最終話 或る通訳官の告白
数日後、新聞には若者を狙った卑劣な詐欺師が捕まった記事が隅に載せられていた。
それを見つけた玲子は、どうやって捕まえたのか一樹に聞いてみたが、彼はただ悪人はいずれ捕まるものだとだけ答えた。
もっとも、後日訪れた文哉の話によれば一樹と共に様座な関係各所に手を回し、苦労して追い詰めたとのことらしかったが、玲子のために奔走したことは言わないで欲しいと口止めされたらしい。
そう言われてしまえば、一樹のために聞かなかったことにするしかないだろう。
孝明もあれ以降この屋敷に姿を表すことはなくなり、ようやく平穏が訪れた。
「また図書館の掃除か。君も熱心だな」
今日は休日で、珍しく一日中一樹が屋敷にいる。
いつも通り図書館を丁寧に掃除していれば、一樹は様子を見に来てくれた。
「だって私は、この図書館の司書ですから!」
「……そうか」
満面の笑みで玲子が答えれば、一樹は素っ気なく、しかしどこか嬉しそうにそう言った。
「あの、青崎様」
「……一樹でいい」
「一樹様」
「そうだ。それで、何か用か?」
今更になって名前で呼ぶようになったが、なかなか慣れそうになかった。
あの時勢いで言っただけなのかと玲子は思っていたが、一樹はどうやらずっと名前で呼んで欲しかったのを言い出せなかっただけらしい。
「ご用というわけではないのですが、先程このようなものを見つけましたので」
「これは……」
玲子が差し出したのは、古い日記帳だった。
一樹は中身を見ることなく、それが何かすぐに気がついた。
「私が無断で読んで良いものでは無いと思いましたので、お渡しさせていただきました」
忘れもしない。
泣き祖父の手記だと、一樹はしっかり覚えていた。
「きみ……本当に、探し物が得意なようだな」
「この図書館には、思い出がたくさん詰まっているようですから」
意図的に探そうとしなくても、直ぐに見つかる。
一樹の作った栞も、一樹の祖父が書いたものも、一樹の祖母が残した料理本も。
一樹は懐かしそうに手記を指でなぞってから、おもむろに口を開く。
「成嶋孝明から聞いたんだろう。僕がどういう人間なのか」
「……はい」
「父親は、婿養子だったんだ。妻に頭が上がらない人で、だから僕の存在が明るみになると都合が悪かった」
一樹はぽつりぽつりと語り出す。
「僕の産みの母は、元々成嶋家で働く女中だった。尚更都合が悪く、どうにもならないと悟った父は、僕を殺そうとしたんだ」
玲子は息を飲みながら、黙って続きを聞いていた。
「けれど、祖父が守ってくれた。僕は祖父の養子として育てられ、青崎という祖母の旧姓を名乗り生きてきた。成嶋家のことは何も知らされず、両親は早くに病で亡くなったとだけ言い聞かされて育っていた」
それが、青崎一樹の過ごしてきた幼少期だった。
一樹は祖父母に守られて、今日まで生きてきたのだ。
「祖母が亡くなったのは幼い頃で、葬式のことはあまり覚えていない。ただ、なんだか怖い親戚がいるとだけ覚えていて……次に成嶋家の人々と顔を合わせたのは、祖父の死後だった」
一樹は、ふっと自嘲するように苦笑いをする。
「そこでようやく僕は本当のことを知った。僕を引き取ったせいで成嶋家の人々との関係が悪くなったことも、僕がいなければ祖父母はもっと良い暮らしができたことも。何も知らず、のうのうと生きていた自分に嫌気かさした」
「それは……!」
「孝明からは祖父母を奪われたのだと激昂されたよ。彼とは同い年だったから、尚更印象が悪かったんだろう。散々暴言を浴びせられて、遺産泥棒と罵られた。もっとも成嶋家の人々も皆、僕をそう思っているようだったが」
祖父母のことを語る時とは一転、表情に影が射す。
どうして孝明があれほどまでに一樹を嫌っているのかよくわかった。
だが、それは一樹に非があるわけではないだろう。
玲子は憤りを感じてしまう。
「それから、自分の存在に後ろめたさを感じるようになって、図書館に近寄れなくなった。君の言う通り、ここには思い出が詰まっている。簡単には触れらそうもなかったんだ」
一樹が再び、視線を手元の手記に落とす。
「すみません、私、そんなことも知らずに差し出がましいことばかりして……」
「何を言う。隠していたのだから知らなくて当然だろう。それに、今はありがたく思っているんだ」
一樹は優しく玲子に微笑みかける。
「きみのおかげで、過去に向き合う勇気が出た。どうして、祖父母がずっと真実を隠していたのか以前は理解できなかった。だけど、今なら分かる。大切な人を守るためなら、どんなことがあろうが厭わないものなのだと」
祖父母の場合は、一樹のための嘘をつき続けることだったのだろう。
「守りたい人ができたから、僕もそれを痛いほど理解させられた。きみのことだ」
「っ……!」
「きみがいなければ、僕は一生拗ねた子どものままだった。きみだって、大変な思いをして生きてきたの、に僕が向き合えるようにずっと気遣ってくれていただろう」
「あ、ありがとうございます。私は、私に出来ることをさせて頂いたまでですから」
一樹がこちらを見る目は、とても優しくて慈愛に満ちていた。
恋愛的な意味だと勘違いしてしまいそうになったと、玲子は誤魔化すように笑う。
けれど、それは勘違いなどではなかったようだ。
「きみさえ良ければ……青崎玲子にならないか」
「えっ」
思わず声がうわずる。
それではまるで、結婚の申し込みのようではないか。
「あ、もしかして父のことで気遣ってくださったのですか? でも、きっと大丈夫ですよ」
慌てて、父のことに思い至り自身を納得させようとする。
しかし、一樹はきっぱりと口にした。
「そうじゃない。……きみのことが、好きなんだ」
玲子は思わずいきをのむ。
玲子を見つめる一樹の視線はどこまでも熱く、玲子は逃げられなかった。
「好きだ。玲子さん」
初めて名前を呼ばれた。
玲子さん、と。一樹の声が頭の中で何度も反響する。
いつか一樹に名前で呼んでもらえたらと思ったことはあった。
ただそれは親愛であって、これほどまでの切実な恋情ではなかった。
そして、自分自身名前を呼ばれたことを、こんなに嬉しく思うとは想像もしていなかった。
(私も、一樹様のことが……)
二人して恥ずかしがって、視線を逸らしてしまう。
玲子だって、自分の胸の内にある感情の名前に、とうに見当はついていた。
まずは、お付き合いからで。
玲子が振り絞るように返事をしたのは、たっぷり数秒後のことだった。
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