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リトライ  作者: 相原由紀
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休暇

[060501] 休暇


 俺はこの四月で大学三年になった。規定通り寮から引越し、大学沿線の駅から近くのアパートに引っ越した。

 いやアパートと言うには少し変わっている。元はどこかの会社の独身寮だったと言う。鉄筋コンクリート三階立て。屋上にも上がれる。しかしかなりの年代物だ。

 部屋は十畳程度の個室に狭いキッチンが付いている。トイレは共同で風呂は無い。入り口に共用のゲタ箱があり、公衆電話が設置されている。電話番号は交付されているので受けることもできるが、管理人がほとんど不在の為、玄関に近い部屋の人が取ってくれれば良いが、期待はできない。

 郵便物も玄関横に放置されるので並べられているのを自分で確認するしかない。時折気の効いたヤツが部屋まで持って来てくれたりすることもある。

 住人のほとんどが界隈の大学生であり、もちろん男ばかりである。稀に女性を見かけることもあるが、だれかの彼女とか、親族だったりである。

 ここを見つけたのは同じ寮に住む仲間であった。新学期前後と言うことで、入れ替わりのシーズンでもあり、空きが何部屋かあったので、気の合う仲間と一緒に移ってきた。

 大学ではゼミの中でも、より専門分野の習得の為、沢山ある研究室の中から選択し、これから卒業までの間に新たな課題を習得したり、現在進行しているプロジェクトに参加することになっていた。担当教授は、入試の時に初めて面接を受けた例の教授である。

 大学生と言うと豊富な時間が沢山あるように思えたが、俺の場合やることが山とあり、普段は朝のラッシュと同時に登校し、帰りは不規則だった。

 既に五月の半ばを過ぎており、いつもの時間、いつもの電車、そしていつもの扉と言う定位置にて通うことが日課となっていた。

 不思議なもので、そうなると、その車両の定位置には毎日同じメンバーが乗車していることに気がつく。サラリーマン、ОL、高校生、大学生等、様々な社会を構成する人種の平均的な寄せ集めのような感じがする。

 そして顔見知りになるが、だれもお互い会話を、するわけでも無く、ただ一時の時間を共有するだけだ。よって名前はおろか、個人的な情報は一切判らない。

 ただ、友達同士や、同僚で乗っている場合、その会話から、なんとなく想像がつくこともある。

 そんな中の、ある朝、いつも一人の女子大生が乗っているのに気がつく。時々、友達と一緒になっているので会話から、沿線にある短大の学生だと言うことがわかった。

 時々目が合うことがある、そんな場合、互いにハニカみながら目を逸らす。そうだった。いや、そんな気がするだけだが、前世、同じシュチエーションで知り合った女性に駅で降りた後、声をかけたのであった。それが前世の妻となったことは、覚えている。

 しかし、その顔が、全然思いだせない。他の記憶は問題ないのだが、彼女に関する全てが抹消されたように欠落しているのだった。

 前世より転移してきた初期は、そうでなかったと思う。ただ年月が立つにつれ、いや、前世と異なる現象、由紀と付き合うようになってから自然と消えていったような気がする。

 もしかすると、このいつも会う女子大生こそ、前世で声をかけた妻であったのかもしれない。

 背は低いが、可愛いく清楚な感じのする子だった。もし、由紀と何もなかったら、声をかけていたかもしれない。これも歴史の修正力とか、再現性と言うものだろうか。

 俺は次の日、彼女に声をかけた。降りる直前に。

「がんばってね。さようなら」

 彼女は、『えっ』と言っただけだった。

 次の日から、俺は電車の時間も場所も変えるようになった。彼女とは、それでお終まいだった。もし、前世の妻なら、いくら愛想をつかれて離婚されたとしても、そのくらい声をかけてやっても、許されるのではないかと思えた。


 今日は、田舎から由紀がやってくる日だった。連続で休暇を貰えたと言うことで、何日かこちらにいることができる。

 今まで数度、遊びに来ていたが、日帰りだったり、長くても土日で、しかも俺が寮だったので、一緒に夜を過ごすことはなかった。

 俺は、その日の帰りが楽しみで大学での講義がほとんど手につかなかったくらいだ。友人から見れば、ただ思いだしたようにニヤニヤしている様子は、さぞ異様だったに違い無い。

 俺は早足で、ホームや改札を抜け、駅からは走っていた。そしてアパートの下に付いた。俺の部屋を見てみると明かりが点いている。カギの置き場所は事前に伝えておいたので、由紀がそこに居てると思うと、なんとこの窓の灯りはいいものだと、しみじみ思える。

 部屋の前に立って、呼吸を整えてから入った。そこには、以前と変わりない由紀がエプロン姿で立っていた。

「おかえり」

「あっ、ただいま」

 俺はただ由紀が存在していることが感激で抱きしめようとしたが、制止された。

「ダメ、あぶないから」

 由紀はフライパンで器用に唐揚げを揚げていたのだった。

「もう少しまって。今、手空いてないし。お腹空いたでしょ。家から持ってきたものと駅からくる途中でも色々買ってきたから準備しなくっちゃ」

「うん。ごめん。つい興奮してしまって」

「うん。あたしもだけど、急ぐことないしね」

 しばらくしてから、料理が出来上がった。小さなテーブルだが、ところ狭しと由紀の手料理が並ぶ。

「今夜のメインは、ゆきカラとカレーなの。これ熱いから気をつけて開けて」

 由紀から、布巾に包んで渡されたのは何も塗装されてない缶詰だった。

「これ、試作品ができたからって貰ってきたの」

「まさか、そうなのか?」

「そうよ、懐かしの味よ」

 先輩達が卒業するときに缶詰にできないかと言っていた志賀高のカレーである。その後、卒業生からの要望もあり、缶詰にすると聞いていたが・・・

 もちろん湯で温めるだけで食べれる。その他にアボガドのサラダ、クラムチャウダーのスープ、苺とバニラを合わせたデザートもあるらしい。俺はもう。こんな贅沢な夕食はひさしぶりだし、志賀高カレーは卒業以来食べてない。目が潤んでくる。

「まったーご飯で感激するんだからー」

「いいじゃないか、こんな嬉しいのなら。あたりまえだよ」

「そうね。家へ来て始めて夕飯食べたときも、そうだったよね。いいから、沢山食べてよね」

 それから、色々な出来事等の会話をしながら、二人だけの晩餐を堪能した。そしてデザートになった。冷蔵庫から取り出してくる。なんと、漉し餡も入れられている。

「これね。家で試したのよ。そしたら、すっごくいいって、みんなこればっかりなのよ。ただ、餡は、つぶ餡じゃなくって、漉し餡ね」

「そっか、このトリプルコンビネーションは相原家にも受け入れられたか」

「コンビナート?」

(石油じゃないんだから・・・)

「なー由紀、ほんとに、今日ここでいいのか?前みたいに、どっかのホテルでも取らなくっても大丈夫?」

「だって、ホテルって高いよ。一週間もあるし、ここならタダでしょ」

「でも、布団も一つしかないけど」

「じゃぁ一緒に寝ればいいじゃない。お互い理性を持ってね」

「お風呂も銭湯だよ」

「それ、楽しみ。プールみたいなんでしょ」

「あはは、それほど広くはないし、飛び込んだらダメだけど」

「歌であるじゃない。二人で銭湯に行くやつ。あこがれだったんだぁ」

 その時は思い出せなかったが、後で神田川であることがわかった。夕食の後、早速、楽しみと言う銭湯に行った。だいたいの時間は打ち合わせてあったが、俺は、外でかなり待つことになった。ただ石鹸がカタカタ言うような時間でも、季節でもなかった。

「ごめーん。待った?」

「いいや、俺も今出たところ」

「すっごく良かったよ。あんな大きなお風呂で手足伸ばせるの、気持ちよかったー。でね、種類って言うか、色々あるでしょ。電気のやつとか」

「まさか、入ったのか?」

「うん。始めビビッたけど、入ると気持ちよかったよ」

「あれは、六十歳以上でないと気持ち良いなんて、ことにはならないんだ」

「うそでしょ。うそだよねー」

「うそ」

 俺達は正しく恋人のように、帰り道をジクザグに進んでいった。

「ねえ、さっきから、あたしの後ろばっかり付いてくるの。何かあるの?」

「由紀の匂いがするから」

「バカねーやめてよ変体―」

 もう、申し訳ないくらい幸せだった。一緒に暮らせば、毎日こんなのかもしれない。

 帰ってから、由紀が、いつかやっていたように俺の頭をタオルで乾かしてくれた。そして、テレビを遅くまで見て、寝るときになった。

 由紀は、『おじゃまします』と、言ってから布団に入ってきた。俺は抱き寄せ、腕の中に入れてやった。

「よく一週間も休み取れたね」

「だって、今年のお正月も、ずっと新しく出したお店出てたんだから。社長さんがね、偶には彼のところ行ってきたらって言ってくれたのよ」

「そっかーよかったね。そうだ、お店ってショッピングセンターの中だったよね」

「うん、そうよ。由香んとこの写真屋さんも最近DPE店出して、良く一緒になるの」

「そりゃー楽しそうだなー村田はどうしてる?」

「村田君も時々来るよ。そうだ。報告しなきゃ・・・」

「どうした。何かあったのか」

「村田君と由香、結婚するんだって・・・」

「そっかーそっかーそうかぁー」

 俺は嬉しかった。由紀をしばらく抱きしめた。少し長かったせいか、由紀の寝息が胸に当るのを感じた。

 そりぁそうだった。一日、田舎からの食材等沢山の荷物を持って移動や買い物、夕飯の支度と、疲れたのだろう。幸せそうな由紀の寝顔を見ていると、それだけで俺も幸せになる。この二度目の人生に感謝するとともに、今度こそ、由紀は絶対に幸せにしてやらねばと、強く思ったのだった。


 次の朝、俺が起きると、既に由紀が朝食を作っていた。味噌汁と出汁巻き玉子だった。

「まだ、寝ていたらいいのに」

 布団の中から由紀を見ていると。これもなんとも言えない光景だった。

「いや、もう起きるよ。もったいないから」

 出来たてのご飯に玉子焼きは、とっても合う。これぞ、日本の特権だった。いや由紀の特権だ。

 俺が弁当ではなく、おにぎりを希望したので、由紀は何種類かの具のものを作ってくれてもいた。それを持って学校へと行った。駅まで送ってくれた。

 由紀は一日ゆっくりすると言っていた。まだ日にちもあるので、普段仕事で忙しいだろうから、それもいいだろうと言うことになったのだった。

 その日の夕飯は鍋だった。家から持ってきたチヌの切り身に近くのスーパーで買った野菜や貝類の海鮮鍋である。このアパートでこんなに豪勢な夕飯を食べているのは、間違いなく俺だけだと思った。

「今日は、一日ゆっくりできた?」

「うん。ひさしぶりに暇ってのを体感したわ。ごろごろしてたし。あっ洗濯に行ってきたよ。コインランドリーってやつ。便利よねー」

 たしかに。俺の衣服が綺麗にたたんであった。

「それから、部屋の掃除と、お買い物」

「それじゃ休んでないじゃん」

「ううん。それでも時間が余るのよ。お昼のドラマも見たわ。なんかドロドロしたやつね」

「そっか、明日は、どうする?」

「どうしよおかなーほんと暇だから、どこか行こうかしら」

「だったら、学校に行ってみないか?」

「えっいいの?あたしが付いて行っても」

「あー全然問題無い。俺は講義があるけど、図書館もあるし。色々見て回るといいよ」

「楽しみー一度でいいから、そんなのしたかったの」

 夕食後、風呂に行き、帰ってからは、二人で音楽を聴いた。モーリスラヴェルだった。部屋の壁にもたれて、由紀と頭を重ね合わせる。

「なんか、悲しい感じの曲だけど、壮大だね」

「亡き王女のためのパヴァーヌってやつ。そうなってるけど、葬送の哀歌では無く、舞踏の曲なんだそうだ」

「そんな舞踏会って、あたしには似合わないね」

「それだけは、大間違いだと思う。由紀みたいに可愛いくって、スラッとしてたら、絶対光るよ。けど、機会が無いだけ」

「あら、何か企んでる?」

「ううん。事実を言っただけ」

「ありがとう。素直に頂いとくわね。それと、あれ、飾ってくれてるんだ」

 由紀は、壁の柱の所に掛けられた卒業の時交換した夏の制服を見て言った。

「うん。寮のときは、出せなかったけど、ここは個室だから。あれ見て由紀を時々思い出す。がんばらないとなーって」

「そうなの?ありがとう」

「魔除けにもなるしな。魔女とかの」

「なるほどね。そんな使いかたもあるのかぁー」

「そうだ。着てみてよ」

「ダメ。狼になっちゃうから」

「そうかなーかえって仙人になるのに」

 それから寝るときになった。由紀は、電気を消してと言った。しかも真っ暗に。しばく何かごそごそとやっていた。

「いいわよ。点けて」

 そこには高校のときの由紀がいた。夏の制服を着て、少し恥ずかしそうに立っている。

「じゃぁ寝ましょ仙人様」

 俺はそのまま抱き寄せ、布団の中で由紀の寝顔を見つづけた。


 次の日は、朝食を済ませ、朝から二人で電車に乗った。別に何の意識をしたわけでもないが、以前一緒だった女の子も少し離れて乗っていた。

「なー由紀、あそこの子、右のほうの、見覚えない?」

「さぁー記憶にないけど」

「どこかで見たような感覚があるんだけど、思いだせない」

「ひょっとして、前世の奥さんだったりして」

 俺は考えていたことを、そっくり当てられたので、少し驚いた。

「ほら、よく言うじゃない輪廻転生って。前世なんかで深く関わった関係は次の世でも、めぐり合うんだって」

「なるほど。でもこの世は由紀だけだ。そして、できれば、次の世も、よろしくお願いします」

「なにそれ、すっごく先まで予約するのね。あたしも、よろしくお願いします」

 そんな楽しそうな会話を見たのか、その彼女は向きを変えていた。

 大学に着くと、キャンパス内を案内してから、図書館に行った。由紀は高校の図書室とは規模も蔵書の数も桁違いな量に驚いていた。特に、各分野の専門書の量が多いことも。

 もちろん植物関係のセクションを探しだし、興味あるものを物色して回った。俺は午前中の講義に行くことを告げて図書館を後にした。

 昼前、戻るとまだ由紀は黙々と何冊もの本と格闘していた。この時代インターネット等は無いので、情報の収集はこのような専門書が多くある図書館は唯一最適なのである。まるで他の学生より由紀のほうが学生らしく見えるくらいだ。

「そろそろお昼行こうか?」

「あっ全然気が付かなかった。いつから見てた?」

「少し前から。大学生になった由紀を眺めてた」

「あはは、そんなふうに見える?あーお腹すいたぁ」

 大きく伸びをした後、本を元の位置に戻し、食堂に向かった。これも高校の食堂と規模が違うし広いスペース、学生の数に驚くと共に、同じようなものが三つもあると言うと更に驚いた。

「何食べる?」

「やっぱり、カレーでしょ。それで食堂の質が判るからね」

 俺は、思い留まらせるべく、止めたほうがいいと説得したが、一度は食べてみたいと言うことで由紀はカレーセット、俺は生姜焼き定食をセレクトした。

「なっ、まずいだろ?」

 少し食べて、あまり良い顔をしないのを見て、カレーと生姜焼きを取り替えた。

「ダメよ。選んだのは、あたしなんだから」

「ムリしなくっていいって。こっちはマシだから食べて」

 何度か、取替えの応酬を繰り返した挙句。

「わかった。半分こしよう。昔からの約束だからな」

 そう言うと、ニッコリして、最悪のカレーと、なんとか食べれる生姜焼きを、キッチリ半分づつ食べた。その後、カフェテリアで自動販売機のコーヒーを飲みながら話した。

「ねぇ、志賀高の食堂って、美味しかったんだね」

「そうだね、俺もここに来てつくづくそう思ったよ。しかも、同じ値段だしな」

「智史は、いっつもここで食べてるの?」

「始めのころ以外は、外へ出てるんだ。節約もかねて」

「ってことは、ここの食堂より安いの?」

「ああ、安くって、お腹いっぱいになる。味はこの際思考外。けど、他のスパイスで総合評価は極めて高い」

「そんな所あるんだったら、行ってみたいなぁ」

「じゃぁ行こう。明日も来る?」

「うん。いいの?楽しみだなぁ」

 由紀は何から何まで感激しっぱなしと言う感じだった。もしかしたら、自分も大学生になって学生生活を送っていたかもしれない。それを一時の間に満喫しようとしているかのようだった。

「なぁ、午後からも一本講義があるんだけど、由紀も行ってみる?」

「えっ、学生じゃない、あたしでもいいの?」

「だいじょうぶだよ。百人近くいてるから」

「当てられたりしない?あたし全然答えられないよ」

「あはは、それはまず無い。高校と違い、座ってるだけだから、絶対大丈夫」

 それから俺達は基礎発展工学の講座へと向かった。授業は、雛壇式の教室である。各座席から講義の内容が見やすくなっている。丁度全体の中央あたりの席を確保した。

 工学部の講義でも基礎系なので六人ほどの女子もいる。その中に由紀が混じっても違和感はまったく無い。

「すっごいねーこの雰囲気ってまさしく大学なのね。高校じゃぁこんな教室も人数もいないものね」

 由紀は大変満足の様子だった。一応テキストとノートも広げてやる。やる気満々なのが判る。

 今日のテーマはレーザーの基礎物性だった。担当の講師が入ってくる。例の教授だ。プロジェクターの調整後、ワイヤレスマイクのテストを行い始まった。由紀は、それにも驚いたようだった。目が丸くなっている。

 原子構造から、いかにしてレーザー光線が出来るかの解説が続く。バンド図から、電子の動きと軌道レベルの話。図や表を使って比較的判り易い講義が続く。

 そして、終盤になって、異変が生じた。

「で、このような高軌道から低軌道に電子が落ちる時に、光、つまり電磁波を発生する。これがレーザー光源の元と言うわけだ。もちろんポンピングによって逆もありうる。さて、このような原理を利用したものに、レーザー以外で何かあるか、知ってる者はいてるか?」

 通常このような質問は、稀にしかない。一種の緊張を維持する為のテクニックだ。

「えーっと、そこの、可愛い女子、何か思いつくものはないかな?」

 全員の視線が由紀に集中する。教授もスライド棒で指している。俺は、一瞬凍りついた。しかし由紀なら無難に『わかりません』とか、臨機応変に切り抜けてくれるだろうと思いもした。しかし。

「だぶん・・・原子吸光分析なんかも、そうじゃないでしょうか?」

 俺は唖然としたのは言うまでもない。

「おう、そうだ。そのとおり、活性状態の原子は吸収も行なう。そう言うことだな」

「はい、特定の物質は、その光に合った光を吸収して再びエネルギーを得ますから。先ほどの解説と逆の動きですね」

「うん。ナイスな回答だ。拍手」

 教室の全員から拍手が沸き起こる。

「では、その横は南条君だな。君は何かあるか?」

 まいった、こっちまで予想外の展開に巻き込まれている。

「じゃぁ逆に原子発光分析も同じ原理ですね。レーザーや吸光との違いは単一物質ではなく不特定多数の対象物をプラズマ活性させ、それぞれの発光を分光計器で観測できます」

「そうだ。そのとおり、君は拍手はいらんだろ」

 教室から笑いが起こる。

 由紀を見ると、親指を立てて、嬉しそうな笑顔で合図してくる。

 講義が終わり、俺達は急ぎ退出しようとしていると、教授がやってきた。

「いやー的確な回答だったよ。うちのゼミに、こんな可愛い子がいたとは知らなかったので、つい質問してしまった」

 由紀は『あのー』と、言いかけた。

「教授、すいません。彼女は農学部の生植物系の専攻なんです。おもしろくて、熱心な教授の講義があるからと、誘ったんです」

「そうだったか、しかし農学部もレベルが高いんだなー」

「いえ、偶々です。この前、農業試験所へ見学に行ったとき、最新の分析装置が入ったって、そこの担当者が得意になっちゃって原理を教えてくれたんです」

「そうか、しかし感心だな。こんな熱心にワシの講義を聴いてくれるのは、ありがたいよ」

「いえ、こちらこそ。大変参考になりました。ありがとうございます」

 由紀は深く頭を下げ礼を言った。

 その後、教授が出ていった後、俺たちは笑いだした。

「智史、当るなんて絶対無いって言ったじゃない」

「ああ、そうだった。ほんとに普段は無いんだ。それより由紀、どおして知ってたんだ」

「さっき話した通りよ、この前ね、土壌分析で試験所行ったのよ。そしたら頼みもしないのに、担当の人が、すっごく得意になっちゃって、分析の原理を話し始めて、断るのも悪いから、あたしも真剣に聞いたの。そしたら、今日の講義、同じことやってるって判ったの・・・」

 由紀は、お腹をかかえて笑いころげていた。

「その担当者に感謝しなくっちゃなーよっぽど高い装置だったんだろうな」

「うん。数千万したって。だから、少しでも恩恵を得ようって、真剣に聞いたの」

「その価値はあったね。さすが数千万だ」

 その日は普段お酒なんか二人とも飲まないのに、ビールを何本か買って、由紀の名回答に祝杯を上げた。いつもは贅沢なので買わないが、少し高い惣菜も買って、肴にした。

 少し酔って赤くなった由紀が、いつも以上に可愛く思えた。


 次の日も大学に行き、由紀は図書館で時間を過ごした。昼になると、約束通り普段いつも行っている店に行くことになった。

 キャンパスの周りは塀で囲まれているが、何箇所か出入り口があり、その中の一つを抜け少し行くと、その店があった。

 ごく普通の駄菓子屋と菓子パン屋を一緒にしたような店舗で、パン、おにぎり、アイスクリーム、何種類もの御菓子を売っている。

 一番の特徴は、学生の為に、インスタントラーメンを作ってくれることだ。少々のモヤシと二切れのハムも付けてくれ、ゴマと青ねぎもトッピングしてくれる。これで百五十円である。

 そして、店内と店外にも多数の丸椅子が用意されており、学生が入れ替わり、昼時や講義の間等に来店していた。つまり、貧乏学生の食堂であり、カフェテリアである。いや、溜まり場と化していた。

 また、この店の名物は、経営している、おばさんと、おばあさんが人気でもある。何でも話しをし、時には、お金の無い者に食パンやおにぎりを、くれたりする。

「あら、南条君今日は彼女つれてるの?初めてじゃないのー」

「どーせ、ひっかけた子だろ。ほんと、お前らは、次から次ヘと・・・」

 ここのおばさんは、いたって普通のやさしい話し好きな人で。以前は大手商社の秘書をやっていたと言うことからも上品さがある。しかし、ばあさんは学生の間でも代々有名で、恐れられた人物であった。何着せぬ言い方と、キツイ言葉、暴言、なんでもありであった。

 そして学生と話すと漫才のように聞こえる。田舎から来た者は始めは引くが、関西圏は、お笑いの文化がある。そのうち対等な言い返し、ボケ、つっこみを覚え、コンビやトリオ漫才のできあがりである。

 そして関西では通常おばあさんのことをオバンと言う。しかし、このばあさん、前にドがつくのである。ドは、超とか、極とか、超越したものを表す。つまり、ドバンと、みんなから呼ばれている。

 最近では、それでも物足らず、超ドバンと言うのまである。正に超ド級である。この場合のドとは超越した戦艦のドレッドノートのドを取ったものであるが、たしかに、ド級戦艦のドバンであった。

「いや、違うんだ。こちら、俺の田舎でずっと一緒だった子で、休暇でこっちに来てるんだ。一応彼女です」

「由紀です。よろしくお願いします」

 由紀は深々と頭を下げた。

「ほーお子ちゃまの南条にも、そんなのいてたか、大人になったのー」

「おばあさん、彼女始めてなのに、びっくりしてるじゃない」

「そんなもんで、驚いてたら、子供は生めん」

 まーこんな調子で、永遠と続くのである。

 そのうち、いつものメンバーが段々集まりはじめた。由紀と俺は、塩ラーメンと、とんこつラーメンを頼んだ。そして次から次へと来る者に由紀を紹介し、由紀もその度挨拶をしていった。

「たしかに、こんな可愛い彼女がいてたら、来ないわなー」

常連仲間の一人がそう言った。由紀が不思議そうにしていると。

「南条は、合コンやコンパ。女が来る飲み会には、誘っても全然来ないんだ。まーその訳は、わかったけどな」

「そうなんですかぁ。少しは行けばいいのにね。あたし縛ってないんだけど」

「いや、お金が無かったんだ。いつも、こんなとこに来てるくらいだからな」

「こんなとこで悪かったなーなんなら貧乏人お断りってしよーか」

 と、ドバンがまた漫才を始めようとる。

 由紀がラーメンのメンを食べ終わったので、おにぎりを注文し、二つに分けスープの中に入れてもらう。俺は、そこに更に、お菓子のラーメンを入れる。これで触感が変わってまたいける。

「ほら、おまえら二人にプレゼントだ。心して食えよ」

 と、言いドバンは食パンを半分づつに切ってわたしてくれた。

「くそー老人に施しを受けるとは・・・いつか、金持ちになって、ここの商品全部買占めてやる」

 俺もいつものように応酬する。そして、このパンはバニラのアイスクリームを包んで食べるのである。

「デザートまで付いて、すごいねーもうお腹パンパン」

 これだけ食べてもまだ三百円まで行ってない。由紀も充分満足したようであった。

 そこへ、安田美貴と言う女子学生がやってきた。そして、いきなり俺の横の椅子に座ると、食べていたパンで包んだアイスを一口横取りして食べた。

「おっ美貴ひさしぶりじゃないか」

 男子連中から声がかかる。

「この女の子はだれ?」

「南条の彼女だってよーいいよなー」

「あっ、由紀って言います。よろしくお願いします」

「へーそうなんだ。南条君のね。由紀ちゃんか、いい名前じゃない。よろしくね」

 そして、俺のほうへ更に近づき、小声でささやくように言う。

「もう、やっちゃった?」

 俺は残りのアイスを口へ放り込んだ直後だったので首を左右に振った。

「えっ、お前ら長く付き合ってるんじゃないの?高校からって、さっき言ってたよなー」

 俺は、アイスとパンが口に入っていて、喋れなかった。

「そっか、ならまだチャンスは、あるのね」

「お前ら、さっきから、あーだこーだと、そんなの内緒だ」

 俺はやっと飲み込み、否定も肯定でもない答えでごまかそうとした。由紀は、それを見て小さく笑っている。

「あっねえねえ、今度の土曜日、あたしの誕生日で、家でこじんまりしたパーティーやるんだけど来ない?」

 と、美貴はみんなに向かって言った。

 この安田美貴、関西では名の通った安田医療グループの理事を親に持つ子息で、親族等も含め、大きな病院や、医療関係の会社を何社も一族で経営しているとのことであった。

 住まいは芦屋の六麓荘に有り、本当なら近場の令嬢が多く通う短大に行くところを、この大学の医学部に入った、少し変わった子であった。

 間違いなく、家は超ド級の資産家であるはずだが、別にそれを、ひけらかすことは無く。終始ごく自然な態度だった。その為、こんなところにも時々顔を出し、仲間とも飲みに行ったりもする。

「俺達みたいな貧乏学生でもいいのかー」

「ええ、だれでもウエルカムよ。南条君も来てよね」

「俺はちょっと・・・」

 俺は由紀の顔を伺った。

「由紀ちゃんも来ればいいのよ。それなら問題ないでしょ」

 再び由紀のほうを見ると、少し不安そうにしている。

「ねっねっ、そうしよう」

 と、言って由紀の手をとって誘う。美貴には、そう言うちょっと強引なところがあるが、そのくらいでないと医学は志せないとも思う。

 その夜帰ってから由紀が心配そうに言う。

「あたし、パーティー用の服なんて持ってきてないし、家にも無いんだけど、どおしよお」

「そっか、男はシャツにジャケットで簡単にできるけど、女の子は、そうはいかないよな。けど由紀は由紀だ、衣装なんて俺は気にしないよ」

「でも、お金持ちなんでしょ。かえって迷惑かかるかも。場違いなのがいてたら」

 由紀の考えもわかる。自分自身が何と見られようと、自分だけのことなら耐えれるし、他人と自分を比べて卑下するようなことはない。ましてや着飾って見せたいなんて思ってもいないはずだ。ただ、他人に嫌悪感を与えることをしたくないだけなのが、今まで付き合ってくると判る。

「そうだ、土曜日、大学も休みだから、行く前に服を買いに行こう。春休みにバイトしたのが手つかずで残ってる」

「そんなの、もったいないよ。智史毎日あんなに節約してるじゃない。それなのに、あたしの為に、お金使うなんて、とんでもないよ」

 俺は由紀の正面に座り、真剣に話した。

「俺はな、別に苦労してるわけじゃない。ただ、バイトも節約も、由紀との時間で使いたいから、そうしてるだけ。だから、今が、その時だと思うし、それで由紀が綺麗になって、喜ぶ姿が何よりの幸せって言うか、それ以外は、もったいないと思うだけだから」

「智史って、昔からそうなのよね、レコードのときだって・・・」

「その後、ワザと忘れて帰る由紀だから、俺だって・・・」

「バレてた?」

「そんな一手読みの小細工を見抜けないとでも思ったかー」

 俺達は、笑いだしてしまった。

「そうだ。パヴァーヌだよ。機会ができたんだから、行かなきゃな」

「舞踏会かぁ。でも、もったいないなー」

「ちょっとしたフォーマル用も、これから持ってないと、結婚式とかもあるだろうし、丁度いいんじゃないか」

 なんとか由紀をその気にさせて、とりあえず行ってから考えることになった。


 次の金曜日は講義こそ無いが、例の教授の研究室で機械系部門との共同研究の準備を行った。この時期になると、マイクロプロセッサが急速に世の中に出回り始め、これを使ったデジタルサーボの実験である。制御定数を可変にし、実際の動きから変化度合いを検出し、改めて定数を自らが変え、最適な状態にすると言う学習機能が実現できるかを検証するものであった。

 装置の配線が多く、これらを加工設置して行く。由紀も手伝い、細い配線材の切断とスリーブをしてくれていた。手先が器用なのは助かる。

「おーい南条、教授が農学部の女子を貸してくれってさー」

 ここに来るときに挨拶をしてきたが、早速何か思いついたらしい。別に叱られる訳でもないし、先日の印象から問題は無さそうだと思った。俺は作業の続きがあるので、由紀だけで教授室に行った。入試面接の時の部屋だった。

「おー由紀ちゃんだったね。これ、どう思う?」

 教授は部屋のあちらこちらに無造作に配置された植物を挿して言った。

「はぁーかなり酷いですねぇ。こちらのは重症で危篤かも。これはーこのままじゃ全滅必至って感じじゃないでしょうか」

「いやーまいったよ。お手上げなんだが。こっちの分野は素人そのものだからなー」

「新しい鉢と用土はありますか?」

「そっちの部屋の棚にあるはずだが・・・」

 それから由紀は各鉢の状態を細かく観察した後、一部の鉢の入れ替えと、植物の手入れを行なった。そして、配置も大きく問題があると言うことで、部屋事態の片付けと机やテーブルの配置変えを教授と二人での、てんやわんやが始まった。

 かなりの時間が経過した後、新たな鉢に入れられた植物等を最適な場所に配置していった。そして水を注しながら言った。

「教授、今から要点だけをお伝えしますから。ほぼ全部の鉢には硫黄系の肥料が入れてありました。元々日本の土壌は弱酸性です。ですから、あまり沢山入れると酸性が強くなりすぎます。ほとんどの植物はPH5からPH7までの間です。けどこのスイートピーなんですが、これはアルカリ性土壌でないといけないんですPH7以上PH8までです。後日石灰を入れてやって下さい。チューリップなんかもそうですからね」

 教授はメモを取り始めた。

「次に鉢の土入れなんですが、まったく下石がなかったです。つまり、鉢の一番底に入れる粒度の大きいものなんですが、これが無いと水はけが悪くなって、根も下の穴から出て、受け皿に水があると根が腐ってきたりします。できたら次回から底には粒度の大きいバラ土等を使ってください」

「メインの土は、鹿沼土や赤玉の混合。これで珪素、鉄、フルミニウムが補給されます。そして腐葉土なんかも適度に混合するといいですよ。あっそれと、バーミュキュライトかパーライト、それも少し混ぜると微小成分が補えます」

 教授と学生が入れ替わったようである。教授は熱心に名称や。手順を記録した。

「育成ですが、可愛そうな瀕死状態なのは観葉植物でアジアンタムです。この軸径ってすごく細いですよね。ですから直射日光に曝されると沢山葉があって給水が追いつかないんです。鉢は窓際より日陰に位置してください。後、根の張りすぎたやつは、大きな鉢に入れ替えましたからだいじょうぶでしょう」

「いやーさすが農学部だなー勉強になったよ。ありがとう。そうだ、担当教授に単位を加点してもらうよう進言しとくよ」

「いえ、いいんです」

「そうだよな。君みたいなのが落としてるのなんか、無いわなー」

 俺が入って行ったときには、全てが落ち着いて二人がコーヒーを飲んでいるときだった。由紀も教授も楽しそうに微笑んでいた。

 

 俺達は土曜日の午前中に駅の地下街に展開された大きなショツピングモールへやって来ていた。平行に二本の通りが限りなく長く続いており、その両サイドに様々な店舗が入っている。所々アクセントで広場が設けられており、噴水や川、光等でテーマが決まっているらしい。

 色々な店をウインドショツピングで回った。その中で、目に付いたワンピースがあった。肩出しで、涼しげなブルーと薄い水色のコントラストだった。店事態は、それほど高くないようなカジュアルな品々が多い。なぜか、これだけが場違いな感じで、高い位置に展示されている。

「由紀、あれ、どう思う?」

「すごくいいねぇ、けど高すぎるわ」

 値札の定価は五万六千円となっており、独特なプライスポップで三万二千円に訂正されている。確かに大金だった。

「いや、もうあれしかないよ。最高に似合うのは」

「ダメダメ。贅沢すぎるよ。あたし、そんなに持ってないから」

「俺が自分の為に買うんだから、もちろん俺が払うし」

「そんなの、おかしい」

「もう一度、大判焼きのときの笑顔が見たいんだ」

 そんなやり取りを暫く続けていると、品のよさそうな店員がやってきた。

「いかがですか?試着してみます?」

「いえ、結構です。とても買える値段じゃないので。すいません」

 そうすると店員は、少し考える素振りをしてから言った。

「この商品ね、うちじゃぁ売れないのよ。もともと間違って入荷したんだけど、返品もできなくって。だいたい高くっても八千円くらいまでの品揃えでしょ。これは完全に場違いって感じで」

 更に店員は由紀を見て似合うか、考えているみたいだった。

「いいわ、あなたならピッタリのはず。一万五千円でどおかな?」

 俺達は驚いた。

「そんなに負けてもらって、いいんですか?」

「あなたに着てもらったら、この子も生かされると思う」

 由紀と俺は店員に深くお礼を言った。そして試着と言うより、着替えさせてもらった。

「やっぱりね。すごく似合ってる。これで清々したわ。でもこれじゃチョッピリ残念ね」

 店員は、更に続けて俺に言った。

「ここは彼氏にがんばってもらうしかないね。靴買ってあげてね。彼女とドレスの為にも」

 その通りだった。ワンピースのドレスにスニーカーはありえない。再度礼を言ってからその店を後にした。試着室で由紀が話したところによると、店員は、その店のオーナーだと言うことだった。

 つづいて近場のレディース用靴店に行った。ワンピースで安くしてもらったこともあって、似合うのを選んだ。ここでも値引きをしてもらって、パーティー用由紀の完成であった。

 ハイヒールも由紀には似合う。ほとんど背が変らないくらい高くなった。元々スレンダーで足が長いものが、更に強調される。

 本当はコートとか、バッグ、アクセサリーなんかも必要かもしれないが、今はこれで精一杯と妥協した。上着はジャケットを羽織った。

「ごめんね。いっぱいお金使わせちゃって」

「いや、一番喜んでるのは、悪いけど俺だから」

 最後に由紀が、誕生日なので何かプレゼントが必修だろうと提案して、アクセサリーみたいなものを物色した。この方面は俺には、まったくわからなかった。

 貴金属やアクセサリーの店で可愛い子犬のピアスを見つけた。

「美貴さんピアスしてたし、これがいいと思うけど」

「可愛いなー由紀も一つしてみたら。そのくらいだとまだお金あるし」

「あはは、あたしはダメよ、耳の穴開けてないから」

「えっ違うのか?」

「あたしの場合はイアリングよ」

 プレゼント用の包装をしてもらって準備は整った。


 美貴のパーティに行く大学の仲間とは駅で待ち合わせをしてあった。俺達以外はバイトの都合等で四人が参加、計六人だった。

 一応、どんなパーティか判らなかったので、学生らしく、それでいて不都合のない最低限の格好をしてきていた。

 駅からは、タクシーに分乗して六麓荘の安田と言うだけで判るとのことだった。家の前について俺達は驚いた。

 石垣で家が見えないのであった。表らしき方向へ回ってみると、大きな門があった。自動車用と人間用があり、そちらのほうは空いていた。俺たちは、恐る恐る周りを見回しながら中へ入っていった。

 広い庭が庭園みたいになっていた。その小高い丘の上に建物が並んでいた。奥のほうは和風の建屋で手前が洋式の形式になっている。そこに大きなホテル等にある車止めに道が繋がっている。

 プールは無いが、以前聞くところによると、プールが付いているのは成金のパッと出に多く、本当の資産家は、高級ホテルのプールや海外のリゾートに行くとのことだった。

 玄関前まで行くと執事のような人が何人かいて中へ案内された。これがお金持ちの家と言うか、エントランスホールだけで何十畳はあるだろう。さりげなく飾られた装飾や生花が次元の違う別世界を醸し出している。

 そこから横へ入ったところにイベントホールとガーデンテラスがあり、そこがメイン会場と言うことだった。既に何人もの来客や親族がそれぞれに寛いでいる。

 たしかに内輪のこじんまりしたパーティと言われたが、一般庶民のレベルではない。硬いモーニングで正装した人は見当たらないが、カジュアルに決めている。さりげないが高級感は隠せない。

ただ、女性は別だ。パーティー用ドレスやブランドの華やかなスーツ姿が多い。由紀に買ったワンピースのドレスも違和感は無いだろう。

 由紀は入り口で執事のような人に上着のジャケットを預けるよう勧められ、既に溶け込んでいた。

「やっぱり違うねーなんだかドラマや映画の世界じゃないか」

 一緒に行った仲間の学生が言う。

「向学の為に、上流階級ってのは、どんなものか体験してみよう」

「そうだな、金持ちになったときに困らないようにな」

 俺達は奥へと進んでいった。そして窓の隅に美貴が、結婚式のイブニングドレスのような一際目立つ格好で何人かと談笑していた。俺達は集団になったまま、その前へ行った。

「みんな来てくれてありがとう。なんだかね、こんなのイヤだって言ったんだけど。こうなっちゃった」

 少しテレた仕草でにっこり笑いながら、そう言った。俺達は、それぞれ祝いの言葉を述べた。

「美貴さん。お誕生日おめでとうございます。本日はお招き頂、感激です」

 由紀も丁重に挨拶をする。

「由紀ちゃん、来てくれてありがとう。これ見てよ、どうみたって見世物でしょ」

 由紀の手を取り、しみじみ言う。これはもう、披露宴の一場面そっくりだ。

「あの、これ智史と、あたしからの誕生日プレゼントです。美貴さんの好みに合うかわからないんですけど」

 と、言い今日買ったプレゼントを渡した。

「えっありがとう。これ開けていい?」

 そう言うと奥へ行き、既にしていたピアスをプレゼントのものに変えてきた。

「どお、ピッタリね。これ由紀ちゃんが選んでくれたの?」

 俺は何か言おうとしたが、

「いえ、あたしはセンス無いんで、智史が選びました。美貴さんには、これが合うって」

「感激。可愛い子犬なんて、初めてよ。嬉しいわ。ありがとう」

「安物で申し訳ないけど。美貴にはピッタリだと思うよ」

「ううん、智史のチョイスだから、宝物にするよ」

 その後、スパークリングワインによる乾杯や誕生日ケーキの蝋燭消し等、色々なイベントを挟み楽しい一時が進んでいった。

 会場はブュッフェ形式の立食スタイルだったが、ふかふかのソファーも多くあり、思った割りに疲れることはなかった。

 しばらくすると、由紀と美貴が膝を付き合わせ、楽しそうに話をしているのが目にとまった。そして、二人でどこかへ消えて行った。

「智史ね、あたしが何度も誘ったりしたんだけど、全然乗ってこなかった」

「そうなんですかぁ」

「あたしね、思ってた。どんな女性がいても、彼を活かせられるのは、あたしが一番だって。一人の女としてね。けど、そうでもないんだって判った。由紀ちゃんを見てね」

「えっ、どう言うことなんですかぁ」

「その指輪」

 由紀は恥ずかしそうに、指輪を隠すように手を添える。

「それ、彼から貰ったんでしょ。いつ頃だったの?」

「高校のとき、こっちに一緒に試験受けに来たときです」

「そうだよね、あたしなら、違うのねだるか、填めないかだと思うと、自分が相応しいなんて、恥ずかしくなっちゃったの」

 由紀の指輪は、贈られた始めこそピンクゴールドの輝きを放っていたが、長い間にメッキが剥げ、ところどころ地金が見えていた。

「だから、智史には、あなたが一番。それでいいって思う。今日から、あなたに負けないような女を、人としても目指して再出発するわ」

「美貴さん・・・」

「あはは、何も由紀ちゃんが、落ち込むことないのよ。あたしは至って前向きだから。そうだ、ねぇ、いいものプレゼントさせて」

 美貴は自分のジュエリーボックスから、イアリングを一組持ってきた。そして由紀の耳に付けてくれた。

「これ、高価なものなんですよね。悪いです。そんなことしてもらったら」

「あはは、由紀ちゃん、金持ちの気まぐれって思って。昔あたしが、してたやつだけど。今はピアスだから、付けないの」

「本当にいいんですか」

「このドレスだって、今日の為に買ったんでしょ。なら、これでもっと引き立てなくっちゃ」

「美貴さん、ありがとうございます。大切にします」

 この後、二人が、ホールの階段を並んで下りてくる。

「さぁ由紀ちゃん、舞踏会デビューよ。背筋伸ばして胸張って」

 まるで映画のワンシーンのようであった。由紀の付ける鎖状のイヤリング、美貴の付ける子犬のピアスが照明の光を乱反射して、全体の存在感を一段とアピールしているようだった。

 由紀の笑顔は、いつか見た大判焼きの時の顔だった。


 一ヶ月後、いつもの教授の研究室。

「南条君、あの農学部の女子、由紀ちゃんだったっけ、最近来ないのか?」

「はい、彼女は大学を去りました」

「えっ、何か問題でもあったのか?それは惜しい、損失だよ」

「家庭の事情とかで、色々あって。でも今彼女は、活き活き植物相手にやってますよ」

「そうか、まぁ、人それぞれ事情はあるからな。でも、さみしいな」

 まさしく由紀は短い期間で大学を卒業していった。初夏の風が吹き抜けるように。色々な人に暖かさを与えて。

 秋の後半、由紀から教授宛に、謎の植物が数株贈られてきた。窓際に配置するようにとなっている。そして名札には『女の子の匂いがする植物』と書いてあった。

 教授が匂いを嗅いだかは、定かでない。


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