小さな依頼ー
朝から晩まで、予定は途切れなかった。
剣聖の盾の訓練、視察、会議、闘技場での公開試合――。
気がつけば、空は何度も色を変えていた。
ミリィは机に突っ伏しそうになりながら、最後の報告書に目を通す。
文字が、少しずつ意味を持たなくなっていく。
「……これで、本日の日程は以上ですわね」
アナリスタの声が響く。
横ではオセロットが腕を組んで立っていた。
「明日はもう少し軽くしろ」
「軽く?」
「軽く」
即答だった。
ミリィはそのやり取りを聞きながら、小さく頷くことしかできない。
返事をする力すら、ほとんど残っていなかった。
翌朝、早朝にミリィはベッドを抜け出した。
廊下は静かだった。
誰もいない。
灯りも少ない。
ミリィはそっと扉を開ける。
周囲を確認する。
……誰もいない。
小さく息を吐く。
「……ちょっとだけ……」
誰に言うでもなく呟く。
そして、静かに歩き出した。
最初は普通に。
次第に早足に。
そして気づけば、ほとんど小走りになっていた。
鎧もない。
報告書もない。
誰かの視線もない。
ただの、自分だけの時間。
それが、こんなにも軽いものだったのかと驚く。
城門を抜けた瞬間、早朝の空気が頬を撫でた。
冷たくて、静かで、少しだけ自由だった。
ミリィは立ち止まり、空を見上げる。
「……少しだけ、息抜き……」
その声は、夜に溶けて誰にも届かないまま消えた。
ミリィは立ち止まったまま、そっと胸元に手を当てた。
指先が触れたのは、首から下げたネックレス。
そこに通された、十の指輪だった。
早朝の淡い光の中で、それらは静かに揺れている。
ミリィはそれを軽く握るようにして、目を閉じた。
呼吸が、少しずつ整っていく。
さっきまで重く沈んでいた疲れが、ほんのわずかだけ遠のいた。
「……よし」
小さく息を吐き、手を離す。
ネックレスは胸元に戻り、指輪たちは静かに収まったまま揺れる。
ミリィはもう一度空を見上げる。
夜は変わらず静かで、冷たくて、それでも少しだけ優しい。
そして、何事もなかったように歩き出した。
空はまだ薄く青みがかっていた。
夜と朝の境目が曖昧な時間。
街は静かで、ところどころに早起きの商人や掃除人の気配があるだけだった。
その静けさの中を、ミリィは歩いていた。
足音だけがやけに響く。
(……誰にも、見つかりたくない)
そう思った瞬間、自分の格好に気づく。
剣聖のままの服装。
この時間帯ならまだ人は少ないが、それでも目立ちすぎる。
ミリィは足を止め、ゆっくりと周囲を見回した。
すぐ近くに、朝から開いている小さな服屋の明かりがあった。
ほんのりと灯るランプの光が、まだ眠っている街の中でそこだけ生きているように見える。
ミリィは迷わずそこへ向かった。
扉を開けると、店主が眠そうな目をこすりながら顔を上げた。
「……おや、こんな早くに」
「すみません、すぐ使える服、ありますか」
短くそう言うと、店主は一瞬だけ目を瞬かせたが、すぐに頷いた。
「旅の方かい。ならこっちだね」
奥から出されたのは、目立たない、どこにでもあるような服だった。
動きやすく、余計な装飾もない。
ミリィはそれを受け取り、すぐに着替えた。
鏡に映る自分は、さっきまでの“剣聖”ではなかった。
ただの、少し眠そうな少女。
それだけだった。
ミリィは小さく息を吐く。
「……これでいい」
店を出ると、朝の空気はまだ冷たかった。
だがその冷たさは、むしろ心地よい。
ミリィはニット帽をかぶり、髪を隠すように整える。
眼鏡をかけると、世界が少しだけ遠くなる。
それが今は、ちょうどいい距離だった。
遠くで鳥の声がした。
街が目を覚まし始める、その前の一瞬の静けさ。
ミリィはその中へ、そっと歩き出した。
誰もいない朝の街は、思っていたよりもずっと静かだった。
まだ空は薄く青く、太陽も完全には顔を出していない。
石畳に残る夜の冷たさが、靴底からじんわりと伝わってくる。
ミリィはゆっくりと歩いていた。
誰かに呼ばれることもない。
視線を向けられることもない。
ただ、街がそこにあるだけ。
その感覚が、妙に新鮮だった。
「……こんな時間、あったんだ」
小さく呟く声が、朝の空気に溶けていく。
肩の力が抜ける。
気づかないうちにずっと張り詰めていたものが、少しずつほどけていくのが分かった。
足取りは自然と軽くなる。
理由もなく角を曲がってみる。
誰にも急かされないからできる動きだった。
パン屋の前を通ると、まだ開店準備の匂いだけが漂っている。
遠くで水を撒く音がして、朝がゆっくりと始まっているのが分かる。
ミリィは立ち止まり、空を見上げた。
雲は薄く、光はまだ柔らかい。
その全部が、今だけは自分のもののように感じられた。
「……自由、ってこういう感じなんだ」
誰に届くわけでもない言葉。
それでも、口にしたかった。
ミリィは小さく笑う。
さっきまでの疲れも、緊張も、少しだけ遠くに感じる。
そして、何も決めずに、もう一度歩き出した。
ひとしきり朝の街を歩き回り、ミリィはようやく足を止めた。
空は少しずつ明るさを増し、街にも人の気配が戻り始めている。
(……そろそろ戻らないと)
名残惜しさと、ほんの少しの満足感が同時に胸に残っていた。
その時だった。
少し先の小さな広場のような場所に、数人の子供たちが集まっているのが見えた。
朝の光の中で、輪になって何かをしている。
ミリィは自然と足を向けていた。
気になっただけだった。
本当に、それだけのつもりだった。
輪の外側からそっと覗き込む。
地面には簡単な線が引かれ、小石や木の枝がいくつか並べられている。
どうやら遊びの最中らしい。
子供たちは真剣な顔で何かを話し合っていて、時折笑い声がこぼれる。
その無邪気さに、ミリィは少しだけ目を細めた。
(いいな……)
そう思った瞬間だった。
ふと、一人の子供と目が合う。
ほんの一瞬。
時間が止まったような間。
次の瞬間、その子供がぱっと表情を明るくした。
「ねえ、この人もやるの!?」
声が上がる。
輪の中の視線が一斉にこちらへ向く。
ミリィは一歩、半歩だけ後ずさる。
「え、あ、いや、私は……」
言いかけた声は、もう遅かった。
子供たちはもう興味津々で、手を振ったり、近寄ってきたりしている。
逃げるには遅く、断るには近すぎる距離だった。
ひとしきり遊び終えた頃には、ミリィは完全にへとへとになっていた。
子供たちの勢いに押され続け、気づけばルールはめちゃくちゃになり、勝敗も途中から曖昧になっている。
それでも子供たちは満足そうに笑っていた。
ミリィは地面に座り込んだまま、小さく息を吐く。
(……つ、疲れた……)
こんなふうに全力で遊んだのは、本当に久しぶりだった。
その時だった。
一人の少年が立ち上がる。
少し得意げな顔で、周囲を見回すと、妙に大人びた声で言った。
「なあ、お前ら。“パンチラ剣聖”の話、知ってる?」
一瞬、空気が止まった。
ミリィの思考も止まる。
「……は?」
頭の中で、その言葉だけが反響する。
パンチラ。
剣聖。
意味を理解した瞬間、血の気が一気に引いた。
次の瞬間、耳まで真っ赤になる。
「……っ」
声にならない。
体が固まる。
呼吸の仕方が一瞬わからなくなる。
子供たちの会話は勝手に続いている。
「風でこうなってさ!」
「蹴るときにさ、こう……すごい動きするんだよ!」
「服がひらってなるの!」
「でもめっちゃ強い!」
ばらばらの言葉が、一つの像になってしまった瞬間。
ミリィの顔から、さっと色が引いた。
「……っ」
喉の奥が詰まる。
言葉が出ない。
代わりに、耳の先まで一気に熱が広がった。
子供たちは悪気もなく、むしろ誇らしげに話し続けている。
「すげーんだぜ、あの剣聖!」
「かっこいいよな!」
その“かっこいい”が、今はまっすぐ刺さる。
ミリィはゆっくりと視線を落としたまま、小さく体を縮める。
(……やめて……)
否定したいのに、どう言えばいいのか分からない。
ただ、胸の奥がじわじわと熱くなって、顔を上げられなくなっていた。
ミリィは逃げるようにその場を去ったのだった。
街はちょうど昼の明るさに包まれていた。
人通りも増え、日常のざわめきが戻ってきている中、ミリィは帰り道を歩いていた。
その背中に、小さな足音が駆け寄ってくる。
「ねえ!」
振り向くと、さっきまで一緒に遊んでいた女の子が、少し息を切らしながら立っていた。
ミリィはしゃがみ込み、目線を合わせる。
「どうしたの?」
女の子は少しだけ迷ってから、ぽつりと言った。
「この前ね、お母さんとお父さんと一緒に、森に薬草取りに行ったの」
ミリィは静かに頷く。
女の子は視線を落としながら、小さな声で続ける。
「そのとき……髪飾り、落としちゃって」
大事なものなのだとすぐに分かる言い方だった。
「お母さんには“森は危ないからもう行かない”って言われたんだけど……でも、それ、ずっとつけてたやつで」
言い切れずに、言葉が途切れる。
代わりに、女の子はミリィを見上げた。
助けてほしい、というよりは、ただ困っているだけの目だった。
ミリィは一度だけ瞬きをして、小さく息を吐く。
「……森に?」
女の子はこくりと頷く。
「うん。あのあたりまでなら、わかるの」
少しの沈黙。
森は近い。
危険がないとは言えない距離。
それでも理由は、小さくて、でも切実だった。
「……少しだけだよ」
ミリィがそう言うと、女の子の顔がぱっと明るくなる。
「ほんと?」
「うん。見つけたらすぐ帰ろうね」
何度も頷く女の子。
そして二人は、昼の光に揺れる森へと足を向けていった。




