0.0001秒の奇跡ー
「……もう、これしか……ない!!」
ミリィが全力で地を踏み込む。
瞬間、世界から音が消えた。
時が止まったかのように、対峙する女騎士も、固唾を呑む審判も、数多の観客たちも、その動きを止める。静止した世界の中を、ミリィだけが神速で駆け抜けた。
凄まじい風圧に耐えきれず、シャツとブレザーのボタンが弾け飛び、布地が大きく翻る。
逆立ったスカートの裾が舞い上がり、すべてが白日の元にさらされる。
「……っ!!」
羞恥に頬が熱く火照り、耳まで真っ赤に染まる。
滲んだ涙が頬を伝うが、それでも彼女は止まらない。今、この一瞬で全てを終わらせる。乱れた身なりをかなぐり捨て、ミリィは女騎士の懐へと肉薄した。
驚愕に見開かれた瞳の前で、その剣を奪い取り、膝に叩きつけて一気にへし折る。
返す刀ならぬ拳を、無防備な鳩尾へと深々と叩き込んだ。
「が、あ……」
くの字に折れ曲がる騎士の身体を優しく受け止め、床の上へと静かに横たえる。
だが、ここからが彼女にとっての戦いだった。開いたままのシャツのボタンを神速でかけ直し、ジャケットを整えて前を閉じる。
捲れ上がったスカートの裾を手早く撫で下ろし、何事もなかったかのように背筋を伸ばした。安堵の吐息を一つ。
そこまで、わずか0.0001秒。
誰の目にも映らぬ、神速の攻防。
そして、止まっていた時が再び動き出す。
舞台に残るのは――
剣を折られ、静かに倒れる女騎士と、
その傍らに、まっすぐに立つミリィの姿。
背筋はすっと伸び、視線は正面。
先ほどまでの動揺が嘘のように、凛とした空気をまとっている。
深く息を一つ。
静かに剣を収める仕草。
そして――
観客へ向けて、そっと一礼。
その所作には、無駄がなく、気品があり、確かな強さがあった。
数瞬の静寂ののち。
「うおおおおおお!!」
割れんばかりの歓声が、闘技場を包み込む。
称賛、驚嘆、そして憧れ。
そのすべてを受けながら――
ミリィはほんの少しだけ、頬を染めたまま、視線を伏せる。
それでもすぐに顔を上げると、
まっすぐに前を見据えた。
次の試合へ。
次の戦いへ。
剣聖としての歩みは、まだ続いていく。
ミリィはさりげなくスカートの裾を押さえながら、それでも表情は崩さず、観客へ笑顔で手を振り続ける。
意識のほとんどは、どうしてもそこに向いてしまう。
けれど――
「……だいじょうぶ……」
小さく息を整え、歩みを保つ。
焦りを押し込めるように、背筋を伸ばし、あくまで優雅に。
観客に見せるのは、剣聖としての姿。
動揺は一切、外に出さない。
少しだけ歩幅を速めながらも、所作は丁寧に。
やがて――
登場口が見えてくる。
「……はぁ……」
ほんのわずかに緊張が緩む。
だが気は抜かない。
胸元とスカートを軽く整え、周囲に気を配りながら――
小走りで控え室へと向かう。
通路の途中。
どこかでオセの気配があった気がした。
「……」
一瞬、視線が向きかける。
けれど――今はそれどころじゃない。
そのまま素通りし、控え室の扉へと向かう。
扉をくぐる直前。
もう一度だけ深く息を吸い――
「……ふぅ……」
ようやく、少しだけ肩の力を抜いた。
ミリィが慌てて顔を上げると、控え室のドアがノックされた。
コン、コン。
「……は、はい!」
返事をすると、オセが扉を開けて入ってくる。
少しだけ不機嫌そうな顔。
「ミリィ様ー!なんでさっき無視したんすかー!?」
「ご、ごめんなさい……ちょっと、急いでて……」
オセは腕を組んで、じとっとした視線を向ける。
「なんすか? また漏らしそうだったんすか?」
「もら...人聞きの悪いこと、言わないでぇ!」
ミリィが慌てて首を振る。
オセはため息をついて、肩をすくめた。
「まぁいいっすけど……無理はしないでくださいよ」
その言葉に、ミリィは一瞬だけ目をぱちくりさせる。
「……オセ……」
少しだけ、怒られると思っていた気持ちが和らぐ。
それでも、すぐに表情を引き締めて。
「……次も、頑張るから」
オセは軽く笑って、親指を立てる。
「その調子っす!」
控え室の空気は、もういつもの調子に戻っていた。
そしてー
準決勝の舞台。
張り詰めた空気の中、鐘が高く鳴り響く。
キィン――!
その音を合図に、時間が動き出す。
ミリィの対面に立つのは、小柄な拳闘士風の男。
無駄のない構え、鋭い眼光、そして静かな圧。
「この人……きっと強い」
ミリィはごくりと喉を鳴らす。
だが、その目はすでに逃げていない。
両手の拳を胸の前に構え、姿勢を整える。
「……行きます」
小さく呟き、前へ。
――一歩。
その瞬間。
男が動いた。
低く踏み込み、鋭いジャブが放たれる。
速い。
だが、ミリィはほんの半歩だけ横にずれる。
最小限の動きで、攻撃をいなす。
観客席からざわめきが起こる。
男は一度距離を取り、にやりと笑う。
そして再び――
一気に踏み込んだ。
今度はフェイントを交えた連撃。
ミリィはそれに合わせるように、呼吸を整えながら――
一つ一つ、確実にさばいていく。
受け流す。
かわす。
最短の動きで、最小の隙を突く。
「……っ」
ミリィの瞳が、鋭く変わる。
ただ守るだけじゃない。
勝つために。
次の一手を、探し始めていた。
ミリィは攻防の最中、ふと思い出す。
「あ、そうだった……」
オセの指示①。
「準決勝はなるべく足技をメインに、大きく動いて戦ってください」
「……なるほど……?」
意図は完全には分からない。
けれど――
「……やってみる」
ミリィは一歩、踏み込む。
相手の拳をすり抜けるようにいなし、最小限の動きでかわす。
そして――
あえて大きく。
踏み込みと同時に、しなやかに体をひねる。
回し蹴り。
鋭く、そして堂々とした軌道。
男は紙一重でそれを避ける。
「……っ!」
だが、その動きに合わせて――
観客から歓声が上がる。主に、男性の歓喜の声。
「おおおっ!」
「け、剣聖様の!!」
ミリィは一瞬、きょとんとする。
「……?」
さらに攻防は続く。
踏み込み、蹴り、ステップ。
一つ一つの動きを、あえて大きく見せるように。
やがて――
踏み込んでの踵落とし。
天を突かんとばかりにまっすぐに振り上げた右足を一瞬静止させる。
その瞬間――
大きなどよめきと歓声が広がる。
「うわぁっ!すごい!」
「剣聖さまー、いいぞぉ!」
そこから一気に叩き落とす一撃。
相手は咄嗟に後退してかわす。
「……なんだろう……」
ミリィは一瞬、手を止めかける。
だがすぐに表情を引き締める。
「……喜んでくれるのは……いいけど……」
戦いの最中。
まだ完全には理解できないまま。
それでもミリィは、オセの言葉を信じて――
次の動きへと、集中を戻した。
ミリィは小さく頷く。
「派手な技の方が……いいってこと、だよね?」
次の瞬間――
後方へ跳ぶ。
軽やかに、三度のバク転。
空気が切り裂かれるような動きに、観客席からどよめきが広がる。
「すげぇ……!」
歓声が一気に熱を帯びる。
ミリィはそのまま着地し、すぐさま構え直す。
間合いを取り、一瞬だけ呼吸を整える。
そして――
駆け出す。
一直線に。
相手の前で――
身体を大きく捻る。
「……っ!」
鋭く放たれる、浴びせ蹴り。
拳闘士は腕を交差し、それを受け止める。
だが――
その衝撃は想像以上だった。
体勢が崩れ、そのまま押し込まれる。
拳闘士の身体が地面へと倒れ、滑るように転がる。
そして――
動かない。
一瞬の静寂。
審判が駆け寄り、確認する。
やがて――
大きく両手が振られた。
「勝者、ミリィ!」
次の瞬間――
闘技場が揺れるほどの歓声が爆発した。
「うおおおおお!!」
ミリィは静かに息を吐き、倒れた相手に一礼する。
そして、ゆっくりと立ち上がる。
観客の歓声の中――
まっすぐ前を見据えた。
次はいよいよ、決勝へ。
通路を戻ってきたミリィに、オセが勢いよく親指を立てる。
「さすがミリィ様!わかってるじゃないすか!観客の盛り上がりピークっすね!」
ミリィはぎこちなく笑顔を保ちながら、小さく手を振る。
「う……うん、よくわからないけど……観客のみなさん、すごい熱い、よね」
心のどこかで引っかかるものを抱えたまま、それでも歩みは止めない。
「そりゃーそうでしょうよ!ミリィ様、さっきの動きで、蹴りのたびにパンツ丸見えだったっすから!いやー、ありゃあ盛り上がるに決まってますって!」
一瞬、空気が凍りついた。
「パッ……!?」
慌ててスカートの裾を抑えるミリィの顔が、瞬く間に耳の付け根まで、真っ赤に染まっていく。
先ほどまでの喝采の意味を理解し、全身を戦慄が走った。あまりの衝撃に、もはや言葉さえ出てこなかった。




