1話
19時、21時に投稿します
深夜零時を回ったところだった。青年は、狭い自室の隅、ベランダに続くガラス戸を背にスマートフォンを固定した。部屋の電気は消してあり、床には脱ぎっぱなしの服と、飲みかけのペットボトルがいくつか転がっている。机の上には、両親と三人で撮った古い写真立てが一つだけ、埃をかぶらずに置かれていた。ここ数日、ろくに眠れていなかったが、不思議と頭の芯だけは妙に澄んでいた。画面の向こうには、まだ誰もいない配信画面が青白く光っているだけだった。その写真立てを一度だけ見て、彼は静かに目を伏せた。それから小さく息を吐き、配信ボタンを押した。
視聴者数がゼロから一、二、三と増えていく。誰かが「なに、これ」とコメントを打ち込む。青年はカメラに向かって、静かに話し始めた。
「こんばんは。今日は、大事な話をします」
声は思ったより落ち着いていた。むしろ自分でも驚くほどに。
「二年前、僕の両親は、ワクチンを打った後に死にました。因果関係不明――医者はそう言いました。母は心臓が、父はその一ヶ月後に脳が。二人とも、それまで大きな病気ひとつしたことがない人でした」
「母が倒れたとき、救急で運ばれた病院の先生に聞きました。『これはワクチンのせいじゃないんですか』って。先生は少し困ったような顔をして、『可能性がゼロとは言いませんが、現時点では因果関係は確認されていません』と言いました。父のときも、まったく同じ言葉でした。厚労省の窓口に電話しても同じです。何十回電話したかわかりません。最後の方は、番号を見ただけで、担当の人がため息をつくのがわかるようになりました」
「母は、体が弱い人じゃありませんでした。毎朝ジョギングしてたし、健康診断もいつも引っかからなかった。父も同じです。だから、二人が立て続けに倒れたとき、僕は事故か何かだと思ったんです。まさか、それが『始まり』だなんて、思ってもいませんでした」
コメント欄に「え、マジ?」「ソースは」「かわいそう」という文字が流れていく。青年はそれを一瞥もせず続けた。
「誰も聞いてくれなかった。家族も、友達も、大学の人たちも。みんな、僕が変なことを言い出したみたいな顔をするだけでした。大学の友達に話したときなんて、『そういうのはあんまり言わない方がいいよ』って、心配そうに言われました。心配、というより、腫れ物扱いでした。気づいたら、講義にもあまり顔を出さなくなっていました」
彼はそこで一度、言葉を切った。
「でも――ネットの向こうには、同じことを言ってる人たちがいた。同じ症状で、同じタイミングで、同じように家族を失った人たちが、ちゃんといたんです。夜中に眠れなくて掲示板を眺めていたとき、僕とそっくりの話を書き込んでいる人を見つけました。母親を亡くした、心臓が急に止まった、病院は取り合ってくれなかった――一言一句、僕の話みたいでした」
彼の声に、初めてかすかな熱がこもる。
「思い切って書き込んだら、その日のうちに返信が来ました。『辛かったね、よく気づいたね、ここではみんな同じ思いをしてるから』って。たったそれだけの言葉で、僕は初めて、息ができた気がしました。それから毎晩、あそこに行きました。誰も僕を『考えすぎ』だなんて言わなかった。誰かが投稿するたびに、既読がつくみたいに反応が返ってくる。それだけのことが、あの頃の僕には、何より大事でした」
「あの人たちだけが、僕の話を『気のせいだ』とか『たまたまだよ』って言わずに、ちゃんと最後まで聞いてくれた。おかしいのは僕じゃなくて、聞こうとしない方だって、あそこで初めて思えたんです。あの場所だけが、僕の居場所でした」
ここで一瞬、脳裏に兄の声がよみがえる。あれは、二回目の法要が終わった夜だった。
『いいか、統計的に見て、ワクチンとの因果関係が証明された例は極めて少ない。お父さんとお母さんは、たまたま別の要因が重なっただけなんだ。ちゃんと専門家の話を――』
『兄さんは、専門家の話が聞きたいんじゃなくて、自分が納得したいだけだろ』
『……お前こそ、ネットの変な連中の話を鵜呑みにしてるだけじゃないのか。あんな連中、お前を利用してるだけかもしれないんだぞ』
『あの人たちは、少なくとも僕の話をちゃんと聞いてくれる。兄さんは、僕を黙らせたいだけじゃないか』
あの夜、兄は最後にもう一度だけ、「頼むから、変なコミュニティから離れてくれ」と言った。青年はそれに答えず、部屋のドアを閉めた。ドア越しに、兄がしばらくそこに立っていた気配だけが、今でも記憶に残っている。それきり、まともに口をきいていない。
スマートフォンをポケットにしまう前に、彼は一度だけ、コメント欄の流れを目で追った。見覚えのあるハンドルネームが、いくつか並んでいた。あのコミュニティの仲間たちだ。誰も、まだ何が起きるのか気づいていない。
「これから、ある人に会いに行きます」青年は玄関を出て、夜道を歩きながら言った。画面には人通りの少ない住宅街の道が映り、時折、街灯の光が横切る。「この人は、製薬会社の役員です。何度も何度も、メディアの前で言っていました。『反ワクチンは科学的根拠のないデマだ』『そういう投稿をする人間は、社会にとって害悪だ』って」
息が白く浮かんでは消える。青年の足取りは、迷いなくまっすぐだった。まるで、何百回もこの道をシミュレーションしてきたかのように。
コメントが少しずつ増え始める。「誰の話?」「名前は」「待って怖い」「通報しといたほうがいいかも」
青年はその文字を横目に見ながら、小さく笑った。「大丈夫です。ただ、話をしに行くだけなので」
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