優勝の喜びー
登場口へと辿り着いた、その瞬間。
張り詰めていた糸が、切れた。
ミリィの身体が大きく揺れる。
次の瞬間には、支える間もなく崩れ落ちていた。
「ミリィ様!」
「早く、担架を!」
駆け寄るオセとアナ、そして剣聖の盾の団員たち。
すぐに担架が運び込まれ、ミリィはそっと乗せられる。
その顔は、安らかだった。
まるで、すべてをやり終えたかのように。
「急いで、医務室へ!」
慌ただしく運ばれていく。
歓声がまだ響く闘技場の裏側で、別の戦いが始まっていた。
命を繋ぐための、静かな戦い。
医務室に運び込まれ、応急処置が施される。
だが、それでは足りない。
すぐに判断が下された。
「王宮へ。すぐに移送を」
やがて。
王宮の紋章を刻んだ馬車が到着する。
厳重な護衛。
誰もがその重要性を理解していた。
剣聖を、失うわけにはいかない。
ミリィはそのまま、王室御用達の医療施設へと運ばれていった。
優勝の余韻に浸る時間など、どこにもない。
歓声も、栄光も。
すべてを置き去りにして。
ただ、静かに。
眠るように。
当の本人は。
担架に乗せられたあたりで、すでに意識を手放していた。
――そして。
気が付けば。
三日が、過ぎていた。
柔らかな光が差し込む病室。
白い天井を見上げながら、ミリィはゆっくりと瞬きをした。
「……あれ……?」
ぼんやりとした意識。
身体は軽い。
だが、どこか現実感がない。
「気が付きましたか、剣聖様」
穏やかな声。
傍らに立つ医師が、ほっとしたように微笑む。
「いやはや、さすが剣聖様。驚くほどの回復力です。まさか骨折まで一晩で完治するとは」
ミリィはゆっくりと瞬きを繰り返す。
言葉の意味を、少しずつ理解していく。
「……骨折……?」
かすれた声。
医師は軽く頷いた。
「初日に運び込まれた時は、正直ひやりとしましたが……2時間ほどで状態は安定。その翌日には、ほぼ全快でした」
まるで信じられないものを見るような口調。
だが事実だった。
「ただ、体力の消耗が激しかったのでしょう。意識が戻るまで、三日ほどかかりましたが」
三日。
その言葉に、ミリィの目がわずかに揺れる。
「……三日も……?」
ゆっくりと上体を起こそうとして、やめる。
まだ少し、身体が重い。
記憶を辿る。
闘技大会。
戦い。
途中までは、覚えている。
だが――
「……あれ……?」
その先が、曖昧だった。
霧がかかったように、思い出せない。
「大会当日は、かなり無理をなさっていたようですからね。記憶が飛んでいても不思議ではありません」
医師が穏やかに言う。
ミリィは、小さく頷いた。
「……それで……」
少しだけ、間を置いて。
恐る恐る、尋ねる。
「試合……どう、なりました……?」
医師は、きょとんとした後。
くすりと笑った。
「もちろん、優勝ですよ」
あまりにも、あっさりと。
告げられる事実。
ミリィは、ぽかんとした。
「……え……?」
「10戦勝ち抜き。見事なものでした」
「……そ、う……なんですか……」
実感が、湧かない。
まるで他人事のように。
ぼんやりと天井を見上げる。
気が付けば、病院。
気が付けば、優勝。
すべてが、どこか遠い出来事のようだった。
ただ一つだけ。
胸の奥に、かすかに残っているものがある。
――あの声。
「……あれも……夢、だったのかな……」
扉が静かに開く。
「あら、気が付きましたの?」
アナがゆっくりと病室へ入ってくる。
手には、白い花の挿さった花瓶。
柔らかな香りが、部屋に広がった。
ミリィはその姿を見て、ほっとしたように目を細める。
「……アナ……私……」
言いかける。
だが、アナはそっと微笑んで、それを遮った。
「いいから、ゆっくりしてなさいな」
穏やかな声。
優しく包み込むように。
ミリィの言葉は、行き場を失って揺れる。
それでも、ぽつりと零れた。
「でも私……みんなにわがままいっぱい言って……迷惑かけて……」
視線が、少し下がる。
指先が、シーツをぎゅっと握る。
アナはベッドの傍に花瓶を置き、静かに腰掛けた。
そして、ミリィの方へ向き直る。
「誰もそんな風に思ってるものなどいないわよ」
きっぱりと。
迷いなく。
その言葉には、一切の嘘がなかった。
ミリィの目が、わずかに揺れる。
「オセは今、あなたの代わりに大会事務局に呼ばれて行ってますので、じきに帰ってくるでしょう。トロフィーを持って、ね」
穏やかに告げるアナ。
ミリィは少しだけ目を丸くする。
「あ……私、ちゃんと優勝したんで……すよね?」
どこか不安げな声。
アナはふっと微笑んだ。
「もちろん。お見事でした」
その言葉を聞いた瞬間。
ミリィはそっと胸に手を当てる。
深く、ゆっくりと息を吐いた。
安堵。
ようやく、少しだけ実感が追いついてくる。
だが――
「あれ?……あれ? あれれ?」
急に様子が変わる。
胸元を、何度も確かめるように触る。
指先が焦る。
アナがきょとんとする。
「どうしましたの?」
「ゆ……指輪が……」
顔が青ざめる。
「指輪がないっ!」
ミリィは半ばパニックになりながら、必死に周囲を見回す。
「ない……ない……どこ……」
その様子を見て、アナが小さく息をついた。
そして、どこか納得したように頷く。
「あぁ……それなら……」
アナは、どこか含みのある微笑みを浮かべたまま言う。
「お見舞いに来た彼が、自分の指輪だからって持って行きましたわよ?」
ミリィの思考が、一瞬止まる。
「……か、彼?」
かすれた声。
心臓が、どくん、と大きく跳ねた。
アナはさらりと続ける。
「ええ、あの銀髪の――」
その言葉で。
時間が、繋がる。
「……来て、るの?」
信じられない、という顔。
わずかに震える声。
アナは少しだけ目を細めた。
「あら? 試合中の声、届いてなかったんですの?」
――その瞬間。
ミリィの瞳が、見開かれる。
脳裏に、蘇る。
あの声。
闘技場に響いた、あの叫び。
「……あ……」
息が、止まる。
あれは――幻聴じゃない。
胸の奥が、一気に熱を帯びる。
「……うそ……」
ぽつり、と零れる。
視界が揺れる。
指先が、震える。
「ほんと、に……?」
確かめるように。
縋るように。
ミリィはアナを見る。
アナは、やさしく頷いた。
「ええ。本当に」
その一言で。
積み重なっていた何かが、崩れた。
ミリィの目から、大粒の涙が溢れる。
止まらない。
「……来て、たんだ……」
震える声。
信じたかった。
でも、信じきれなかった。
それが今――現実になる。
胸の奥が、いっぱいになる。
「……会えたのに……」
ぽろり、と零れる本音。
その瞬間。
ミリィの手が、ぎゅっとシーツを握った。
顔を伏せる。
涙が、ぽたぽたと落ちる。
嬉しさと。
後悔と。
全部が混ざって、溢れてくる。
アナはその様子を、静かに見守っていた。
何も言わずに。
ただ、そっと寄り添うように。
アナは、そっと立ち上がった。
何も言わずに、静かに扉へ向かう。
そして、振り返ることなく部屋を出た。
扉が閉まる。
廊下。
静寂。
アナは数歩進み――止まった。
前を向いたまま、口を開く。
「泣いてしまいましたけど、どう責任とってくれるんですか?」
視線は動かさない。
だが、その言葉は確かに届いていた。
扉のすぐ隣。
壁に背を預けて立つ、銀髪の青年へ。
青年は軽く息を吐く。
「ミリィは昔から泣き虫だったからなー。変わってねぇな、本当に」
気の抜けた声。
だが、どこか懐かしむような響き。
アナは小さく笑う。
「あら、変わったところもたくさんあるでしょう?」
青年は少しだけ視線を上げる。
考えるように。
そして、ぽつりと。
「そうだな!強くなった。強くなったなぁ、本当に」
その言葉には、飾りがない。
ただの事実としての、実感。
アナはわずかに首を傾ける。
「強くなった、だけですか?」
試すような問い。
だが青年は、あっさりと答える。
「あとは、背がちょっとだけ伸びてっかもしんねぇな!」
間。
アナの眉が、ぴくりと動く。
「……なるほど、ぶっきらぼうで空気が読めない、ですか」
青年が顔をしかめる。
「なんだよそりゃ?」
「こっちの話です。お気になさらず」
さらりと受け流す。
そして、視線だけをわずかに向けた。
「で、会わないんですか?」
問い。
青年は、壁から背を離す。
軽く肩を回しながら。
「いや? これから会うぜ?当たり前だろ?」
当然のように。
迷いなく。
アナは小さく息をついた。
「……それは、余計なお世話でしたね。ごゆっくり」
そう言って、一歩離れる。
青年は片手をひらりと上げた。
「おう! ありがとよ!」
軽い調子。
だがその足は、まっすぐに扉へ向かう。
ゆっくりと。
確かに。




