第十四章
「いらっしゃいませ」
可愛い声が迎えてくれる。語尾をだらしなく伸ばさない、伸子よりも心地良い発声だと思わず感心していると、旗袍姿の少女が笑顔を振りまいて健太郎を席に案内した。
「ご注文は?」
何処の店にも看板娘はいるものだ。そう思いながら健太郎は例の名刺を少女に差し出した。手に取って怪訝そうな顔を露わにする。無理もない。
「お店のご主人に少しお話をお伺いしたいのだが」
少女は健太郎の言葉には上の空で、名刺に書かれている文字を必死に読んでいる。
「もしかしてお客さん、ノンのお兄さん?」
ここでもまたノンの名前を聞いてギョッとする。
「わたし、小玲。ノンの友達。ノンのお兄さんの頼み事だったら、何でもきくよ。ちょっと待ってて。父さん呼んで来るね」
そう言うと少女は中国語をまくしたてながら奥の部屋へと入ってゆく。今まで尋ねた店の中には、ろくに話も聞いてくれずに門前払いを食らった所もある。それを思うと、伸子のネームバリューと顔の広さに健太郎はまたも感謝さぜるを得なかった。持つべき物は妹だとつくづく思った。
奥から小玲の甲高い声と男の野太い声が洩れ聞こえてくる。健太郎はあの独特な強い語感の、傍から聞いているとまるで喧嘩ごしの中国語にどうしても慣れなかった。
「お待たせしました。私がこの店の主人です」
しばらくして滑らかな日本語を話す、小太りのいかにも人の良さそうな主人が現われた。
「お忙しいところすみません。実は……」
立って挨拶をし、今日何度も口にした言葉を再度発した。
「翔宇という人物ねぇ……私には心当りが無いが……少しお待ち下さい。厨房にいる者達にも訊いてみます」
そう言って店の主人が厨房に引っ込むと、またしてもあのせわしない中国語が聞こえてきた。きっと従業員に説明をしているのだろう。程無くして出てくると、健太郎と同じ年頃の男を伴って現れた。
「希慧といいます。彼がその翔宇について知っているというので……」
「そうですか! それはありがたい! 是非ともお話をお聞かせください」
健太郎は歓喜の声を上げて思わず両拳を固く握りしめる。
少しいかつい感じのする希慧は、油の染みが所々にこびり付いた白い前掛けで手を拭いて軽く頭を下げた。
「お安い御用ですよ」
笑顔は意外にも人懐こいものだった。
店主に促されて店の隅の卓に座ると、希慧は流暢な日本語でゆっくりと語り始めた。
……それは健太郎にとって、にわかには信じ難い話だった。
「ママ、お疲れさまでした~」
何だかんだと節子との世間話に花が咲いて、その日伸子はいつもより遅く店を出た。見回すと辺りはすっかり暗くなり始めている。こんな時、血相を変えて迎えに来そうな健太郎はというと、ここ二・三日、聞き込みと称して、朝から晩まで出ずっぱりで忙しい。帰りは迎えに行けないからと言い渡されていたので、伸子は独り気ままに、先日買った読みさしの小説を片手に持って、いつもの如く駿河台のゆるやかな坂を、ゆっくりとゆっくりと上って家路につく。
日中のあの暑さに比べると、朝夕の空気が少しだけ爽やかになってきた。季節は確実に移り変わっているなぁ、などと思いながらぼんやりと歩いていると、お茶の水の停車場から流れてくる雑踏の中に、見知った顔が混じっていた。
「賢芳ちゃ……」
言いかけて慌てて言葉を飲み込んだ。何故なら彼女が伸子の知らない男に肩を抱かれて楽しそうに歩いていたからだ。深紅の旗袍の胸元を飾る白い曇花。今日の賢芳はいつもの可愛らしさとは違って、何だか少し大人っぽい。連れの男も見るからにきちんとした洋装の、髪を真ん中からきちんと分けた紳士。すれ違いそうになって、伸子は思わず路地に引っ込んだ。
──まあね、賢芳ちゃん、美人だからモテるのもわかるけど。
翔宇という恋人を捜しながらも、若松や知らない男と仲良さげに歩いている……振り返って二人の後姿を見送りながら、伸子はそんな賢芳の心を量りかねていた。




