」
「成人を祝う祭りとは、どのような祭りだ?」
「僕も詳しくは知らないんです。参加できるのは成人(十六歳以上)だけですし、僕が最後にアレー村へ行ったのは、十二歳の時ですから」
ルークが十二歳というとエリクスは十四歳で、まだルークと再会していなかった頃だ。
「君は、今までも何度もアレー村へ行っているのか?」
「はい。僕は生まれてから一歳過ぎまで、その村で暮らしていましたから。九歳の時には、父上が聖地へ向かう間、祖母の家に一月ほど滞在していたこともあります。その後は、何回か父上と一緒に行きました」
「初耳だな」
その言葉にルークが少し眉をしかめた。
「昨年、殿下に提出した書類の中に、僕の出生証明の写しと、改姓の記録と、出都記録もあったはずですけど……」
「そうだったかな?」
正直、エリクスはルークを護衛騎士として選んだのに、提出された書面などほとんど見ていなかった。
昨年のことだが、すでに一度、長い旅を共にしたことがあり、その時にルークの腕も人柄も自分の目で十分に確かめた。それに、父王が長年ホープを信頼してきたことも知っている。
だから、出生地の記録まで読み込む必要があるとは思わなかったのだ。
ルークの顔に『この人、書類を見てないな』と浮かんでいるように感じられるのは少々不本意ではあるが、実際見なかったのだから仕方がない。
「アレー村は、ヘーンブルグ領だったな」
「はい。領都クランからさらに南西の村です」
「ヘーンブルグは黒髪の住民ばかりで、長く中央から取り残されてきた地域だ」
「ええ。たしかにあそこには黒髪しかいません」
王都では、まるで逆だった。
今、この都に暮らしている黒髪は、王ギリアン、ホープ・ノクシアル、そしてその息子であるエリクスとルーク――わずか四人しかいない。
この国で、長く黒髪が忌避されてきた歴史の名残だ。
エリクスは王太子であるぶん守られている。しかし同じ黒髪で、その傍に立つルークはどうしても悪目立ちした。
「海と森に挟まれ、巡礼路が村を通っている」
「よくご存じですね」
「私は国内の地理はほぼ把握している」
なんなら、エリクスはヴァロニアだけでなく、母の祖国シーランドの地理もほぼ完璧に頭に入っている。
昨年、エリクスはルークを伴い、生まれて初めて王都を出た。向かった先は、母の祖国である隣国シーランド王国だった。地図では知っていた土地を自分の目で見る感動を知って以来、エリクスは地図を見ると、その向こう側を確かめたくなるようになっていた。
エリクスは立ち上がり、壁に掛けられた王国地図の前へ移った。
王都ランスからヘーンブルグ領までは、馬で数日。そこからアレー村へ入るには、いまだに整備の行き届かない街道を通らなければならない。
「一月というのは、往復の行程も含めてか?」
「はい。僕一人で行きますので、祖母の容体が良ければ、もっと早く戻れると思います」
一人で行く?
途中で馬を乗り換えながら、時には野宿もするつもりなのか。旅慣れたルークならやりそうだ。
もっと早くということは、二十日か、あるいは半月。
半月ならば、王太子付きの騎士が不在でも大きな支障はない。いや、本当はルーク以外にも騎士はいるので一月だろうとなんら問題はない。エリクスに課せられた公務の予定も、しばらくは王宮内のものが中心だった。
つまり、護衛騎士のルークがいなかろうと、何も問題はなかった。
騎士の暇に問題なし、だ。
「うん。私も行こう」
そう言われてルークは返事をしなかった。
どうやら、想定外の言葉だったらしい。
エリクスは地図から視線を外すと、ルークの方に向き直った。
「聞こえなかったのか?」
「いえ、聞こえてました。ですから、殿下の言葉の意味を……考えていました」
「私も、君と、一緒に、行く」
「えっと……殿下が、僕の、祖母の見舞いに、同行なさるのですか?」
『僕の、』のところでルークは自分を指差した。
「君の祖母の見舞いだけではない」
エリクスは、すでに頭の中で整えていた理由を順番に並べた。
「ヘーンブルグ領は、父上の即位後に大きく状況が変わった土地だ。王家の黒髪への見方が、現地でどのように受け止められているか確認する価値がある」
「はい……、でも」
「春祭りも視察できる。地方の慣習を知ることは、将来の統治に必要だ」
「それも、間違いではありません……。でも」
「巡礼路の状態も見ておきたい。聖地への往来が増えれば、アレー村にも影響が出るだろう」
「……なるほど。でも」
「それに、王宮の外で護衛を務めることは、君の訓練にもなる」
「…………」
ルークは少し目を伏せて黙っていた。
エリクスが理由を四つ並べ終えるのを、律儀に待っていたらしい。
「……エリクス殿下」
「何だい?」
「一緒に行きたいと、普通におっしゃってくださってもいいんですよ?」
エリクスは腕を組んで眉を寄せた。
「私が君に同行する理由は、いま説明したとおりだ」
「僕が一月いなくなるからじゃなくてですか?」
「それだけが理由ではない」
エリクスは表情を変えず、声も穏やかに答えた。
「……てことは、やっぱり、一応理由の一つではあるのですね?」
「君は、自分を高く評価しすぎではないかな」
「殿下が、僕に同行する理由をわざわざ四つも考えてくださったので、少しくらいは高く評価してもよいのかと思ったんですけど」
ルークの蒼い目が、わずかに笑っている。
この一年で、ルークはこういう顔をするようになった。
命令には従うが、エリクスが自分ではあまり認めたくないところへ、時々平然と入り込んでくる。
王太子のエリクスは、それを不敬だと咎めることもできたが、そうしなかった。
主従の礼を崩すわけではなく、その隙間から時折のぞくルーク自身の気安さを、エリクスは嫌いではなかった。
「まだ五つ目もある」
「まだあるんですか?」
そう言いながらも、面倒がらずに話に付き合ってくれるところも嫌いではない。
「王太子が地方を訪れる際、信頼できる案内人が必要になる。君は現地をよく知っている」
「十二歳の記憶ですけど……それでもいけますか?」
「何も知らない者よりはましだろう?」
何かに気づいたようで、ルークの蒼い瞳が見開かれる。
「殿下、まさか、お忍びで行かれるつもりなんじゃ……」
「王太子の行幸にすれば、村は見舞いどころではなくなるだろう?」
「まぁ、それはそうですけど……」
ルークは困ったように息を吐いた。
十七歳のくせに、エリクスの無茶を諫める姿だけは妙に年季が入っている。
まだ再会して一年なのに、まるで昔からの友のように。
「陛下がお許しになるでしょうか?」
「父上には、私から話す」
「僕の父には?」
「君から話せ」
「母上には?」
「なぜラシェル夫人の許可が必要なのだ?」
「あと、王妃様とリアナ侍女長もですよ。あのお三方が、僕を殿下と二人で地方へ行かせると知れば、陛下よりそちらの三人を説得する方が難しいと思います」
確かに、それは否定できないなと、エリクスは腕を組んで考える。
ラシェル夫人は、息子のルークを大切にしている。そしてエリクスも幼い頃から可愛がられてきたので、二人で旅へ出ると聞けば、喜ぶより先に大量の荷物を用意し始めかねない……。
少し考えてから、エリクスは机へ戻った。
「出発はいつだ?」
「五日後の予定です」
「二日後にしよう。祖母の見舞いなら、早い方がよい」
エリクスを見るルークの視線は何か言いたそうだったが、結局何も言わず、口元をわずかに緩めた。
「かしこまりました、殿下」
深く一礼し、書斎を出ていこうとする。
「ルーク」
呼び止めると、彼は扉の前で振り返った。
「はい」
「祖母君は、どのような方だ?」
ルークは少し意外そうな顔をしたあと、穏やかに笑った。
「どういう人かは、会えばすぐに分かりますよ」
「今知りたいのだが」
「おそらく殿下が想像しているより、ずっと普通の人です」
そう言い残して、ルークは部屋を出ていった。
扉が閉じたあと、エリクスはしばらくその言葉を考えた。
「普通? 普通の祖母……か」
普通の祖母がどのようなものか、王太子であるエリクスには想像がつかなかった。




