闘技大会当日ー
控室は、闘技場の喧騒から切り離されたように静かだった。
遠くで歓声が揺れているのに、この部屋だけは水の中に沈んだように音が鈍い。
長いベンチの端。
ミリィはそこに、浅く腰掛けていた。
背中は丸まり、肩はわずかに上下している。
呼吸が、少しだけ熱を帯びていた。
額にはうっすらと汗。
頬もどこか赤い。
それでも彼女は、それを隠そうともしないまま、ただ項垂れている。
「せめて横になりなさい」
アナの声は静かだった。
心配というより、確かな判断だった。
ミリィはゆっくりと顔を上げる。
ぼんやりとした視線のまま、ほんの少しだけ笑う。
「今、横になったら……もう立ち上がれない気がする……」
冗談のようでいて、冗談ではない響き。
言い終えたあと、ふっと息を吐く。
そのまま、また視線を落とした。
指先は、無意識に膝の上で指輪のない首元をなぞる。
落ち着こうとしているのか、逆に追い詰めているのかも分からない仕草だった。
アナはその様子を見て、わずかに目を細める。
「……無理は、しないでくださいませよ」
ミリィは答えない。
ただ、小さく頷いたような気配だけがあった。
遠くで、次の試合の歓声が大きくなる。
その音に反応するように、ミリィの指がほんの少しだけ動いた。
まだ、立つ気でいる。
それだけは、はっきりしていた。
控室の扉が、勢いよく開く音がした。
「やっぱやめましょうよ!今日だけは!」
オセの声は、いつもの軽口ではなかった。
焦りと苛立ちが混じっている。
ベンチに座ったままのミリィは、ゆっくりと顔を上げる。
熱を含んだ視線が、ぼんやりとオセを捉えた。
「心配かけてごめんなさい……」
小さく、息を整えるように言う。
そして、少しだけ笑った。
「でも……やらせて……今日だけは……」
その言葉は弱い。
弱いのに、どうしても折れない。
オセの表情が歪む。
「なんで...今日なんすか...よりにもよって...」
吐き捨てるような声。
だがミリィは、それ以上何も返さない。
ただ、ゆっくりとベンチに手をつき、立ち上がろうとする。
足に力は入っていない。
それでも、立とうとしている。
アナが静かにその横顔を見る。
止める言葉を探して、やめる。
もう分かっているからだった。
この状態では、止めても止まらない。
ミリィは小さく息を吐く。
「……行ってきます」
誰に向けたとも分からない声だった。
控室の扉が開くと、外の喧騒が一気に流れ込んできた。
歓声と金属音。
闘技場の空気は、ここまで届くほど熱を帯びている。
その音に合わせるように、ミリィは小さく息を吸った。
立ち上がる動作は、ほんの少し遅い。
足元がわずかに揺れる。
すぐにアナが支えに入った。
「……行きますわよ」
その声はいつも通り落ち着いているが、手の力は確かだった。
ミリィは肩を預けるようにして、ゆっくりと歩き出す。
「……高熱とまでは言わないけど……動くのは危険ね……」
アナが小さく呟く。
視線は前を向いたまま。
「大丈夫です……がんばりますから……」
ミリィは、息を整えながら返す。
その声は弱いが、途切れない。
オセが少し後ろからついてくる。
いつもの軽口はない。
ただ、眉をひそめたままミリィを見ている。
「……何もこんな状態になってまで、がんばんなくても...」
誰に向けたでもない独り言だった。
アナはちらりとオセを見る。
「理由が理由じゃなければ……縛り付けてでも止めたいところだわ」
その言葉に、オセは何も返さない。
珍しく、同意の沈黙だった。
ミリィはふらつきそうになるたびに、アナの肩に少しだけ力を預ける。
それでも歩みは止めない。
「……ありがとう、アナ」
ぽつりと、そう言った。
アナはそれには答えず、ただ前を見たまま小さく息を吐く。
「……剣聖様を助けるのが、剣聖の盾の役目ですもの」
登場口の前。
そこは、闘技場の喧騒と戦いの気配がすぐそこまで迫っている場所だった。
鉄の扉の向こうからは、観客の歓声がうねるように響いてくる。
その前で、アナがふと立ち止まった。
「……ここでいいですわ」
そう言うと、唐突にミリィの肩をそっと押して、その場に座らせる。
「え……?」
ミリィとオセが同時に困惑の声を漏らす。
アナは一切気にしないまま、すぐにミリィの横に膝をついた。
そして、真剣な顔で髪に触れる。
乱れた髪を丁寧に整え、マントの襟を正し、手袋の皺まで直していく。
「すぐ終わりますから、じっとしてなさい」
いつもより少しだけ強い声。
「今はそんなんどうでもいいっすよ」
オセが思わず口を挟む。
「アナ……大丈夫ですから……」
ミリィも困ったように言うが、アナは聞かない。
次の瞬間、アナはミリィの頬を両手で包み込んだ。
そして、そのまま自分の額をそっと合わせる。
距離が一気に近くなる。
「憧れの人に見せたいのでしょう?」
静かな声。
逃げ場のない優しさだった。
「だったら……最高に綺麗な自分を、見せてあげなさい」
その言葉に、ミリィの目が揺れる。
ぽろり、と。
涙が落ちた。
アナはそれを見て、わずかに目を細める。
「もう……」
小さく苦笑しながら、ハンカチを取り出し、そっと涙を拭う。
「メイクもやり直しね、まったく」
冗談のように言いながらも、その手つきはやさしかった。
オセは何も言えず、その光景を見ている。
登場口の向こうでは、歓声がさらに大きくなる。
ミリィは、ゆっくりと息を整えた。
まだ震えは残っている。
それでも──ほんの少しだけ、まっすぐ前を見ていた。
鉄の扉が、重い音を立てて開いた。
一瞬、光が差し込む。
その先には、巨大な闘技場と、渦のような歓声が広がっていた。
今回の形式は勝ち抜き戦。
一人が倒れない限り、そのまま次の相手が続く過酷な形式だ。
ミリィは小さく息を吸う。
ふらつく足を、一度だけ踏み直し、体勢を整える。
次の瞬間、何もなかったかのように笑顔を作った。
そして両手を軽く上げる。
観客席に向かって、控えめに、しかし確かに手を振った。
「……っ」
喉の奥で、小さく息を詰めながらも、そのまま舞台へと一歩踏み出す。
歓声がさらに大きくなる。
だが、その音はどこか遠い。
ミリィの意識はただ一つに縋っていた。
“見られているかもしれない”
それだけだった。
対戦相手が現れる。
すでに三勝。
つまり、すでに三人をこの場で倒している勝者。
勝ち抜き戦の流れの中で、そのまま立ち続けている男だった。
両手に剣。
左右それぞれが異なる形状の刃。
傭兵風の男は無言のままミリィを見る。
その目に油断はない。
むしろ明確な警戒がある。
観客のざわめきが少しずつ沈んでいく。
ミリィは軽く息を吐いた。
まだ立っている。
まだ笑えている。
それだけで十分だった。
「……剣聖ミレニアム」
男が低く呟く。
ミリィは一瞬だけ目を伏せて、すぐに顔を上げる。
男が、わずかに重心を落とした。
左右の剣が、呼吸に合わせて静かに揺れる。
無駄がない。
三人を抜いているのは伊達ではなかった。
ミリィは一歩、前へ出る。
「……よろしく、お願いします」
かすかに震える声。
だが、礼は崩さない。
次の瞬間。
空気が弾けた。
男が踏み込む。
速い。
左右の剣が交差するように迫る。
ミリィは反応する。
最小限の動きで、体を捻る。
一閃目を紙一重で避ける。
だが、二閃目。
角度を変えた刃が、すぐに追いかけてくる。
「っ……!」
反射で腕を上げ、受け流す。
金属が擦れる音。
火花。
その衝撃が、そのまま体に響く。
重い。
足が、わずかに後ろへ滑った。
男の目が細まる。
「……鈍いな」
低い声。
次の踏み込み。
今度は連撃。
速さだけじゃない。
間合いの取り方が巧い。
逃げ場を潰してくる。
ミリィは下がる。
避ける。
いなす。
だが──
視界が、わずかに揺れる。
一瞬、足元の感覚が曖昧になる。
「……っ」
遅れる。
剣が、頬をかすめた。
細い赤い線が走る。
観客がどよめく。
それでもミリィは笑っていた。
崩さない。
絶対に。
「……大丈夫、です」
誰に向けたでもなく、呟く。
男の眉が、わずかに動く。
違和感。
「……体調が悪いのか?」
問い。
ミリィは答えない。
代わりに。
一歩、踏み込んだ。
その動きは、さっきまでと違った。
迷いがない。
男が反応する。
だが一瞬遅れる。
ミリィの拳が、懐へ潜り込む。
「っ……!」
衝撃。
男の体がわずかに浮く。
すぐに距離を取る。
だが、その目に明確な警戒が宿る。
今の一撃。
軽くはない。
ミリィはその場に立ったまま、小さく息を吐いた。
まだ、いける。
そう言い聞かせるように。
男の足が止まる。
わずかに距離を取り、呼吸を整える。
その視線は、先ほどまでとは違っていた。
完全に“警戒”へと変わっている。
ミリィはその場に立ったまま、小さく息を吐いた。
肩がわずかに上下する。
視界の端が、じんわりと滲む。
それでも。
笑顔は、崩さない。
「……」
男が、静かに構え直す。
両手の剣が低く構えられる。
踏み込みの予備動作。
来る。
ミリィは、ほんのわずかに目を閉じた。
“見てる……よね”
返事はない。
確証もない。
それでも。
次に目を開いたとき、その迷いは消えていた。
踏み込む。
同時。
男も動く。
左右から挟み込むような斬撃。
今までで一番速い。
だが。
ミリィは止まらない。
前へ。
そのまま、剣の内側へ滑り込む。
「なっ……!」
男の目が見開かれる。
届かない間合い。
そのさらに内側。
ミリィの手が、男の胸元に触れる。
次の瞬間。
衝撃。
音が遅れて弾ける。
男の体が大きく弾き飛ばされる。
地面を滑り、数歩分転がって、ようやく止まる。
沈黙。
一拍遅れて、歓声が爆発した。
ミリィはその場に立っていた。
そのまま、ゆっくりと手を下ろす。
足元が揺れる。
ぐらり、と。
それでも。
倒れない。
倒れないまま、観客席へと顔を向ける。
そして──
にこりと、笑った。




