5話
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事務的な言葉が、次々と耳を通り過ぎていく。兄はそれに、ただ「はい」「わかりました」とだけ答え続けた。頭のどこかは、まだこれが現実だと信じ切れていなかった。
震える手で、兄は会社の上司に電話をかけた。
「すみません、急用で……今日、休ませていただけますか」
「え、大丈夫? 何かあった?」
「家族のことで、少し……詳しくは、また落ち着いたら話します」
上司はそれ以上、深く聞いてこなかった。それが、ありがたくもあり、同時に、この後どれだけ多くの人に、同じような曖昧な説明を繰り返すことになるのだろうと、うっすら気が重くなった。
電話を切ったあと、和也は悠人の大学時代の数少ない友人の一人に連絡を取ってみた。何度かのコール音のあと、相手は明らかに困惑した声で出た。
「あ……もしもし。ニュース、見ました……よね」
「うん。最近、あいつと連絡取ってた?」
「いや、正直、二年くらい前からほとんど……大学もあまり来なくなってましたし。なんか、変な集まりにハマってるみたいだって噂は聞いてましたけど、詳しくは」
「変な集まり、って?」
「ネットの、なんかのコミュニティらしいです。それ以上は、俺もよく知らなくて……すみません、力になれなくて」
得られた情報は、兄がすでに知っていることの延長でしかなかった。それでも、誰かと言葉を交わしたことで、ほんの少しだけ、頭の中の混乱が現実の輪郭を取り戻していくのを感じた。
支度をしている最中に、再び叔母から電話がかかってきた。
「大丈夫? 一人で抱え込まないでよ。何かあったら、いつでも連絡してきなさい」
「うん……ありがとう」
「マスコミとか、来てない? 気をつけてね。ああいう人たち、平気で家まで来るから」
「今のところは、大丈夫」
電話の向こうで、叔母が小さくため息をつくのが聞こえた。「あんたまで、辛い思いしないといいけど」
その言葉に、和也はうまく返事ができなかった。今の自分が、これから何を背負うことになるのか、まだ何も分かっていなかったからだ。
身支度を整え、部屋を出るまでの間に、和也はスマートフォンの中の、弟とのトーク画面を開いていた。最後のやり取りは、半年以上前で止まっていた。『元気にしてるか』という兄からの短い一文に、既読すらついていない。何度か送った似たようなメッセージが、返信のないまま積み重なっているのを見て、和也は画面を閉じた。今更それを見返したところで、何にもならないとわかっていた。
駅から警察署へ向かう道すがら、家電量販店の店先に並んだ何台ものテレビが、示し合わせたように同じニュースを映しているのが目に入った。画面の中では、キャスターが淡々と原稿を読み上げ、その隣に、あの夜道の映像が繰り返し流れていた。道行く人が、足を止めてそれを眺めている。誰も、すぐ隣を歩いている自分が、その映像の中の人物の兄だとは気づいていない。その事実が、和也にはひどく奇妙に感じられた。世界中が自分の家族の話をしているのに、自分だけが、ただの通行人として、その中を通り過ぎていく。画面の中のキャスターは、何事もなかったかのように、次のニュースへと原稿をめくっていた。
警察署のロビーで名前を告げると、しばらく待つように言われた。硬い長椅子に腰掛け、兄は俯いたまま、周囲の視線を感じないよう努めた。壁の時計の音だけが、やけにはっきり聞こえた。数分後、名前を呼ばれ、和也は小さな部屋に通され、若い刑事から手続きの説明を受けた。
「まず、ご本人であるかどうかの確認をお願いします。その後、いくつか、ご家族としてお伺いしたいことがあります」
「弟に、会えますか」
刑事は、少し困ったような顔をした。「現時点では、取り調べの都合上、難しいです。落ち着いたら、面会の手続きについてご案内できるかと思います」
「あいつは、何か話しているんですか。どうして、あんなことをしたのか」
「捜査中の事案ですので、詳しいことは申し上げられません」刑事は一拍置いてから、静かに付け加えた。「ただ……ご本人は、比較的落ち着いた様子で、これまでの経緯を話しているとだけ、申し上げておきます」
その「落ち着いた様子」という言葉が、和也の胸に妙な形で刺さった。取り乱していると言われるよりも、ずっと恐ろしく感じられた。
「動機については、何か……」
刑事は少し迷ってから、必要最低限だけを口にした。「ご両親を亡くされたことと、それに関連して信じるようになった情報が、関係しているようだとは聞いています。詳細は、これから裏付けを取っていく段階です」
「その情報というのは」
「申し訳ありませんが、そこまでは、まだ」
刑事は最後に、少しだけ声のトーンを落として付け加えた。「今後、マスコミの取材が過熱するかもしれません。無理にお答えになる必要はありませんので」
そのときはまだ、その一言の重さを、和也はよくわかっていなかった。
それ以上を聞き出すことはできなかった。和也は小さく頭を下げ、部屋を出た。
手続きを終えて署を出ると、外はもうすっかり日が傾いていた。スマートフォンを取り出すと、通知欄には、見たこともない数のメッセージと、SNSの言葉が溢れていた。「英雄」「代弁者」「モンスター」「殺人鬼」――見覚えのない言葉の羅列が、見覚えのある弟の顔写真と一緒に、次々と流れていった。
そのどれもが、和也の知っている弟とは、まったく違う誰かの話をしているように思えた。
マンションの前まで戻ると、見慣れない数人が、エントランス付近にたむろしているのが目に入った。カメラを提げた男が、和也の顔を見るなり、小走りに近づいてきた。
「すみません、加害者の方のご家族ですよね? 少しだけ、お話を伺えませんか。どんな方だったのか、心当たりは――」
別の記者も追いすがるように口を開いた。「ご家族として、被害者の方に、何か伝えたいことはありますか」
「……何も、お話しすることはありません」
和也はそれだけ言うと、記者の脇をすり抜けるようにして、足早にエントランスへ向かった。背中に向けられるシャッター音と、いくつもの問いかけの声が、しばらく耳から離れなかった。
部屋のドアを閉め、鍵をかけてから、和也はようやく、その場にしゃがみ込んだ。顔を上げると、テーブルの上に置かれたままの、家族四人で撮った写真立てが目に入った。両親が死んでから、ずっとそこに置いたままにしていたものだった。写真の中の弟は、まだ高校生で、少し照れたような顔で笑っている。休みの日に二人でよく近所の川原まで自転車を走らせ、くだらないことで笑い合っていた頃があったことを、和也はふいに思い出した。あの弟が、いつ、どこで、あの夜道を歩く人間に変わってしまったのか、写真の中の笑顔からは、何一つ読み取ることができなかった。
夜になっても、和也はスマートフォンを手放せずにいた。次から次へと流れてくる見知らぬ人々の言葉を、まるで何かの答えが書かれているのではないかというように、一つ一つ目で追い続けた。
「この人の気持ち、なんとなくわかる気がする」 「家族失って、頭おかしくなったんだろうな。同情はするけど、殺していい理由にはならない」 「これが正義とか言ってる人、本気で頭沸いてる」 「もし自分の家族があんな目に遭ったら、って考えると、どっちが悪いとか簡単に言えない」
どの言葉も、もっともらしく、そしてどこか的外れに聞こえた。誰も、弟の名前も知らず、声も知らず、笑い方も知らないくせに、まるで弟のことをよく知っているかのように語っていた。和也は、その誰よりも近くにいたはずなのに、肝心なところで何一つ、わかっていなかったのかもしれないと思い始めていた。
「なんで、俺に言わなかったんだよ」
誰もいない部屋の片隅で和也は小さくつぶやいた。答える者は、どこにもいなかった。
気づけば、日付が変わろうとしていた。カーテンの隙間から差し込む街の明かりを見つめながら、和也の頭には、一つの疑問だけがずっと残っていた。あいつは、いつから、あんなふうに追い詰められていたのだろう。そして自分は、その変化に、本当に気づいていなかったのだろうか。
考えても考えても、答えらしきものは、どこにも見当たらなかった。ただ、このまま何もせずにいることだけは、もうできないという予感だけが、はっきりと胸の底に残っていた。
画面の向こうでは、今この瞬間も、見ず知らずの誰かが弟のことを「英雄」と呼び、また別の誰かが「モンスター」と呼んでいる。そのどちらの言葉も、和也の知っている弟の輪郭とは、少しずつずれていた。もし本当のことを知りたいと思うなら、それはきっと、この画面の中には落ちていない。誰も彼もが騒ぎ立てるこの喧騒の外側に、自分自身の足で探しに行くしかないのだろうと、和也はぼんやりと思った。
その問いへの答えを探す旅は、この日から、静かに始まることになる。
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