2話
19時、21時に投稿します。
本日のみ2話は19時半に投稿されます。
角を曲がると、マンションのエントランスの明かりが見えてくる。そこに、一人の男が立っていた。五十代前半だろうか、疲れの滲んだ顔に、スーツだけはきちんと着崩れなく整えている。スマートフォンを見ながら、誰かを待っているふうだった。
「白石さん」
青年が声をかけると、男――白石誠一――は顔を上げた。一瞬、戸惑うような表情を浮かべる。
「……どちらさまですか」
「メールしました。ワクチンの被害者遺族の会の者だと名乗って。今日、お時間をいただけるとのことでしたので」
白石の表情がわずかに強張った。「ああ……その節は、メールをいただいて。あの、立ち話もなんですから、どこか場所を――」
「ここでいいです」青年はスマートフォンのカメラを白石に向けたまま言った。「僕、生配信してるんです。白石さんの言葉を、ちゃんと、みんなに聞いてほしくて」
「配信……?」白石の声に、はっきりと警戒の色が混じる。「ちょっと、それは困ります。話がしたいなら、会社を通して正式に――」
「正式に、って何ですか」青年の声が、初めて震えた。「僕、正式に何度も聞きましたよ。厚労省にも、病院にも、会社のお客様相談室にも。何回電話したと思ってるんですか。でも、いつも『検討します』『確認します』で終わって、何も変わらなかった。それなのに、あなたはテレビのインタビューでは、ずいぶんはっきり喋ってましたよね」
「それは……」白石は一歩下がり、あたりを見回した。「あの、今日はもう遅いので、また改めて――」
「逃げるんですか」青年はスマートフォンを構えたまま、半歩詰め寄った。「『反ワクチンを訴える人間は害悪だ』。覚えてますよね、あの発言。うちの親は、それを信じて苦しんでる人たちの仲間に入っただけです。それの、どこが害悪なんですか」
白石は答えに詰まり、視線を泳がせた。「私はあくまで、科学的な根拠に基づいた発言を……それに、あの投稿の件は、私は……知らなかったんです、詳しいことは」
「知らなかった、で済ませるんですか。あなたの名前で発信されてたことですよ」
「それとこれとは、別の話です。私は現場の細かいところまでは……」
「別の話、ですか」青年は乾いた声で笑った。
「都合のいいときだけ、別の話になるんですね」
「本当なんです。信じてください。私にも、家族が――」
「家族がいるから、なんですか」青年の声が、わずかに裏返った。「僕にだって、いたんです。もう、いないだけで」
白石は答えられなかった。ただ、スマートフォンを取り出そうとした――誰かに助けを呼ぼうとしたのかもしれない。その動きを見て、青年の中で何かが決壊した。ここでまた、うやむやにされて終わるのだ――そう思った瞬間、指先の感覚だけが妙にはっきりした。
「もういいです」青年はポケットからナイフを取り出した。コメント欄が一気に加速する。「ちょ」「待って」「通報して」「これ本物?」「誰か止めて」
「誰も聞いてくれないなら」青年の声は、怒りよりもむしろ、疲れ切っているように聞こえた。「これで、聞いてもらいます」
白石は数歩後ずさり、両手を前に出した。「待て、話し合おう、な? 落ち着いて、頼むから――」
もみ合いになったのは一瞬だった。白石が青年の腕をつかもうとしたが、間に合わなかった。青年の手が動き、白石が体をくの字に折る。画面が激しく揺れ、夜空と、マンションの明かりと、アスファルトが交互に映った。悲鳴のようなものが短く響き、それきり静かになった。青年自身、自分が何をしたのか、しばらく実感できずにいた。
倒れ込んだ白石に、青年がゆっくりと近づく。カメラは、荒い呼吸の音を拾い続けていた。
白石は、青年を見上げていた。唇が微かに動く。声にはならなかった。ただ、右手がゆっくりと持ち上がり、青年に向かって――謝るように、あるいは何かを制するように、力なく差し出された。
その手は、途中で止まり、そのまま落ちた。
配信画面はしばらく、夜道と、動かなくなった白石と、立ち尽くす青年の姿を映し続けていた。コメント欄には、もう誰も、まともな言葉を打ち込めなくなっていた。「待って」「え」「うそでしょ」という短い言葉だけが、ぽつぽつと流れては消えていく。
数分後、配信は唐突に切れた。
配信が切れてから、三十分もしないうちに、切り抜き動画がSNS上に現れ始めた。誰かが配信全体を録画していたらしく、断片的な映像が複数のアカウントから次々と投稿されていく。特に拡散したのは、白石が最後に見せた、あの手の動きの部分だった。十五秒ほどの短い映像に、誰かが「製薬会社役員、ワクチン被害者へ謝罪するも死亡してしまう」というテロップをつけて投稿すると、それは瞬く間に十万、二十万と再生数を伸ばしていった。深夜にもかかわらず、関連の投稿は朝までに数千件を超え、まとめサイトやニュースアプリの速報欄にも「配信中に殺人か」という見出しが並び始めた。
中には、映像の残酷さそのものに言葉を失い、ただ「怖い」「見なければよかった」とだけ呟くアカウントもあった。だが、そうした声はすぐに、手の動きをめぐる考察の波にかき消されていった。
事件そのものの是非よりも先に、その十五秒間の解釈だけが、独り歩きを始めていた。青年の名前も、両親の死も、その背景にあるものも、まだ誰も知らない。ただ一つの短い映像だけが、夜のうちに、何百万もの画面へと広がっていった。
その頃にはもう、あの夜道に立っていた二人の人間が、実際にはどんな人生を歩んできたのかということは、誰の関心の対象にもなっていなかった。
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