第十二章
中華料理店というものに長尾兄妹は生まれて初めて足を踏み入れた。二階建てのうち、一階は店舗として、二階は住居として使用しているらしい。黄金に縁どられた大きな看板を掲げた、中々立派な店構えだ。
店内には黒光りする見事な塗りの円卓が整然と並び、取り囲む壁面は朱色で統一されている。天井からは極彩色の豪奢な灯篭が吊り下げられて、まるで異世界に迷い込んだような錯覚に陥る。あまりにも強烈な光彩の世界に三人は思わず息を飲んだ。その中でも特に伸子の目を惹いたのは、店内のところどころに置かれている、これもまた見事な藍色の焼きの鉢植えに、零れんばかりに咲き誇っている、見たこともないいくつもの大きな純白の花。
「ねえ、賢芳ちゃん、この花になんていうの? すごく綺麗な花だね」
伸子は歩み寄って、そっと顔を近づける。満開の時を迎えた、幾重にも重なり合う細い花弁に支えられた、丸みを帯びたたくさんの花びら。そこから漂う、甘い馥郁たる香りを伸子は思い切り吸い込んだ。それは賢芳と同じ匂いがした。
「曇花というの」
「たん……ほあ?」
「そうよ。この花は夜にしか咲かないの。朝になるとたちまちのうちに萎んでしまう、一夜限りの儚い花。私の大好きな花よ」
「へえ~そんな花があるんだ。初めて知ったよ」
「伸子さんにもどうぞ」
そう言うと賢芳は曇花を一輪摘んで伸子の帯に挿した。地味な銘仙が途端にぱっと明るくなった。
「素敵よ。よくお似合いだわ」
「ありがとう、賢芳ちゃん!」
伸子は嬉しさのあまり賢芳の手を握りしめた。そんな微笑ましい二人に向かって若松がにこやかに話しかける。
「台湾を訪問された皇太子さまをもてなすために、時の台湾総督がこの花をご覧にいれた。その時この花の名を問われて、咄嗟に『月下の美人です』と答えたところから、日本ではこの花を『月下美人』と呼んでいるんだよ」
「へえ……素敵な名前だね。この花にぴったり。若松さんよく知ってるね」
「ケッ……その総督のおっさん、たかが花にすっげえキザな名前つけたな」
花なんぞにまったく興味のない健太郎がそう吐き捨てると、口をへの字に曲げた伸子のビンタが、すかさず背中に飛んだ。
「さあ、皆さん。お座り下さい。そして今夜はどうぞ楽しんでいって下さい」
片言の日本語と共に、彼女の両親が登場した。黒い艶やかな男物の旗袍が良く似合う恰幅の良い父親に、穏やかに微笑む母親。優しい両親のもとで何自由なく育まれてきたに違いない賢芳はにこやかに円卓に腰かけ、自分の左側に伸子、右側に若松、健太郎をその隣に座らせた。
「大毅、やっぱり送り狼になった訳か」
にやにやしながら健太郎は若松に耳打ちする。
「何とでも言え」
若松は顔を赤らめ、照れくさそうに言った。年の割に純なのがこの男の憎めないところだ。
「まあ、あんまり深入りするなよ。あの娘には翔宇というれっきとした恋人がいるからな」
「わかってるよ」
言いながらも、話している間中、若松の目はずっと賢芳にくぎ付けだった。その熱い視線に気づいて賢芳も蕩けるような笑顔を返す。
やれやれ、やってられんと健太郎は肩をすくめて、深くて大きなため息をひとつ、ついた。恋という熱病に侵されかけている奴に何を言っても無駄なのだ。
――面倒なことにならなきゃいいが。
ふと伸子に目をやると、出された中国茶の味に目を白黒させている。相変わらずバカだなぁと思いながらも、その幸せそうな顔を見ているだけで、何故だか健太郎の顔も自然と緩んでしまうのだ。
夜も更け宴はたけなわとなり、細工の施された芸術作品のような料理が際限なく次々と運ばれてくる。日本人好みに味付けされた逸品揃いに一同は舌鼓を打ち、話に興じ、歓声を上げ、「会華號」での至福の夕べは瞬く間に過ぎていった。




