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王太子殿下の花嫁探し ~という名目の、騎士と、のんびり二人旅~  作者: 藤井 紫


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3/3

第3話 普通の祖母

 丘を越えると、目の前には牧草地が広がっていた。

 エリクスは手綱を引き、馬の歩みを少しだけ緩めた。


 緩やかな斜面に畑と牧草地が広がっていて、その間に細い道がある。低い石垣と生垣が見えるところもあるが、ほとんどが草に紛れて埋もれている。


 家は隣り合うことなく、畑や納屋のそばに一軒一軒散らばっていた。


 どこからが村なのか、よく分からない。

 ――不思議な光景……いや、多分これが、びっくりするほどの田舎なのだ。


 思わず「わぁ」と声が出そうになったが堪えた。


 遠くには小さな教会があり、その脇には小さな鐘楼も見える。右手の丘では、大きな風車の羽根が春の風を受けてゆっくりと回っていた。


 その向こうに、きっと海があるのだろう。

 春風にも、草と湿った土の匂いに、どこか塩の匂いが混じっているような気がする。


「ここがアレーか」

「はい。あの風車、見覚えがあります」


 ルークが丘を見上げる。

 返事はいつもと変わらなかったが、その視線はしばらくの間、ゆっくりと回る風車を見つめていた。


 エリクスもそちらを見る。王国地図で、アレー村の位置は何度も確認してきた。海と森に挟まれ、古い巡礼路が通り、周囲には牧草地と畑がある。けれど地図の記号には、風車がどの丘に建ち、教会の鐘楼がどのくらい低いのかまでは描かれていない。


 自分の髪を揺らす風が、あの大きな風車を回していると思うと不思議な気持ちになる。


 道を下り始めて間もなく、今度はルークが左手を見て「あれ?」とつぶやいた。

 独り言だったのかもしれないが、エリクスは問いかけてしまった。


「どうした?」


 独り言なら余計な反応をしてしまったか。そう思いながら、ルークの見ている方向にエリクスも顔を向ける。


「あそこには、前は何もなかったと思ったんですけど……」


 石垣の向こうに、白い壁の家が建っている。周囲の建物より壁も屋根も新しく、まだ長い年月を風雨にさらされていないことが一目で分かる。

 煙突からは細い煙が上っている。


「人が住んでいるようだな」


 ルークはしばらく眺めていたが、エリクスの言葉に軽く頷いた。


「まあ、最後に来たのは五年前ですから。そりゃ変わりますよね」


 ルークの言っていた通り、五年前の案内人にとっては、ここは知っている場所なのに、知らないものが混ざっているようだ。


 エリクスこそ、王都で生まれ、王都で育ち、しかも王宮の中で十九年間暮らしてきた。五年ぶりに戻った故郷で、何もなかった場所が誰かの家になっているという経験はしたことがない。


 だから何も言わず、ルークと並んで坂を下りた。だが、それは間違いだったと、エリクスは後で気づくことになった。




 村の中へ入るにつれ、野良仕事をする人の姿が少しずつ増えていった。それでも、王都の門に集まる人数よりも少ない。エリクスはずっと人数を数えていた。


 宿でルークの言っていた通り、確かに、す(・)ご(・)い(・)田(・)舎(・)だ。


 畑では男が鋤を使って土を耕し、その近くで女が採った春野菜を籠へ入れる。柵の向こうには羊が散らばり、まだ冬毛のままの身体を寄せ合って草を食んでいた。


 羊の方が多いな。

 エリクスは気付いた時点で、羊の数を数えるのは止めた。

 

 そして、ここは、皆、黒い髪だ。


 王都では、黒髪の人間を見かけること自体がほとんどない。なので、村中の人が黒髪だなんて、本当にそんなことがあるのかと正直疑っていた。しかし、書物や報告にはそう書かれていたし、ホープ・ノクシアルから直接話を聞いたこともある。


 それが、本当だった。


 まだ見かけた人間の数は少ない。それでも、黒髪ばかりを目の当たりにする。ここでは、籠を抱えている女性も、畑の端で座っている男も、羊を追っている少年も黒髪だ。


 二人とすれ違った農夫は、馬上のエリクスとルークをちらりと見ただけで、振り返りもせずにそのまま行ってしまった。


 その背中をエリクスが目で追っていると、隣から呼ばれた。


「エリオ?」


 ルークは偽名を口にするとき、まだ少し呼ぶのにためらっている気がするが、まぁいいだろう。


「ああ、行こう」


 王都を出てから、二人ともこの旅のための名前や立場にまだ馴染みきれていない。


 エリクスは王太子ではなく『エリオ』。

 ルークはその護衛騎士ではなく、祖母を見舞いに帰る一人の青年。


 ルークとは、十四年ぶりに再会してまだ一年。主従になってからも、一年だ。互いの呼び方ひとつさえ、完全には身体に馴染んでいない。




 村の中心へ近づいたところで、道端に立っていた年配の女がこちらを見た。籠いっぱいのハーブを抱えたまま、目を細めると馬上のルークの顔を見上げた。


「あれ? あんた、もしかしてホープ坊やのところの子じゃない?」


 ルークもその女を見返した。ほんの一瞬、真顔になったが、すぐに人懐こい笑顔になった。


「ルークです」


 その名を聞いた女の顔が一気に明るくなった。


「おかえり。まあ~、大きくなって。ホープ坊やは元気?」

「はい、元気ですよ。王都で仕事をしています」

「そう。たまには帰ってきなさいって伝えておいて」


「……伝えておきます」

 ルークは笑って頭を下げた。


 女はハーブの籠を抱えて歩いていった。

 その背が遠ざかってから、エリクスは隣を見た。


「知っている人だったのか?」

「すごい田舎なんで、みんな家族みたいなんですよ」


 ルークは軽く笑った。

 だがその笑い方は、先ほど女に向けていた愛想のよい笑顔とは少し違う。


「あのホープ卿が……『ホープ坊や』なのか」


 エリクスがこそっと言うと、今度はルークは吹き出した。


「そうみたいですね。王都じゃ侯爵だの陛下の側近だの言われてるのに、ここでは坊やです」


 王都で「ノクシアル侯の息子」と呼ばれる時とは違う顔だった。

 けれど今の顔は、それだけではないようにも思えた。

 ルークの祖母の名は、アンジェ・ダーク。


 分からないものを、分かったことにする必要もない。エリクスは何も言わないまま、馬を進めた。




*   *   *   *   *




「ルーク、村から出ていないか?」


 ルークの記憶を頼りに進んでいるうちに、家の数が次第に減っていった。

 そして、気づけば道の両側には畑と羊柵しかない。


 ルークもようやく馬を止め、後ろを振り返った。


「多分、さっきの白い家のところで、曲がるところを間違えたようです」


 二人は村の端まで行ってしまった。


「君は現地をよく知っていると言ったはずだが」

「十二歳の記憶で大丈夫ですかって、ちゃんと聞きました」

「それでは、五つ目の理由は早くも怪しくなったな」

「まだ四つ残ってます……」


 日は傾きはじめ、二人と二頭の馬影が長く伸びてきた。

 元の道を引き返す途中、ぽつんと一軒建つ家の前に若い女性がいた。


「すみません」

 エリクスは馬から降りると女性に声を掛けた。ルークもその後ろで馬を降りる。


 羊毛の入った籠を抱えていた女がエリクスを見た。まだ、少女に見えなくもないが、落ち着いている。


「アンジェ・ダークさんのお宅を探しているのですが」

「アンジェさんの家ならここですけど……」


 と、すぐ目の前の家を指差した。石造りの小さな家の脇に薪が積まれていた。

 女は、村人ではないエリクスを警戒し始めた。


「アンジェさんに、何か用ですか?」

 女はエリクスとその後ろに立つルークを順に見た。


 いったんエリクスへ戻りかけた視線が、もう一度ルークへ向いた。


「……え? もしかして、ルーク?」


 ルークも女を見る。


「あれ? ……ルシー姉さん?!」


「姉さん?」

 確かルークには妹がいるが、姉はいなかったはず……と思い出しながら、エリクスは呟いた。


 ルシーは二十二、三歳くらいだろうか。黒髪を後ろでまとめ、まだ厚手の仕事着を着ている。袖や肩には羊毛らしい白い毛が付いていた。


「ほんとにルーク? え、こんなに大きかった? むかし、井戸の水を全部ひっくり返してアンジェさんに叱られてた、あのルーク?」


 ルークの笑顔が固まった。


「ええと……、王都から来た……同僚が一緒なんで、余計なこと言わないでくれない?」


 エリクスは思わず周りを見る。


 同僚……? あ、私のことか。


 ルシーがあははと声を立てて笑った。ルークも笑ってはいるが、目だけが明らかに「もう言わないでくれ」と訴えていた。


「父さんの代わりにお見舞いに帰って来たんだけど」

「アンジェさん、熱はもう下がってる。足はまだ痛むみたいだけど、歩かせなければ大丈夫だと思う」


 その言葉を聞いた瞬間、ルークの肩から少し力が抜けた。


「よかった。もしかして、ずっと見に来てくれてたの?」


「ずっとじゃないわ。仕事の途中にちょっと寄ってるだけ。さっき水を汲んでおいたけど、午前中はユーリさんが来たみたい。近所の人も顔を出してるから、今のところ一人にはしてない」


「ありがとう。王都じゃ、どのくらい悪いのかまでは分からなかったから」


 ルシーはそこで、初めてエリクスへ目を向けた。


「こちらが同僚さん?」


 エリクスは軽く頭を下げた。


「エリオです。王都からルークと一緒に来ました」

「まぁ、遠いところわざわざ。こんな何もないとこまで」


 ルシーは二人を見比べ、それからまたおかしそうに笑った。


「二人とも青い目だから、ルークの親戚かと思った」


「違います」

 ルークの返事が妙に早かった。


「同僚っていうより、仲良しのお友達?」


 エリクスはルークを見る。

 ルークもこちらを見た。


 『友人』という言葉を自分たちに当てはめたことはなかった。


「……王都からここまで一緒に来られるくらいには」


 結局、ルークがそんな曖昧な答えをした。


「それ、仲がいいって言うんじゃないの? こんな田舎に一緒に来てくれるんだから。お友達には感謝しなさいよ」


 あははとルークは笑った。


「でも良かった。五年前は『王都には友達なんかいない』って言ってたじゃない」

「ルシー姉さん。それは言わなくていいから……」

「同僚さん、ありがとうございます。ルークと仲良くしてくれて」


 横からルークの視線を感じる。きっと余計なことを言うなと言いたいのだろう。


 同僚ではないし、友人と言い切るのも、何か違う。けれど、否定する理由も思いつかず、エリクスはルシーに頷いた。


 ルシーは特に追及もせず、持っていた籠を抱え直した。


「じゃあ私はもう帰るね。ルークが来たこと、うちの父にも伝えとく」

「うん。明日おじさんにも挨拶に行くよ」


 ルシーは笑いながら牧場の方へ歩いていった。

 少し離れたところでは羊が数頭まとまりなく草を食んでいて、ルシーが短く声を掛けると、慣れたようにその後についていく。


 その背中を見送りながら、エリクスは言った。


「君にも、子どもの時代があったんだな」

「……何を当たり前のことを言ってるんですか」


 王の側近のノクシアル侯の嫡男で、王家と『同じ黒髪』の騎士。

 昨年、自分とシーランドへ行った護衛。

 剣が使えて、馬に乗れて、旅にも自分より慣れている。


 それから――。


「よく考えると、私は子どもの頃の君についてはほとんど知らない」


 思ったままを口にすると、ルークも少し意外そうな顔をした。


「僕だって、エリオの子どもの頃なんてほとんど知りませんよ」


 そう言って、ルークは祖母の家の戸を叩く。


 エリクスはその横顔を見た。



 ――自分は覚えている。

 初めて会った時、四歳だったから。二歳のルークが、王宮の大きな犬を怖がってホープ・ノクシアルにしがみついていたことも。


 あの犬は訓練された犬なので、命令されない限り絶対に人には噛みつかないのに。あの時そう思っていたことも覚えている。




「おばあちゃん」


 戸を開けたルークが最初にそう呼んだ。


 ――『おばあちゃん』?


 王宮で「父上」「母上」「殿下」と呼ぶルークばかり見てきたせいか、「おばあちゃん」という言葉が妙に、なんというか、……平民っぽい。


 炉の近くに置かれた椅子から、小柄な老女が振り向いた。グレーの髪は後ろでひとつに結ばれている。膝には厚い毛織物を掛け、片足を低い台に載せていた。


「まぁあ! ルーク」


 アンジェの顔がほころんだ。


「まぁ、わざわざ来てくれたの?」

「来たよ。具合はどう?」


 ルークはすぐそばまで行き、しゃがんで祖母の顔を覗き込んだ。


「熱が出たって聞いたけど。足を痛めたんでしょ?」

「熱はもう下がったわ。足もほんのちょっと捻っただけよ」


「でも、歩けないって聞いたけど」

「歩けないんじゃなくて、歩くと痛いの」


 ルークの眉間に薄く皺が寄る。

 アンジェは自分の怪我のことなど関係ないといった様子でルークの顔をじっと見つめ、「うふふ」と嬉しそうに笑った。


「あなた、ホープに似てきたわね」

「そうかな?」

「もっとよく顔を見せてちょうだい」


 アンジェはルークの頬へ手を伸ばした。


「こんなに大きくなって。最後に来た時は、まだ私とそんなに変わらなかったのに」


 エリクスは入口の近くに立ったまま、二人を眺めていた。


 出発前にルークは、祖母を「普通の人」だと言った。

 これが『普通の祖母』というものなのだろうか。普通の祖母は、孫の顔を見たがる。ルークはホープ卿よりもラシェル夫人似で有名なのだが、祖母にとって孫と言うものは自分の息子に似て見えるものなのだろうか。


 ようやくアンジェがエリクスに気づいた。


「あら、ごめんなさい。お客様を立たせたままで」


 立ち上がろうとしたので、エリクスは一歩前へ出た。


「どうぞ、そのままで。突然お邪魔して申し訳ありません。エリオと申します」


 アンジェはエリクスをしばらく眺めた。


「まあ。ルークのお友達?」

「違うよ。この人は騎士団の、同僚の人」


 ルークの嘘がさっきより若干巧妙になった気がした。

 この老女はホープ卿の母なので、ラシェル夫人のこともよく知っている人だ。あの二人が結婚するまで、ラシェル夫人が王妃の専属侍女だったことも恐らく知っているはず。ここでこそ余計なことを言ってはいけない……。

 エリクスはゆっくりと騎士団の敬礼をしてみせた。


「まぁ、ご苦労様です。遠いところを大変だったでしょう。王都からなら馬で七日くらいかかるんでしょう?」

「馬車の場合はね。僕らは馬で来たから三日くらいだよ」


 そう、ルークが村で迷わなければ、昼前には到着していたはずだ。


「それなら疲れたでしょう。何か食べる? パンならユーリが朝に持ってきてくれたし、さっきルシーがチーズを届けてくれたわ」


「おばあちゃん、立たなくていいよ。僕がやる」


 アンジェが本当に立ち上がろうとしたため、ルークは半ば諦めた顔で部屋の隅へ向かった。


 ルークがここに最後に来たのは十二歳で、今は十七歳。

 九歳の時に、この家で一月ほど暮らしていたと言っていた。


 なのにルークは「おばあちゃん、水差しはどこ?」とか「カップがないよ」と棚をあちこち探し、ようやく簡単な食事を整えた。


「エリオ、そっちを持ってもらっていいですか」

「これか?」


 ルークがテーブルの片側を持ち上げたので、エリクスも反対側へ手を掛ける。二人でテーブルを炉の近くまで寄せた。

 ルークはエリクスに椅子を譲ると、自分は適当な木箱に座る。


 そして、アンジェは少し困ったように笑いながら、春祭りの準備中に、教会の入り口の段差を踏み外したのだと話した。


「今年は春祭りの準備する人が少なくてね」


「でも、おばあちゃんが倒れたら余計に人手が減るでしょ。そういうの、手伝ってるんじゃなくて仕事増やしてるって言うんだよ」

「だからね、手紙には私の面倒をみてほしいじゃなくて、春祭りの準備を手伝ってほしいって書いてもらったんだけどねぇ。おかしい話ねぇ」


 ルークの手が止まった。


「……え、そうだったの? 父上からは、足を痛めて熱を出したって聞いただけなんだけど」

「そうよ。私が字が書けたら良かったんだけどねぇ。今は女の子も字を習ってるって言うから、マノンに頼んだの」


 エリクスはちらりとルークを見た。

 ルーク自身も意外だったらしく、アンジェの顔をじっと見返していた。



 しばらく話しているうちに、村のどこかで鐘が鳴る。


 畑や牧草地から人が戻る時刻なのだろう。外を通る足音や、遠くから羊を追う声が聞こえてきた。


 アンジェが窓の外を見て言った。


「暗くなる前に、ユーリのところへ行った方がいいわ」

「僕はここに泊まるよ」


 ルークは当然のように答えた。


「だけど、ユーリの宿なら馬も置けるし、ご飯も出るでしょ。二人ともそっちへ泊まりなさい。私のことなら皆が見に来てくれるから、心配しなくても大丈夫よ。それよりも、私の代わりにお祭りの準備を手伝ってほしいの」


 ルークは窓の外をちらりと見た。


 一月の暇を得てここまで来た理由を考えれば、祖母と同じ家に泊まりたいと思う気持ちは当然だ。


 なのにルークは、


「……分かった。明日の朝また来るから」


と頷いた。


 自分がいなければ、ルークは今夜ここへ泊まったのだろう。




*   *   *   *   *




 アンジェの家を出る頃には、日が西へ傾いていた。


 二人は馬に乗らず、手綱を引いて歩いた。

 しばらくして、エリクスは隣を見た。


「君はおばあさんのことを普通の人だと言っていたが」

「普通でしょう?」


「普通の祖母が全員ああなのかは分からない。一人しか知らないのだから、結論を出すには早い。だが」


 ルークは微かに首を傾ける。


「母上に、笑い方が似ていた気はする」

「畏れ多い……。それは普通ではありません」

 ルークの声は呆れたような声だった。


 エリクスはもう一つ付け加えた。


「それに、この村に来てから、君があれほど人に馴れ馴れしく話すのも初めて見た」


 ルークの歩みがほんの少し遅くなる。


「……そうですか?」

「私には、あんな話し方はしない」

「当たり前でしょう。殿下にあんな言い方したら、普通に不敬ですよ」

「エリオだ」


「あっ」

 ルークが周囲を見る。


 近くには誰もいなかった。


「……すみません。まだ慣れなくて。でも、エリオは自分の名前を呼ぶ必要がないから、ずるいですよ、それ」


 ルークが笑った。


 王宮でも、ルークはよく笑う。冗談も言う。

 けれど、ルシーを相手にしていた時の方が返事が早く、声も大きかった。


 去年、自分はルークを騎士に選んだ。

 書類を読み込んだからではなく、一緒に旅をして、剣の腕を見た。判断も見た。人柄も、自分なりに見たつもりだった。


 けれど、その旅は二週間ほど。


 それから一年。


 考えてみれば、長い人生のうちではそれだけしか知らない。



 アンジェに教えられたとおりに行くと、道の先に大きな建物が見えてきた。

 今度は迷いなく辿り着いたのは、村の他の家より一回り大きな二階建ての家だった。


 低い石垣に囲まれた敷地は広く、少し傾いた古い木の門がある。建物の横には厩が付け足され、門から玄関までの空間には荷馬車でも十分入れそうだった。


 古い家だが、街道で泊まった宿よりよほど手入れされている。


「ここが君の伯父上の宿か」

「はい」

「田舎の村の宿にしては大きいな」

「僕が住んでいた頃は、ここまで大きくなかったらしいです。なんか五年前より大きくなってる気もするし……また増築したのかな?」


 最後は独り言のように言うと、ルークは門の前で足を止め、家を見上げた。


「君が、住んでいた?」

「はい。父上と母上が結婚したあとに住んでいた家です」

「ノクシアル侯夫妻と? ここに?」

「はい」


 エリクスも改めて家を見る。


「一歳を過ぎる頃までですけどね。さすがに何も覚えてません」


 ルークは古い門へ手を掛けた。

 そのまま、ふと何かを思い出したように振り向く。


「僕が生まれたのも、ここですよ」

「ここで?」


「村の産婆さんが来て、母がこの家で産んだそうです。だから僕より、たぶんこの家とか、村の人の方が、赤ん坊の頃の僕をよく知ってるんじゃないですかね」


 古い蝶番が軋む。

 ルークが門を押し開け、先に敷地へ入っていった。


「まあ、どうぞ。僕の生まれた家へ――って、もう僕の家じゃないですけど」


 エリクスはもう一度、目の前の宿を見上げた。少し驚いたが、多分顔には出なかっただろう。


 ――今夜、自分たちは『ルークの生まれた家』に泊まるらしい。

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