なんてったって剣聖ー
王都グランドベルドの一角。
石畳の喧騒から少し離れた場所に、その公園はあった。
手入れの行き届いた芝生と、ゆるやかに揺れる木々。
中央には小さな噴水があり、水音が静かに空気を満たしている。
――ある日。
ミリィは、その公園を一人で歩いていた。
今日の彼女は、淡いベージュのワンピースに身を包んでいる。
主張しすぎない柔らかな色合いは、周囲の景色に溶け込むようで――
まるで「ただの少女」に戻ったかのようだった。
ポニーテールも、風に揺れてやわらかく弾む。
いつもより少しだけ、目立たない。
それが、今のミリィにはちょうどよかった。
だがその足取りは、どこか慎重で――
周囲を気にするように、時折きょろきょろと視線を巡らせている。
号外が出てからというもの。
王都のどこを歩いても、人の視線が集まるようになった。
名前を呼ばれ、囲まれ、声をかけられ。
歓迎と熱狂は、確かに温かいものではあるけれど――
それは同時に、“休まる場所がない”ということでもあった。
常にオセがそばにいて、人払いをしてくれてはいた。
けれどそれはつまり、
一人になる時間が、ほとんどなくなったということ。
だから――今日は。
ほんの少しだけ、こっそりと抜け出してきた。
オセにも何も言わず、気づかれないように。
少しだけ、悪いことをしているような気持ちを抱えながら。
ミリィは、ゆっくりと息を吐く。
「……静か……」
ぽつりと漏れる声。
誰にも聞かれない、独り言。
それだけで、胸の奥が少しだけ軽くなる。
噴水のそばのベンチに腰を下ろす。
ベージュのスカートがふわりと広がり、膝の上にやさしく落ちる。
背もたれに身体を預け、空を見上げた。
青い空。
流れる雲。
遠くで聞こえる、子供たちの笑い声。
――何でもない、当たり前の景色。
でも今のミリィにとっては、それがとても特別で。
とても、心地よかった。
両手を膝の上に置き、そっと目を細める。
「……こういうの、好き……」
小さく、微笑む。
誰にも見られていないからこそ浮かぶ、飾らない笑顔。
そのまま、しばらく。
何も考えず、ただ風に揺れる木々を眺めていた。
――ようやく手に入れた、ほんの少しの静かな時間。
静かな時間は、長くは続かなかった。
砂利を踏む足音。
複数――三人分。
ミリィの耳が、ぴくりと反応する。
顔を上げると、こちらへ向かってくる若者たちの姿があった。
そのうちの一人が、おそるおそる声をかけてくる。
「あのー……もしかして、剣聖様?」
突然の呼びかけに、ミリィの身体がびくりと跳ねる。
反射的に背筋をぴんと伸ばし――
「ハ、ハイ!剣聖です!」
素っ頓狂な返事が飛び出した。
一瞬の沈黙。
そして次の瞬間――
若者たちの間に、ざわりとしたどよめきが広がる。
「ほら、言ったろ?やっぱりそうだった」
「すげぇ!マジ剣聖だ!」
「むちゃくちゃかわいい」
一気に距離が縮まる。
囲まれる。
ミリィは思わず苦笑いを浮かべた。
逃げ場がない。
でも、嫌ではない。
ただ――少し、戸惑う。
「あ……あの、何か……?」
おずおずと問いかけると、三人は顔を見合わせ――
一人が一歩前に出た。
「サイン、もらえませんか?」
ミリィは一瞬きょとんとする。
そしてすぐに、慌てて頷いた。
「サイン……? は、はい。私のでのよろしければ……」
言い終えるよりも早く。
別の若者が、すっと手を差し出してくる。
「あと、握手してください」
ミリィは一瞬だけその手を見つめ――
遠慮がちに、そっと握り返した。
「ハ……ハイ、私でよければ……」
柔らかく、慎重な握手。
触れるだけのような優しさ。
だが、それだけで若者の顔がぱっと明るくなる。
そして――
三人目が、にやりと笑いながら両手を広げた。
「それとハグしてもらっていいすか?」
その言葉に、ミリィの思考が一瞬止まる。
だが。
断る、という選択肢がすぐに出てこない。
頼まれたら応えてしまう。
それがミリィだった。
ゆっくりと立ち上がる。
スカートがふわりと揺れる。
そして、少し戸惑いながらも両手を広げた。
「ハイ……私でよければ……え?...ハグ?」
さすがに躊躇するミリィ。
戸惑いが、そのまま仕草に出ている。
――その瞬間。
若者たちの目が、わずかに変わった。
差し伸べたままの両手。
そのまま、ミリィの動きが一瞬だけ止まる。
若者たちの空気が、わずかに変わったのを――感じ取れなかったわけではない。
けれど、それが何なのかまでは分からない。
ただ、少しだけ胸がざわつく。
「剣聖様ってさぁ、頼まれたら断れないんでしょ?」
軽い口調。
だが、その響きにはどこか馴れ馴れしさが混じる。
「だったら俺らといいことしようよ」
ミリィはきょとんと瞬きをした。
「いいこと……?いいことって……なんですか?」
まっすぐな疑問。
疑いのない、純粋な声。
その反応に、若者たちは顔を見合わせて笑う。
「いいことはいいことだよ」
「ほら、行こうよ」
「すぐそこだからさー」
言葉と同時に、距離がさらに詰まる。
左右から伸びてくる手。
ミリィの手首が、それぞれに掴まれる。
びくり、と肩が揺れる。
「ちょ、ちょっと待って……ください」
困惑の声。
だが、強く振りほどくことができない。
後ろから、もう一人が軽く背中を押す。
一歩、前へと動かされる。
「出かけるなら一言言ってから出ないと……」
思わず口をついて出た言葉。
まるで、誰かに言われてきたことをそのままなぞるように。
その様子に、若者の一人が笑う。
「大丈夫大丈夫。もう大人なんだからさー」
軽い調子。
だが、その手は離れない。
引かれるまま、押されるままに歩かされる。
ミリィの足が、迷うように止まりかける。
けれど――
どうすればいいのか、分からない。
断るべきなのか。
逃げるべきなのか。
それとも、応えるべきなのか。
頭の中が、うまくまとまらない。
ただ一つだけ――
胸の奥で、小さな違和感が膨らんでいく。
「……あの……ほんとに……どこに……?」
不安げな声が、か細く揺れた。
三人の手に引かれるまま、ミリィの歩みはわずかに前へと進む。
不安と戸惑いが、胸の奥で小さく渦を巻いている。
だが――
強く振りほどくことができない。
「大丈夫大丈夫、大丈夫だってー」
軽い声が重なる。
根拠のない“安心”が、押し付けられるように。
ミリィは揺れる瞳のまま、掴まれた手を見下ろした。
「大丈夫なら……いいんですけど……?」
自信のない同意。
納得ではなく、流されるような返事。
「若い奴はみんないくとこだよー」
その言葉に、ミリィは小さく首を傾げる。
「そうなんですね……私、そういうのに疎くて……」
素直に信じようとする。
知らないことを、知ろうとする。
それが彼女の性質だった。
「いいからいこう!時間がなくなるよ!」
ぐい、と腕が引かれる。
一歩、また一歩。
ミリィの身体が前へと運ばれる。
その言葉に、ミリィの表情がはっと変わる。
「あ……時間が……それは急がないとですね」
思わず頷いてしまう。
その“時間”が何なのかも分からないまま。
ただ、“急がなきゃいけない”という言葉だけを受け取って。
足取りが、ほんの少しだけ速くなる。
――だが。
胸の奥の違和感は、消えなかった。
むしろ、はっきりと形を持ち始める。
何かが違う。
何かがおかしい。
けれど、それが何なのか――
まだ、言葉にならない。
三人に引かれるまま、歩き出しかけたその時――
背後から、空気を叩き割るような声が飛んだ。
「『それは急がないとですね』じゃねぇーわっ!」
その一言で、場の空気が一変する。
若者たちも、ミリィも、反射的に振り返った。
そこに立っていたのは――
黒髪に、褐色の肌。
見慣れた少年の姿。
ミリィの瞳が、ぱっと揺れる。
「あ……オセ……」
安堵と、気まずさと、少しの後ろめたさが混ざった声。
オセはじっとりとした目でミリィを見据える。
一歩、ゆっくりと近づく。
「ミリィ様ぁーこんなとこで一体なにしてんすか!?」
抑えているようで、抑えきれていない声音。
怒っている。
けれどそれ以上に――呆れている。
ミリィは思わず肩をすくめた。
掴まれていた手が、するりと緩む。
「ご……ごめん……ちょっと1人になりたくて……」
しゅんとした声。
視線を落としながら、小さく言い訳をする。
オセは一瞬だけ言葉を失い――
そのまま、深くため息を吐いた。
「……はぁー……」
長く、重い息。
それから、視線をゆっくりと若者たちへと向ける。
先ほどまでとは明らかに違う、冷えた目。
「で?」
短い一言。
それだけで、空気がぴんと張り詰める。
若者たちの顔から、さっきまでの軽さがわずかに消える。
ミリィはその場に立ち尽くしたまま、二人を交互に見た。
まだ状況を完全には理解できていない。
けれど――
さっきまで胸にあった違和感が、ようやく“形”を持ち始めていた。
オセは軽く首を鳴らすようにして、若者たちを一瞥した。
「とりあえずーあんたらはどっか行けよ。オラ、シッシッ」
まるで野良犬でも追い払うような手つき。
ぞんざいで、容赦がない。
その空気に押されたのか、若者たちは顔を見合わせ――
気まずそうに、何も言わずその場を離れていく。
足音が遠ざかる。
静けさが、戻る。
ミリィはその背中を見送りながら、小さく声を漏らした。
「あ……」
ほんの少しだけ、名残惜しそうな響き。
そして、くるりとオセに向き直る。
「……あの人たち……私とどこか行きたかったみたいだけど……いいのかな?」
心配そうな声。
悪いことをしてしまったのではないか――そんな表情。
オセはそれを聞いて、わざとらしく大きくため息をついた。
「いいんすよ!いや、ぜんぜんよくないっす!」
自分で言って、自分で否定する。
ミリィの目がぱちぱちと瞬く。
「……え?……どういうこと?」
本気で分かっていない顔。
オセはこめかみを押さえた。
「ミリィ様さぁ、このパターン何回目っすか?」
呆れを隠さない声。
ミリィはきょとんと首を傾げる。
「パターン?」
オセの肩が、がくっと落ちた。
「若い奴らにナンパされて、ついていこうとして、俺に助けられる」
一つ一つ区切るように言う。
だがミリィの反応は――
「……え? ナンパ?」
完全に初耳だった。
オセは天を仰いだ。
「そっからかよぉー……」
頭を抱えたくなるのを堪えるように、深く息を吐く。
ミリィはなおも困惑したまま、ぽつりと呟いた。
「……いいこと、するって言ってたけど……?」
その一言で。
オセの表情が、ぴたりと固まった。
そして――
ゆっくりと、ミリィを見下ろす。
「……絶対ついていかせちゃダメなやつっす、それ」
ミリィは、去っていった若者たちの背中をしばらく見つめたまま――
ぽつりと、言葉をこぼす。
「……でも……」
そのまま視線が遠くへと向く。
今ではない、どこか別の時間を見ているような目。
「子供の頃、ずっと一緒に旅していた男の方が時々『いいとこ連れてってやる』って...私を夜の街に連れ出して……いろいろな場所に連れて行ってくれて……」
静かに、懐かしむように語る声。
オセはそれを聞いて、眉をひそめた。
「……まーた、『あの人』の話っすか」
どこか呆れたような、しかし少しだけ警戒するような響き。
ミリィは気づかないまま、言葉を続ける。
「深夜に……甘いものや脂っこいものを……たくさん食べさせてくれて……そんな、すごくいけないことして……それがとても素敵な時間で……」
両手の指をきゅっと絡ませる。
胸の前で、小さく抱きしめるように。
頬がほんのりと緩み、瞳がとろんと細められる。
「……あの時間が……とても好きだったなぁ……」
うっとりとした声。
完全に、思い出の中に浸っている。
オセはその横顔をじっと見つめて――
深く、長いため息を吐いた。
「……いやそれ、“いいこと”の意味が全然違うやつっすからね」
ぼそりとしたツッコミ。
ミリィははっとして、こちらを向く。
「……違うの?」
本気で分かっていない顔。
オセは一瞬だけ言葉を選び――
やがて、諦めたように肩をすくめた。
「違うっす。それはただの“夜更かしと食べ歩き”っす」
はっきりと言い切る。
ミリィはきょとんとしたまま、少しだけ首を傾げた。
「……じゃあ、さっきの人たちは……?」
不安と疑問が混じる声。
オセは即答した。
「ろくでもないやつっす」
一切の迷いなし。
その言葉の重さに、ミリィはようやく少しだけ表情を引き締める。
胸の奥に残っていた違和感が――
ようやく、“警戒”という形に変わり始めていた。
ミリィは、まだどこか納得しきれていない顔で、小さく首を傾げた。
「……なんか……難しい、ねぇ?」
ぽつりと漏れる本音。
眉を寄せながらも、どこか他人事のような響き。
それを聞いたオセは、即座に顔をしかめた。
「ぜんぜん難しいことねぇっすよ!ミリィ様警戒心無さすぎ!チョロ軽かよ!」
容赦のない言葉。
ミリィがびくりと肩を揺らす。
「チョ……なんかよくわからないけど、馬鹿にされてる……?」
じとっとした目。
心外そうに唇を尖らせる。
その反応に、オセは一瞬だけ言葉を詰まらせて――
やがて、深くため息を吐いた。
「……こりゃダメだ……マジなんとかしねぇと」
半分、本気の声。
ミリィはその言葉にきょとんとする。
「なにを……?」
純粋な問い。
その無防備さに、オセはこめかみを押さえた。
「全部っすよ、全部」
呆れたように言いながらも、視線はどこか真剣だった。
ミリィは少しだけ不安そうに、服の裾をぎゅっと握る。
「……私、そんなに変……?」
小さな声。
オセは一瞬だけ視線を逸らし――
それから、まっすぐにミリィを見る。
「変っていうか……危なっかしいんすよ」
少しだけトーンを落とした言葉。
怒りではなく、心配。
それがそのまま滲んでいた。
ミリィはその言葉を受けて、ほんの少しだけ目を伏せる。
「……そっか……」
小さく頷く。
完全には理解できていない。
それでも――
“何かよくないことだったらしい”ということだけは、感じ取っていた。
風が吹く。
ベージュのワンピースの裾が、ふわりと揺れる。
その中で、オセはぽつりと呟いた。
「……とりあえず、もう一人で出歩くの禁止っすね」
ミリィの肩が、ぴくりと跳ねた。




