6話
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事件から十日ほどの間、和也はできるだけニュースやSNSを見ないようにして過ごしていた。それでも、コンビニの雑誌コーナーや、電車の中吊り広告、同僚たちの世間話の端々から、事件が依然として世間を騒がせ続けていることは嫌でも伝わってきた。会社では、誰も面と向かって事件のことには触れなかったが、休憩室に入ると、それまで交わされていた会話がふっと止むことが、何度かあった。事件から三日後には、悠人の身柄が検察に送られたという短いニュースが流れた。実名は伏せられたままだったが、和也にはもう、それが誰のことを指しているのか、疑いようがなかった。
その間、和也は二度ほど、拘置所に面会の申し入れをしていた。一度目は「取り調べの都合上、まだ難しい」と断られ、二度目も似たような返事だった。それでも三度目に申し込んだとき、ようやく担当者の口調が変わった。
面会の許可が下りたという連絡が来たのは、そんな十日ほどが経った、平日の昼下がりだった。
「ご家族の方であれば、短時間ですが、面会が可能になりました」
電話口の事務的な声に、和也は「はい」とだけ答えた。それから拘置所までの道のりを、どんな顔で悠人に会えばいいのか、結局一度も答えを出せないまま過ごした。
受付で手続きを済ませ、狭い待合室で名前を呼ばれるのを待つ間、和也の手のひらにはずっと汗がにじんでいた。何を話すべきか、何度も頭の中でシミュレーションしてみたが、そのどれもが、いざとなれば意味をなさない気がした。
案内された面会室は、思っていたよりも小さかった。パイプ椅子と、色あせたアクリル板だけが置かれた、飾り気のない部屋だった。ドアが開き、職員に付き添われて悠人が入ってくる。アクリル板の向こうに座らされたその姿を見た瞬間、和也は一瞬、言葉を失った。
痩せたわけでも、憔悴しているわけでもなかった。むしろ、記憶の中の悠人よりも、ずっと落ち着いた顔つきをしていた。
ふいに、もっと昔の記憶が蘇った。まだ両親が健在だった頃、休みの日になると、二人でよく近所の川原まで自転車を走らせたものだった。何のとりとめもない話をしながら、日が暮れるまで石を投げたり、自転車の乗り方を教えたりしていた、あの頃の悠人の笑顔と、今、目の前でアクリル板越しにこちらを見ている表情のない顔とが、和也の中でどうしてもうまく重ならなかった。
「久しぶり」
先に口を開いたのは、悠人の方だった。
「……久しぶり」
和也は、それだけ返すのが精一杯だった。立会いの職員が、部屋の隅で無言のまま記録を取っている。その存在が、余計に言葉を選ばせた。
「元気そうだな」
口にしてから、自分でもばかげた言葉だと思った。悠人は、それに対しても表情を変えず、「そうかな」とだけ返した。
「体調とか、大丈夫なのか。ちゃんと寝れてるか」
「兄さんが心配することじゃないと思うけど」
その言い方に、突き放されたような気持ちと、同時にどこか納得してしまうような気持ちが、同時に和也の中に湧いた。ここに来る資格が、自分にあるのだろうかという問いが、頭の隅をよぎる。それでも、聞かないわけにはいかなかった。
「なんで」
ようやく絞り出した言葉は、それだけだった。
「なんで、あんなことしたんだよ」
悠人は、少しの間、和也の顔をじっと見ていた。責めるでも、悲しむでもない、どこか観察するような目だった。
「兄さんに話しても、どうせわかんないでしょ」
「わかるように、話してくれよ」
「前も、そう言ったよね。あのとき、話を聞いてくれなかったのは、兄さんの方だったと思うけど」
その一言に、和也は言葉を返せなかった。二回目の法要の夜のことが、脳裏をよぎる。
悠人はしばらく黙った後、ぽつりと言った。
「みんな、笑ってたんだ」
唐突なその一言に、和也は一瞬、何のことを言われているのか理解できなかった。犯行のことでも、両親のことでもない、まったく別の話が始まったように感じられた。
「……誰が」
「僕らのこと。父さんと母さんみたいな人たちのこと。ネットで、笑いものにしてた人たちがいた。兄さんは知らないだろうけど」
「それは、お前が見てたコミュニティの話――」
「違う」悠人は初めて、少し強い声を出した。「僕らの外側の話だよ。僕は、それを知ってしまっただけ」
「知ってしまった、って、どういうことだよ。誰が、何のために――」
「兄さんが、そこまで知る必要ある?」
悠人の声のトーンは、また元の平坦なものに戻っていた。まるで、これ以上踏み込ませないための境界線を、静かに引き直したかのようだった。立会いの職員が、ちらりと壁の時計に目をやるのが見えた。残された時間が、もう多くないことを、和也も感じ取っていた。
「教えてくれよ。今更、隠す必要なんてないだろ」
「隠してるわけじゃないよ。ただ、話したところで、兄さんにはきっと、また『それは思い込みだ』って言われるだけだから」
その言葉には、皮肉というより、諦めに近い響きがあった。和也は、それに反論する言葉を、すぐには見つけられなかった。今度こそちゃんと聞くから、と言いかけて、その言葉すら、口先だけのものに聞こえるのではないかという不安に、和也は飲み込まれた。
それ以上を聞き出そうとしたところで、面会時間の終了を告げる声がかかった。悠人は最後に、ひとこと付け加えた。
「別に、兄さんに理解してもらいたくて言ったわけじゃない。ただ、聞かれたから、答えただけ」
アクリル板の向こうで悠人が席を立つ後ろ姿を、和也はしばらく見送ることしかできなかった。
拘置所の外に出ると、初夏の日差しが、やけに眩しく感じられた。行き交う人々は誰も、ついさっきまで和也が何をしていたかなど知る由もなく、いつも通りの顔で歩いている。その温度差に、軽い眩暈にも似た感覚を覚えながら、和也はしばらく、建物の前のベンチに座り込んでいた。
拘置所を出てからも、悠人の言葉が頭から離れなかった。「みんな、笑ってた」。それが具体的に何を指しているのか、和也にはまったく見当がつかなかった。ただ、それを口にしたときの悠人の目に、これまで見たことのない何かが宿っていたことだけは、はっきりと感じ取れた。
和也の記憶は、自然と二年前まで遡っていった。
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